説教「祝福をいただく生命」

2015年7月5日 六浦谷間の集会
聖霊降臨節第7主日

説教・「祝福をいただく生命」、鈴木伸治牧師
聖書・エレミヤ書38勝7−13節
    ルカによる福音書7章11-17節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・166「イエス君は、いとうるわし」
     (説教後)讃美歌54年版・501「生命のみことば」


 前週は2010年3月まで、30年6ヶ月間、務めた大塚平安教会の新会堂献堂式でした。当日の朝の礼拝説教に招かれていますので、家を午前8時に車で出かけたのでした。礼拝は10時30分からですので、日曜日でもあり渋滞もありませんでしたので、9時には着いてしまいました。早く着きましたので、先に新会堂を見学させていただいたのでした。大塚平安教会といえば、私が勤めていた教会の佇まいですが、しかし、今は全く様変わりとなり、新しい教会になっています。新しい教会であり、なんとなく他所の教会の様でもありますが、名称は変わりなく大塚平安教会なのです。
 その辺りの心境は前週の礼拝説教の導入部分で述べています。「久しぶりに大塚平安教会の講壇に立ち、説教を担当するということでまいりました。しかし、今、こうして講壇に立つと他の教会にいるような思いになっています。緊張しつつ御言葉に向かっているのであります」と述べたものです。2010年に退任しましたが、その後2013年8月18日にお招きをいただき、説教をさせていただきました。その時は今までの教会でしたので、本当に懐かしい思いを持ちつつ御言葉を取り次がせていただいたのです。しかし、今回は大塚平安教会であっても新会堂であり、まさに緊張しつつ御言葉を取り次がせていただきました。しかし、新しい教会であったとしても、教会の皆さんは以前からの皆さんがほとんどです。その後新しい皆さんも加わっていますが、教会の皆さんは、その後も信仰の歩みを力強くされているのです。礼拝後の食事の様子、献堂式のために皆さんがそれぞれのご奉仕をされている様子を拝見しつつ、以前と変わりなく、信仰の証しをされていると示されるのでした。それと共に角田敏太郎さんが車椅子を用いながらもご出席になっているのを示され、再び信仰の証しを示されました。角田さんは大塚平安教会の草創時代から教会を担ってきた方です。乙幡和雄先生時代、そして鈴木伸治牧師時代の教会、そしてドレーパー記念幼稚園の歩みを担って来られたのです。今はご高齢になり、毎週の礼拝には出席できないでいますが、お家におられても教会の歩みを祈りつつ支えてくださっているのです。
 こうして久しぶりにお会いした皆さんを示されたとき、今朝の御言葉から「祝福をいただく生命」を歩んでいると示されているのです。新しい会堂を与えられ、さらに祝福をいただく生命へと導かれることをお祈りしているのです。2010年に私が退任してから、ご病気で入退院を繰り返す方がおられました。私の在任中はいろいろなご奉仕をされ、教会役員もされて力強く歩まれておられたのです。この度、お会いしたとき、昔と変わりなくご奉仕されていることを示されました。ご病気は回復され、全治されたと言われています。信仰に生きる方の祝福の生命の回復を示されたのでした。

