説教「ただ信じる」

2015年6月14日 横須賀上町教会
聖霊降臨節第4主日

説教・「ただ信じる」、鈴木伸治牧師
聖書・申命記8章11-20節
    ルカによる福音書8章40-56節
賛美・(説教前)讃美歌21・356「インマヌエルの主イエスこそ」
    (説教後)讃美歌21・504「主よ、み手もて」


 本日は6月の第二日曜日です。この日を「子どもの日・花の日」と定めているのは、日本基督教団ばかりではないようです。この行事はアメリカの教会で始まりましたが、日本のキリスト教の各教派にも伝えられているようです。いつも5月の「母の日」には、私の日曜学校の出席をお話ししています。前月は5月10日が「母の日」でもあり、私の誕生日ということもあり、私とキリスト教徒の結びつきを証させていただきました。それが6月の「子どもの日・花の日」であります。1948年、昭和23年頃になりますが、私の母は病院に入院していました。今の横浜南共済病院です。昭和20年に日本の戦争が敗戦となり、戦争が終わったのですが、その後しばらくは、どさくさの生活でありました。私の兄を亡くしている母ですが、しばらく入院していました。ある日、見知らぬ子どもたちが病室に入ってきて、花を贈ってくれたのでした。おそらく「早く良くなってください」と言われたのでしょう。それが6月の第二日曜日であったのです。関東学院教会はバプテスト系の教派で日本基督教団ではありません。その後、しばらく入院していた母ですが、退院しますと、私を関東学院教会の日曜学校に連れて行ったのでした。花をもってお見舞いされたとき、どこの子どもたちか聞いていたのでしょう。日曜学校の先生に「花の日」の礼を述べ、これからはこの子が日曜学校に出席しますから、よろしくお願いしますと言っているのでしたと。ここから私の教会生活が始まるのです。
この時期になると、いつもこのお話しをさせていただいていています。「子どもの日・花の日」が私の原点でもありますので、私は現役在任中、「花の日」を大事にしていました。1979年9月に大塚平安教会に就任しましたので、翌年の1980年6月の花の日には、近くの病院へ子供たちと共に訪問しました。数年は続いたと思いますが、やはり宗教的な行事であり、病院の方も受け入れてくれなくなりました。受け入れてくれる病院がありましたが、寝たきりの人で、知的後退の人たちにお花をあげるようになったのです。それでも意味があると思いますが、ほとんど反応がない人たちなので、教会学校としても行かなくなりました。大塚平安教会には二つの知的障害施設と関わっていますので、そちらの方に行くようになり、そこの利用者の皆さんも毎年待ちわびるようになっているのでした。大塚平安教会は、この日は教会学校と合同礼拝にしていましたので、子供たちは、まず施設を訪問し、施設の利用者に花を贈り、そして帰ってきてから大人と合同で礼拝をささげるようになっています。
スペイン・バルセロナに滞在しているときは、カトリック教会のミサに出席していました。教会学校の様なものはないようです。しかし、そのミサには親と共に出席する子供たちが結構いるようでした。だから神父さんも、子供たちがミサに参加できるようにしていました。子供たちを聖壇にあげたり、一緒に手を繋いでミサをささげたりしていました。小さい子どもたちも時には声を出していましたが、声を出しても一向に構わない姿勢を神父さんも、信徒の皆さんも持っているのです。
教会は教会学校を開き、子供たちの礼拝、また学びの時を持っています。教会学校を通して成長する子供たちをお祈りしたいと思います。こちらの教会は幼稚園がありますので、幼稚園の卒業生が教会学校に出席するのですが、幼稚園のない教会は教会学校を開いても出席者が少ないということです。そういう意味でも、こちらの教会は教会学校があり、出席する子供たちが与えられていることを感謝すべきことであります。教会学校を通して、「ただ信じる」子供たちを導きたいのです。

