説教「真の喜び」

2015年6月21日 六浦谷間の集会
聖霊降臨節第5主日

説教・「真の喜び」、鈴木伸治牧師
聖書・エゼキエル書34章1-6節
    使徒言行録8章26-38節
     ルカによる福音書15章1-10節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・164「こひつじをば」
    (説教後)讃美歌54年版・517「われにこよと」


 前週は6月の第二日曜日であり、キリスト教の教会は「子どもの日・花の日」という行事を行う教会が多くあります。これはアメリカの教会から伝えられたことですが、この日は教会に花を飾り、多くの子供たちを教会に招いたということです。この日には子供たちも花を持参して教会に出席し、礼拝後はそのお花をもって病院や施設を訪問するのでした。その様な行事と共に、教会は教会学校と合同で礼拝をささげています。前任の大塚平安教会時代も合同礼拝をささげていました。そして礼拝に出席した子供たちを大人の皆さんが拍手しつつ励ましていました。教会に出席することは喜びである、その様に子供たちがうけとめるようになることです。
 その様な意義あることを示されつつ、毎月第二日曜日は横須賀上町教会の礼拝説教、聖餐式を担当いたしますのでまいりました。礼拝前には教会学校が開かれています。そんなに多くは出席していませんが、教会学校で過ごしている子供たちを見ることになります。すると、その日は多くの中学生、高校生が出席していました。30名くらいは出席していたと言われます。横須賀市内にあるキリスト教主義の学校が、この日に生徒を教会に出席させたのです。いつもは子供たちと触れ合いつつ教会学校が開かれていましたが、凄いことになっていました。生徒たちは、とにかく教会に出席しなければ単位をもらえませんので、言われるままに出席することになるのです。中学生は教会学校でも良いのですが、高校生は大人の礼拝に出席したらよいと思います。それでも大人の礼拝には3人の生徒が出席していました。6月の第二日曜日はこのようにしているということですが、それでは昨年は誰も来なかったと思います。昨年までは市内の別の教会が紹介されて、その教会に生徒たちは出席していたようです。ところが、今年はその教会は、この日に限って出席することを断ったということでした。それで、今年は横須賀上町教会に大勢の生徒が出席することになったのです。キリスト教主義の学校は生徒が教会に出席するよう励ましていますが、進んで出席する生徒はいないのです。それで授業の一環として教会出席があるようです。
 大塚平安教会時代もキリスト教主義の学校に通う子供たちが出席していました。それは横須賀の学校のように、ある一日に集中するのではなく、例えば夏休み中にどこかの教会に出席するという指導が多いようです。キリスト教主義の学校は横浜市内に集中しており、大塚平安教会の周辺にはないのですが、それでも綾瀬。海老名、座間からキリスト教主義の学校に通う子供がおり、時々、礼拝に出席したというサインを求められていました。その様な指導が良いと思いますが、ある日の一日に集中して生徒を教会に出席させるのは、教会としても困ってしまいます。その日の生徒の出席を断った教会は賢明であったと思います。キリスト教主義の学校の方で、取り組みを検討する必要があると思います。教会としても子供たちが礼拝に出席することは大きな喜びです。しかし、どやどやとみんなで出席するようでは、何の意味もないということです。子供たちが教会の礼拝に出席する喜びのために学校も子供たちも取り組まなければならないのです。神様が私たち一人の存在を大事にしてくださっていることを、子供たちに示したいのです。

