説教「すべての人々が祝福を得るために」

2015年6月28日 大塚平安教会
聖霊降臨節第6主日

説教・「すべての人々が祝福を得るために」、鈴木伸治牧師
聖書・ルツ記1章15-22節
    ルカによる福音書17章11-19節
賛美・(説教前)讃美歌21・361「この世はみな」
    (説教後)讃美歌21・567「ナルドの香油」


 本日の礼拝にお招きいただき、心から感謝しつつ講壇に立たせていただいています。2010年3月に退任して以来、今回で二回目の講壇であります。前回は2013年8月18日でした。もちろん、その時は今までの教会、私が在任していた時の教会であり、久しぶりとの思いで講壇に立たせていただきました。しかし、今回は久しぶりとの思いはありません。初めて伺う教会の講壇の様で、緊張しつつ臨んでいるのであります。このことは、久しぶりにこの地に参りましたが、よその土地に来たような思いです。いろいろと街並みが変わり、昔ながらの店なども変わっているのです。綾瀬のダイエーも異なる店になるようです。1979年にこの地に住むようになったとき、忠実屋と言う店でした。それからしばらくしてダイエーになり、いつも利用していました。桜並木にある「うおしち」も閉店になり、別の店になるようです。最初は「さくらストアー」でした。増田産婦人科のならびに丸正ストアーがありましたが、それ以前は「うえきストアー」でありました。今は店が無くなって住宅になっています。その様な店の様変わりをあげるときりがないようです。どこか知らない土地に来たような思いです。
 こうして時代と共に街の様変わりがありますが、久しぶりに皆さんとお会いし、お変わりなく信仰の歩みをされている皆さんをうれしく思っています。ほんとに昔と変わらないなあ、と思うのですが、お側によってお話しすると、やはり年月が経っているなあとも思うのでした。ですからあまり近くでお話しすると、年月を示されますので、近からず、しかし遠からず、適度な距離を置いてお話しするのがよろしいかと示されています。たとえ姿、形に変わりがあっても、信仰に生きる姿はお変わりなく、励まされているのであります。この新しい会堂と共に、さらに信仰が深められて歩まれるようお祈りしています。時が流れ、時代が変わりましょうとも、皆さんの信仰の姿勢は変わりません。大塚平安教会は新しい姿で、この地域に神様の御心を広めて参るのであります。私たちは神様の祝福をいただいて歩んでいるのであり、その祝福は私たちばかりではなく、すべての人々にも与えられなければなりません。新会堂を与えられたということは、一呼吸与えられて、新たなる取り組みが導かれ、すべての人々が祝福を得るために主の御用をしたいのであります。

 本日は日本基督教団の聖書日課から御言葉が示されています。聖書日課は「すべての人に対する教会の働き」とのテーマで聖書が選ばれています。旧約聖書のルツ記に起きましても、新約聖書ルカによる福音書に起きましても「外国人の救い」がテーマになっています。その様なテーマですが、本日の聖書から、神様の憐れみ、私たちへの神様の憐れみを示され、いよいよ信仰へと導かれたいのであります。
世の人々は神様に声を上げているのです。しかし、教会の招きと一致しないのです。私たちは神様の御心を人々に伝えているのですが、人々の求道と私たちの伝道とが一致しないこともあるのです。この時、改めて神様の大きな導きを示されたいのであります。神様は私たちが計り知ることのできないお導きをくださっているのであります。
 新約聖書マタイによる福音書の最初のところに、主イエス・キリストに至る人間的系図が記されています。イエス様は人間的な系図の中の存在ではありませんが、マタイは聖書の人々との関連として系図を記しているのです。この系図を見ると、4人の女性の名が記されます。タマル、ラハブ、ルツ、マリアとの名前が記されていますが、この人たちは女性です。その中でタマルとマリアさんは聖書の民族、イスラエル人です。マリアさんはイエス様のお母さんになります。そしてラハブとルツさんは聖書の民族ではなく、外国人であります。外国人もイエス様の系図の中に記されるということは、聖書は神様が世界の人々の救いに導くことを示しているのです。ラハブさんはエリコに住む女性でした。