 旧約聖書申命記が今朝の示しとなります。申命記は「命」を「申」し渡す意味になりますが、本来の題は「言葉」であります。それは申命記1章1節に、「モーセイスラエルのすべての人にこれらの言葉を告げた」と記されていますので、申命記全体が「言葉」、それも神様の御言葉として示されているのです。奴隷の国エジプトからイスラエルの人々を解放し、神様の約束の土地、乳と蜜の流れる国カナンを前にして、モーセは今日に至る神様の導きを示し、導きの原点に立ち返って、新しい土地での歩みを導いているのです。
 申命記8章11節以下が今朝の示しとなっています。「主を忘れることに対する警告」として人々にモーセが語っているのです。「わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい」と諭しています。「今日命じる戒めと法と掟」としていますが、戒めと法と掟は、今日初めて示されるのではなく、エジプトを出てシナイ山に宿営したとき、モーセが神様から十戒を与えられ、その時から「戒めと法と掟」が与えられているのです。十戒は人間の基本的な生き方を示しているのですが、基本の生き方ができない人々にとって、戒めとなり、法となり、掟となっているのです。その十戒の示しを守らず、神様のお導きを忘れることのないようにしなさいとモーセは諭しています。「あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい」と諭しています。人間は豊かになり、食べ物や生活の必要な物が困ることなく与えられることによって、神様の恵みを忘れてしまうのです。
 イエス様は、「心の貧しい人は幸いである」と教えておられます。物が豊かになると、心も豊かになります。自分にある豊かさは神様の恵みであることを忘れてしまうのです。その意味で、例えば物が豊かであっても、心を貧しくして神様の恵みをいただくことが大切なことであると示しています。何よりもあなたがたの原点に立ち返りなさいということです。「主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導きだし、炎の蛇とさそりのいる、水のない渇いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった」と示しています。苦しいことがあったとしても、あなたが幸福になるための訓練であったとしているのです。それに対して人々はどうであったか。飲む水がないと言ってはモーセに詰め寄りました。食べるものがないと言ってはモーセに抗議していました。人々はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てます。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れだし、この全会衆を飢え死にさせようとしている」と抗議したのです。しかし、今振り返って、誰が飢え死にしたのか、誰が水がなくて渇き死んだのか。誰もが神様の恵みをいただき、約束の土地の前にいるのであります。「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならないのです。「富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである」とモーセは人々に示しています。だからこの原点、奴隷の我々を神様が救い出されたこと、恵みを与えて導いてくださっていること、常にこの原点に立って歩むことを示しているのです。この原点に立つならば、新しいカナンの歩みが祝福されるのです。決して、「主を忘れて他の神々に従い、それに仕えて、ひれ伏すことがないようにしなさい」とモーセは示しているのです。今の生活は神様のお恵みによるものであり、その原点に立ちつつ歩むことを示しているのです。旧約聖書は、神様を「ただ信じる」ことを示しているのです。