 「わたしがあなたを忘れることは決してない」(イザヤ書49章15節)と神様は言われます。神様を忘れてしまうのは人間であり、神様は私達の存在を決して忘れないのです。それなのに、「主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた」と人間は言うのです。苦しいことが続き、いつまでたっても思うように行かないとき、神様は私を忘れたのだと思うのです。そうではありません。神様は私を決して忘れないのです。苦しい時、助けてくれないと思ってしまいますが、それでも助けられて生きていることを忘れてはならないのです。
 今朝の旧約聖書エゼキエル書を通して、神様の導き、決して忘れないでお導きくださる神様を示しています。エゼキエル書は聖書の国、南ユダがバビロンに滅ぼされ、多くの人々がバビロンに捕らえ移されましたが、捕われの人々に神様の御心を示しています。捕囚と称していますが、奴隷として生きるようになったということです。エゼキエルもバビロンに捕らえ移された一人でありますが、そこで神様の召命、使命をいただくのです。捕囚として苦しく、悲しく過ごしている人々を慰め、希望を与えるのです。この捕囚はいつまでも続くものではなく、必ず神様の導きがあり、再び都エルサレムに帰ることを人々に示すのです。
 今朝の聖書は、そもそも捕囚としてバビロンに連れて来られた理由を示しています。このエゼキエル書34章は「イスラエルの牧者」と標題に示されますように、神様が羊、すなわち捕われの人々の牧者となり、緑の牧場に導くことを示しています。その前に人間の牧者、すなわち指導者達ですが、指導者達の至らぬ姿がこの現実の結果になったことを示しています。「人の子よ、イスラエルの牧者たちに預言し、牧者である彼らに語りなさい」とエゼキエルは人間の牧者への神様の御言葉を示されます。「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない」と厳しく述べます。指導者達は人々を導き、守り、安全に生きるようにすることです。それらをすることなく、自分達の良き歩みしか考えていなかったのです。当時、大国の狭間にあり、右の大国に頼るのか、左の大国に頼るのか、真に神様の御心を求めることはしなかったのでした。その結果がバビロンに滅ぼされるということでした。指導者達の振る舞いが、結局は人々を地の全面に散らされる結果になったということです。「お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、過酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった」と指摘しています。これが牧者なのか、指導者なのかと問うているのです。
 エゼキエル書34章は、まず人間の牧者の悪い姿を指摘します。その上で、まことの牧者を示しているのです。まことの牧者については今朝の聖書として読まれませんが、34章11節以下に示されるのであります。「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、それを探すように、わたしは自分の羊を探す」と御心を示しています。「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」とまことの牧者は述べるのであります。神様の人間に対する姿勢です。「わたしがあなたを忘れることは決してない」と神様は言われています。

 まことの牧者が旧約聖書のメッセージであるなら、主イエス・キリストは、そのまことの牧者の実現でありました。今朝の新約聖書ルカによる福音書15章1節から10節ですが、ここには「見失った羊」、「無くした銀貨」のたとえを示し、尋ね求める牧者を示しているのです。そもそもイエス様がこのたとえをお話するのは、ファリサイ派や律法学者たちがイエス様を批判したからであります。彼らは時の社会の指導者でありました。この人たちもイエス様のお話を聞こうとしてきたのです。そこには徴税人や罪人といわれる人たちもお話を聞きに来ていました。指導者達は「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言うのです。徴税人は支配するローマのために税金を徴収する人です。しかし、人々はローマのために税金を収めたくないので、徴税人を悪者呼ばわりしていたのです。また、罪人と言われますが、当時の社会は因果応報的に物事を捕らえていましたから、病気であるということは、本人または家族や先祖が悪いことをしたから病気になったと思っているのです。体の障害等も同じです。従って、それらの人たちは社会的にも阻害され、片隅へと追いやられている人達なのです。イエス様はそれらの人たち、どのような人たちとも交わりを深めていました。指導者達がそのイエス様を批判しているので、たとえを通して神様の御心をお示しになりました。
 一つのたとえは「見失った羊」であります。百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った羊を探しまわるお話です。そして、ついに発見した時、その羊飼いはその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を集めて喜び会うというお話です。迷い出た羊を尋ね求めるのは、まさに主イエス・キリストなのです。だから徴税人や罪人と言われる人たちと交わりを深めているのです。社会の片隅に追いやられた人達なのです。「無くした銀貨」のたとえも同じ意味です。銀貨10枚を持っている女性が、家の中で1枚を見失ってしまいます。それで家の中を探し回り、ようやく見つけたとき、友達や近所の人たちを呼び、一緒に喜びあったというお話です。いかにも大げさなお話です。家の中で無くしたのであるから、今は見つけられなくても、いずれは出てくるものです。見つけたからと言って、何も大騒ぎして皆と喜び会うことはないと思います。しかし、ここで結びの言葉は、見失ったものが見つかった場合、「喜びが天にある」と言い、「神の天使たちの間に喜びがある」ということなのです。失われた存在が復帰するなら、天において喜びがあるということです。神様の喜びなのです。
 主イエス・キリストは、「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネによる福音書10章)と示されています。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。わたしは羊のために命を捨てる」とまで言われているのです。神様の御心から離れる私達を、自己満足と他者排除に生きる私達を、それは失われた存在になっているのですが、尋ね求め、再び神様の御心へと戻してくださるのです。「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」との神様の御心に導いてくださるのです。私達はなかなかその御心には生きられません。そのため、主イエス・キリストは十字架にお架りになられ、私達の罪なる姿を滅ぼしてくださったのであります。