モーセの後の指導者、ヨシュアに率いられて、聖書の人々は神様の約束の土地、乳と蜜の流れる土地カナンに向かっていますが、エリコの町を通過しなければならないのです。ヨシュアは二人の斥候を遣わし、エリコの町を調べるのです。二人はラハブの家に入り隠れるのです。ラハブは二人の斥候に対して、神様があなたがたを導いていることを信じていると告げます。エリコの町の兵がラハブの家にイスラエル人が入ったはずだと調べにやってきます。ラハブは、確かに来たけれどもすでに帰って行ったと嘘を言います。実は二人の斥候を屋上にかくまっていたのです。そして、兵が行ってしまうと、ラハブは二人の斥候を窓から逃がすのでした。これらによってヨシュアはエリコを攻め、通過して行くのです。ラハブと家族は二人の斥候をかくまったので救われたのでした。そのラハブさんがイエス様の系図の一人にもなったということです。
 もう一人の女性は今朝の聖書の人です。この時代に飢饉が起き、ベツレヘムに住んでいたエリメレクと妻ナオミ、そして二人の息子は外国のモアブの土地に住むようになります。やがてエリメレクはモアブの地で死んでしまいます。二人の息子はモアブの女性たちと結婚しますが、二人の息子たちも死んでしまうのです。その後、飢饉が無くなり、故郷のベツレヘムも食べ物が与えられるようになったことを知ったナオミは故郷へ帰ることにしました。帰るにあたり、息子たちは死んでしまったので、それぞれのお嫁さん達に、自分の家に帰るように言います。それが本日の聖書です。一人のお嫁さんは帰って行きましたが、ルツというお嫁さんは帰ろうとせず、ナオミと共にナオミの故郷へ行くというのです。どうしても自分の家に帰らないルツと共にナオミはベツレヘムに帰って来たのでした。
 故郷のベツレヘムの人たちはナオミを見て声をかけます。故郷の人たちは久しぶりに見るナオミに「ナオミさんではありませんか」と声をかけたのです。するとナオミは、「どうかナオミと呼ばないでください。マラと呼んでください」というのでした。ナオミとは「快い」という意味なのです。名前はナオミでも、今はマラであると言います。マラとは「苦い」という意味なのです。夫にも二人の息子にも先立たれ、傷心の思いで帰ってきたからです。今、ナオミは悲しみを言いあらわしていますが、どこまでも一緒についてまいりますと言ったお嫁さんのルツによって、ナオミは真の「ナオミ」に導かれて行くのです。今日の聖書はナオミの悲しみしか記していませんが、この後、ルツは町の有力者と再婚し、子供が与えられるようになりますが、イエス様の系図に加えられて行くのです。「主がわたしを悩ませ、全能者がわたしを不幸に落とされた」とナオミは述べていますが、深い悲しみを神様に向かって発しているのです。ナオミの深い悲しみに対して、神様は息子のお嫁さんのルツを通して、救いを与える順序を導いておられるのです。お嫁さんのルツが救い主へとつながっていくのであります。神様の計り知れない救いの順序なのであります。

 こうして旧約聖書のメッセージ、神様の救いのお導きは計りがたいお恵みであるということを示されています。それは新約聖書の時代にも受け継がれて行きます。新約聖書ルカによる福音書は、聖書の人々であるユダヤ人がまず神様の御心を知るべきなのに、むしろ知ろうとしない聖書の人々を示しています。そして、外国人こそ真に神様の御心を示され、恵みに与っていることを示しています。聖書は、本来神様の御心をいただいて生きるのは、聖書の人々であるのに、聖書の人々ではない人々が救いの喜びをいただいていると示しているのです。
 イエス様はお弟子さんたちと共に都エルサレムに上る途中でした。サマリアガリラヤの間を通られたのです。サマリアは聖書の人々ユダヤ人にとっては外国になります。ある村に入ると、病気を患っている10人の人が、遠く離れたところから、イエス様に叫んでいます。病気を患っていますので、人に近づいてはいけないのです。「イエス様、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」とお願いしています。病気を患っている人々は、どうして「わたしたちを癒してください」とお願いしなかったのでしょう。「わたしたちを憐れんでください」とお願いしています。癒しは病気や部分的な痛みが治ることです。しかし、「憐れみ」といった場合、その人全体を受け止めてくださいということなのです。ここに「憐れみ」という言葉が出てきますが、まさに神様が私たちを憐れんでくださっているので、私の現実があるのです。