 私達の原点は主イエス・キリストの十字架の救いであります。この原点が与えられているので、日々の歩みが導かれているのです。今朝の新約聖書ルカによる福音書8章は、十字架の救いはまだ記されていません。十字架の救いを完成する前に、人々の中におられるイエス様は、人々に関わり、求めるものにはお応えになられているイエス様なのです。8章40節以下56節までが今朝の聖書として示されていますが、二つの出会いの出来事が示されています。一つは、会堂長ヤイロの娘の癒しであり、もう一つは、12年間病気の女性の癒しであります。この二つの出来事は、主イエス・キリストが人々に深く関わっていることを示されるのであります。後にこのイエス様の姿勢が私達の原点となっていくのです。
 8章40節に、「イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである」と記されています。どこから帰って来たのか、それは前の段落に示されています。湖の向こう岸から帰って来られたのでした。ガリラヤの人たちは、湖の向こう岸の人たちとは異なり、イエス様を歓迎して迎えています。それに対してイエス様も一人一人に深く関わろうとしているのです。そこへヤイロという会堂長がやってきました。ユダヤの国はユダヤ教の会堂がそれぞれの土地に建てられています。その会堂の責任者ということでしょう。このヤイロの娘が病気であり、しかも死にかけているというので、ヤイロはイエス様に娘のところに来ていただきたいとお願いしました。お願いすると、イエス様はすぐにヤイロの家に向かうのです。ところが向かう途上、一つの出来事が起きました。イエス様が立ちどまり、あたりを見回しているのです。ヤイロとしては、こんなところで立ちどまらないで、早く自分の家の娘のところに来てもらいたと思っています。
 イエス様は立ち止まって周囲を見回しているのです。実は一人の女性がイエス様の服の房に触れたのです。この女性は12年間病気であり、今までいろいろな医者に診てもらいましたが、治してもらえず、全財産を使いはたしていたのであります。この女性はイエス様の服に触れさせていただければ治ると信じていたのです。女性がイエス様の服に触れると、イエス様から力が出て行ったということです。それでイエス様は、御自分に触れたのは誰かと立ちどまって周囲を見まわしておられたのです。女性はふるえながらイエス様の前に進み出ました。ふれた理由と癒されたことを皆の前でお話されました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と祝福したのであります。ここではイエス様に原点を求めた女性が祝福されたことが記されています。「ただ信じる」姿勢です。
 そのようなことがあって、少し遅くなりました。そしたらヤイロの家から使いが来ました。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません」と使いの者は言うのです。それに対してイエス様は、「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」とヤイロに言われ、ヤイロの家に行ったのであります。そして、死んだとされている娘に向かって、「娘よ、起きなさい」と呼びかけました。すると娘は起き上がったのでありました。ルカによる福音書8章に記される二つの出来事は、イエス様に原点を置くことの予告として示しているのです。12年間病気の女性は、せめてイエス様のみ衣に触れさせていただければとイエス様に近づいたのであります。それに対して、ヤイロの娘の場合、「お嬢さんは死にました。この上、先生を煩わすことはありません」と言われているのに、イエス様が進んで娘のところに行き、癒しを与えたのです。イエス様が深く関わってくださることを示しているのです。このことはイエス様の十字架の救いを示しているのです。十字架に向かって手を差し伸べることによって救いが与えられるということです。そして、十字架はイエス様が私たちに深く関わるために、イエス様が十字架により手を差し伸べてくださっていることを示しているのです。十字架が私達の原点であることを示しているのであります。この十字架の信仰を、「ただ信じなさい」と示しているのです。

 先ほども大塚平安教会が関わった二つの施設に、「花の日」には教会学校の子供たちが、お花をもって訪問していることについてお話ししました。子供たちとマイクロバスで行きますと、施設の利用者たちが庭で待っています。利用者の皆さんが庭に出てきていますが、その皆さんにお花を一本ずつ差し上げます。そして、讃美歌「いつくしみ深き」を一緒に歌うのでした。「いつくしみ深き」は礼拝においていつも歌っていますので、利用者の皆さんはすっかり覚えているのです。その後、綾瀬ホームは木曜日の礼拝、さがみ野ホームは金曜日の礼拝であり、その礼拝に私が行きますと、利用者の皆さんは、「今度、いつ来る?」と聞いています。まだ一年先のことですが、「また、今度ね」と言うのでした。二つの施設で礼拝をしていますが、それぞれの利用者の皆さん、毎週の礼拝を重ねるうちにも、信仰が導かれているのです。お祈りの時にはしっかりと手を合わせ、讃美歌も大きな声で歌っています。理屈は要らない。「ただ信じる」皆さんを示されていました。
 キリスト教の教会は主イエス・キリストの名が置かれています。プロテスタントの教会は、教会の内部、礼拝堂にはキリストの像も聖画も飾られていません。その点、カトリック教会はたくさんの飾り物を通してイエス様の救いを示しているのです。プロテスタントの教会の礼拝堂には、何も飾られてなく、置かれてはいません。見える形ではおかれていませんが、この教会の中には主イエス・キリストの名が置かれているのです。イエス様の名とは、十字架による私達の救いです。この私のために十字架にお架りになり、私の中にある自己満足、他者排除を滅ぼしてくださったのです。「あなたの信仰があなたを救った」と私たちもイエス様から祝福されたいのです。「ただ信じる」人生を歩みましょう。
<祈祷>
聖なる御神様。救いの原点を与えてくださり感謝します。救いの喜びを、特に子供たちに示させてください。主イエス・キリストの御名によりおささげします。アーメン。