 私達は失われた存在であります。私達は迷子の羊であり、どこかに転がって行ってしまった銀貨なのです。自分の思いのままに過ごしたい、好きなところに転がって行きたいとの思いがあります。好きなことができるでしょう。この時、見失った存在として、再び百匹に戻され、10枚の銀貨に戻された時、何か堅苦しいものがあるのでしょうか。もし、それが堅苦しいと言うなら、それは「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」との神様の御心であります。これは人間の基本的な生き方なのです。他者の存在を受け止めつつ生きることが人間の基本的な姿なのです。迷子になった羊も、無くなった銀貨も、一緒にいられなくて迷子になったということです。その場合、羊たちの群れも銀貨も、一人の存在を排除したのではありません。排除しなくても、この現代の社会には様々な状況があり、群れから離れていく問題があるのです。
 先日テレビで不登校の子供たちの新しい生き方を紹介していました。学校にはどうしても行きたくない子供たちがいます。大人である私たちにはその原因を理解することはできません。些細なことが原因で不登校になるのです。そういう子供たちを引き受けてくれる人々がいました。ひとつは旅館でした。不登校の子供たちです。学校に行かなくてもいいから、ここで働くことを勧めます。旅館ですから、接客業です。直接、お客さんに接しなくても、部屋の片づけをしたり、布団を敷いたり、その一つ一つの作業がお客さんに喜ばれることを知るようになるのです。自分のしていることは意味があり、人のためなんだと思うようになるということです。旅館の社長は不登校の子供たちの勉強も手伝っていました。専門家を呼んで学習指導をするようになり、不登校の子供たちも、このような勉強で学校卒業の資格が得られるので、一人で勉強するようになっていると報告していました。
 はみ出した存在を、無理に元の場所に戻しても、喜びは与えられないでしょう。だから、聖書も羊飼いが迷子の羊を見つけて99匹の羊の群れに戻したとは記していません。羊飼いは迷子の羊をかついで家に帰ってきて、そのまま、友達や近所の人々を呼び集めて、喜びあったということなのです。行間を読むようですが、この羊飼いは、迷子の羊に対して新しい生き方を導いたのでしょう。無くなった銀貨も同じです。無くした女性は家中を探し、ついに見つけたので、友達や近所の女性達を招いて喜びあったのです。その場合、残っている9枚の銀貨とは一緒にしないで、その喜びと共に、いつまでも握りしめていたのではないでしょうか。人間で言えば、新しい環境の場を提供し、喜ぶことができるように導いたのではないでしょうか。
 神様の御心をいただき、新たに置かれる場所において力強く導かれて行くことです。日々、同じ生活の繰り返しのように思えます。しかし、毎日、イエス様が私の存在を訪ねてくださっているのです。今いる所は昨日と同じ所ではありません。新しく御心を示されている所なのです。従って、今生きていること、「真の喜び」が与えられているのです。
 <祈祷>
聖なる御神様。私の存在を忘れることなく、導いてくださり感謝致します。いよいよ御心に歩ませてください。主イエス・キリストの御名によりおささげします。アーメン。