 「わたしたちを憐れんでください」と10人の病気を患っている人達はお願いしているのです。神様の御心の中に入れてくださいと求めているのです。それに対してイエス様は、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われました。聖書には病気であったり、怪我をした場合、祭司の証明が必要です。病気に関する規定はレビ記に細かく記されています。祭司は規定に従って病気の判断をするのです。規定通りに治っていれば、祭司の証明によって、社会に対して治ったことを宣言できるのです。10人はイエス様の言われた通りに祭司のもとに向かいました。イエス様の言葉を信じたので、行く途上で癒されたのでした。そのまま祭司のもとに行き証明されればよいのです、ところが一人の人は、自分が癒されたことを知り、すぐさま戻ってきました。そして、イエス様の足元にひれ伏して感謝したのでした。この戻ってきた人はサマリア人でありました。つまり外国人です。聖書の人々であるユダヤ人こそ神様の憐れみを感謝しなければなりません。祭司に証明されて社会の中で再び生活できるようになりましたが、そこには神様の憐れみがあったからです。「イエス様、私たちを憐れんでください」との叫びは応えられたのです。しかし、ここには、神様の憐れみを求め、憐れみが与えられると、その神様の憐れみを忘れてしまう人々のことも記されています。
 「神様、私たちを憐れんでください」と祈り求めている人々がいるのです。その祈りに応えるのが教会なのです。2010年3月に大塚平安教会を退任したとき、70歳になっていました。退任するのはまだ早いのではないかと言ってくださる方がありました。しかし、私は退任してよかったと思います。まだ余力がありましたので、外国を訪ねることができました。そして、その外国で、「主よ、私たちを憐れんでください」と求めている多くの人々に出会うことができたのです。2011年4月から一ヵ月半、バルセロナで過ごしましたが、滞在中にバルセロナ日本語で聖書を読む会と言う集いで説教させていただきました。この集いの中心になっている方はスペイン人と結婚しており、集いを続けています。いつも7、8名の皆さんの出席があります。その後2012年9月から二ヶ月、滞在しましたが、この集会の出席者は中心になっている方と娘の羊子の他はメンバーが変わっていました。皆さんは一時的にバルセロナに滞在していたのであります。バルセロナはほとんどカトリック教会であり、プロテスタント教会は限られています。ぜひ、礼拝に与りたいという皆さんなのです。そして、昨年の10月から二ヶ月半滞在しましたが、やはり集会のメンバーは変わっていました。その中に、かつて大塚平安教会の教会学校に出席していた女の子が、成長されて結婚し、お子さんと共にバルセロナで生活されておられ、お導きにより集会に出席されていました。サッカーに興味を持っている人はご存じであると思いますが、その教会学校に出席されていた方は、最近、お子さんと共に帰国しました。お子さんはバルセロナのサッカーであるバルサの育成選手であったのです。13歳で、日本に帰ってどこかのチームに所属して活躍しているようです。
 「主よ、私たちを憐れんでください」と求める人々を、受け止める人たちがスペイン・マドリッドにもおられます。マドリッド日本語で聖書を読む会を月に一度開いています。2011年に訪れて、礼拝説教をさせていただきましたが、今回も説教させていただきました。やはりメンバーが変わっていました。一時的にマドリッドに滞在している皆さんが、神様の憐れみを求めて集会を探し当てるのです。2013年3月から三ヶ月間、マレーシア・クアラルンプール日本語キリスト者集会のボランティア牧師に赴きましたが、毎週の日曜日の礼拝には新しい方が出席していました。礼拝をささげている場所はクアラルンプールの郊外にあり、わかりにくい場所ですが、何とか探し当ててこられるのです。これらの皆さんと接しながら、「主よ、私たちを憐れんでください」との切なる思いが伝わってくるのです。ですからバルセロナにしてもマドリッドにしても、クアラルンプールにしても、出席者は少なくても、神様を求める場として、集会を続けていく意味があるのです。
 大塚平安教会は新しい会堂があたえられ、「神様、私を憐れんでください」との人々の声に応える使命を与えられているのです。

 聖書の人々に対して、私達も外国人です。しかし神様の憐れみが私達に与えられ、今は主イエス・キリストの十字架の救いを信じる者へと導かれています。その信仰により、外国の皆さんとも親しくお交わりが導かれているのです。
 昨年の10月21日から今年の1月8日まで、スペイン・バルセロナで過ごしてまいりました。そのバルセロナには娘の羊子が15年前に渡り、アリシアラローチャ女史からピアノを指導され、今では各地で演奏活動をしております。その羊子が、結婚することになりましたので赴くことになったのでした。羊子はサグラダ・ファミリアのミサで奏楽をしていますが、そこの神父さんに相談してサグラダ・ファミリアで式を挙げることにしたのですが、羊子の父親がプロテスタントの牧師であることを知った神父さんが、それでは神父と牧師で司式をしましょうと提案してくれました。前代未聞の結婚式を経験させていただきました。結婚式は10月25日でしたが、羊子は翌日26日のミサの奏楽をしますので、私たちもミサに出席しました。昨日、一緒に結婚式の司式をした神父さんが私の出席を知り、ミサの終わりの祝祷を共にするようにと言うのです。結婚式の時はガウンを着ましたが、ミサにはスーツで出席しています。神父さんは初めてミサに来た人たちを前に招き、一人一人に祝福のお祈りをしているのです。私も祝福のお祈りをしなさいと言っているので、スーツ姿で祝祷をおこなうことに戸惑いがありました。私から祝祷を受けた人はありがたみがなかったのではないかと思いました。
 10月からバルセロナ生活が始まったのですが、折角ですからカトリック教会のクリスマスを体験するため、1月6日の顕現祭まで滞在しました。バルセロナではこの顕現祭の方が賑やかにお祝いされていました。もちろん、クリスマスのお祝いをしますが、クリスマス・ミサに出席し、後はクリスマスにちなんだ食事をする程度です。羊子は別の神父さんとも親しくしており、その神父さんのクリスマス・ミサの奏楽を依頼されていました。ですから私たち夫婦も一緒にミサに出席したのです。そうしましたら、その神父さんが、私にも一緒に神父さんとミサの司式をするように勧めるのです。折角ですから神父さんのガウンを借りて、一緒にミサを行いました。
 サグラダ・ファミリアのミサにしても、クリスマスのミサにしても、神父さんの裁量で
決められ、信者の皆さんは神父さんのするに任せているようです。これが日本の教会でしたら、こういうわけには行きません。だいたいプロテスタントの礼拝にカトリックの神父さんが加わるなんてことは考えられないことです。それこそ教会役員会で長時間議論しなければなりません。牧師が勝手に神父さんを礼拝に呼び込んで、共に礼拝をささげるということ等も考えられないことです。牧師が自由になんでも行うことを提案しているのではなく、カトリック教会の懐の深さを示されたのであります。そしてすべての人々がイエス様の救いを喜ぶ、その様な歩みをしていると示されたのであります。
 私たちは主イエス・キリストへと導かれています。今までの会堂を通して、喜びが与えられていましたが、この度、新しい会堂があたえられ、イエス様の救いの喜びを、さらに多くの人々にお知らせしなければなりません。「すべての人々が祝福を得るために」、私たち一人一人が選ばれているのです。「神様、私たちを憐れんでください」と叫んでおられる人々がいるのです。多くの人々をこの会堂なお招きしなければならないのです。新会堂と共に重大な使命を与えられていますので、いよいよ祈りつつ、皆さんのお交わりを深めつつ、神様のご栄光をあらわしていきたいのであります。 
<祈祷>
聖なる神様。すべての人を憐れみ、まず私たちをお救いくださり感謝致します。神様の憐れみをすべての人々に証しできますよう導いてください。主イエス・キリストのみ名によりおささげ致します。アーメン。