 神様の御心を真に受け止めて生命が回復されるか、拒否して滅びるか、旧約聖書は意味深く示しています。エレミヤ書38章は預言者エレミヤが神様の御心を無視する人々によって殺されようとすることが記されています。聖書の国、南ユダは大国バビロン、エジプトの狭間にあって揺れ動いています。バビロンに包囲されている状況でした。そこにエジプト軍が南ユダを助けるために軍隊を差し向けてくるのです。それを知ったバビロン軍は一時包囲をとき、撤退するのです。しかし、エジプト軍はすぐに引き上げて行ってしまうのです。そのような状況の中で、エレミヤはかねてより、バビロンに降伏することを勧告していたのです。バビロンと戦うのではなく、降伏して生き延びるということです。指導者達はエレミヤの預言が面白くありません。それで、エレミヤを捕らえてしまうのです。指導者達は王様に、エレミヤがバビロンに投降するように人々を説得しているが、バビロンに対抗する人々の士気をくじいているとして殺すよう進言します。王様はそれに応じるのでした。そこで今朝の聖書になりますが、指導者達はエレミヤを水溜の中に落としてしまいます。水はありませんが泥が溜まっているので、いずれは死んでしまいます。それを知った宦官のエベド・メレクは王様に、エレミヤを助けるようお願いするのです。王様は願を聞き、水溜からエレミヤを引き出させるのでした。
 聖書はそこまでですが、エレミヤの預言に対する人々の対応が示されているのです。指導者達は、エレミヤがバビロンに降伏することを人々に言っていることが面白くありません。しかし、バビロンに降伏することは神様の御心でもあるのです。ここでエジプトの力を得てバビロンに戦いを挑んでも勝つことはできないのです。エジプトを頼りにしていますが、救援に来たと思ったら、すぐに帰ってしまうのですから、頼りにならない国でもあります。ここはバビロンに降伏して、人々が生き延びることが大切なのであります。しかし、人々は降伏という道を選ばないでバビロンと戦うつもりでいたのです。エレミヤの預言を拒否するということは、神様の御心を拒否しているということです。このような指導者の中で、宦官エベド・メレクはエレミヤの救済を王に願い出るのでした。ということはエレミヤの預言を真に受け止めているのです。
エレミヤ書39章ではエルサレムが陥落することが記されます。結局、南ユダの国はバビロンに滅ぼされるのです。それにより多くの人々がバビロンに奴隷として連れて行かれるのです。今、わたしは塩野七生さんが書いた「ローマ人の物語」を読んでいます。無名のローマが、次第に力を帯びて各地を征服して行くことが記されていますが、日本の戦国時代も同じようでありましょうが、古代の人々の戦いは、相手を殺すか奴隷にするか、数万人を殺しつつ征服して行く状況が記されています。エルサレムの陥落でも多くの人々が殺され、そして降伏したものは奴隷としてバビロンに連れて行かれるということであったのでしょう。39章15節以下に、宦官エベド・メレクへの約束の言葉が記されています。メレクが王様に願ってエレミヤを助けたからでした。18節、「わたしは必ずあなたを救う。剣にかけられることなく、命は助かって生き残る。あなたがわたしを信頼したからである、と主は言われる」と記されています。神様の御心に従うことで、生命の回復が与えられたのです。御心を信じなかった指導者をはじめとする多くの人々が生命を失いました。

 「生命の回復」としていますが、神様の御心に従いつつ生きることが生命の回復であるということです。聖書の人々は、結局バビロンに滅ぼされて奴隷にされるのですが、たとえ苦しい状況になろうとも神様の御心を求め、御心に従って生きようとするとき、そこには希望が与えられ、苦しみの中でも力が与えられるのです。それが生命の回復ということです。信仰に生きるということなのです。
 新約聖書ルカによる福音書7章11節以下です。「やもめの息子を生き返らせる」ことが記されています。死んだ者が生き返るという驚くべきことが主イエス・キリストによってなされました。まさに生命の回復でありますが、死人の甦りを通して、イエス様ご自身の復活を示しているのです。復活のイエス様による新しい生命の回復へと導かれているのです。11節の前の段落ではイエス様が百人隊長の僕を癒されたことが記されています。病気で死にかかっていた百人隊長の僕に、イエス様はそばには行かないで、イエス様の言葉を与えて癒しているのです。そして、今朝の聖書は、イエス様は死んだ息子の棺に手を置いて生きる者へと導いているのです。
 イエス様はナインという町に行かれました。お弟子さん達、群衆も一緒でした。葬儀の行列に出会います。夫を亡くした女性の一人息子が死んでしまったのです、棺が担ぎ出されるところでありました。イエス様は悲しみにくれる母親を見て哀れに思われ、「もう泣かなくてもよい」と言って慰めるのでした。そして、棺に手を置き、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と声をかけます。すると死んだ若者は起き上がってものを言い始めたのでありました。この状況を見た人たちは神様を讃美し、「大預言者が我々の間に現れた」、「神はその民を心にかけてくださった」と言うのでした。そして、この出来事は周りの地方一帯に広まって行ったと記しています。
 ルカによる福音書は、この後、18節から洗礼者ヨハネの質問にイエス様がお答えになることを記しています。洗礼者ヨハネはイエス様より先に人々の前に現れ、神様の御心に従って生きるよう、悔い改めなさいと教えたのです。そして悔い改めた人々はヨハネから洗礼を受けたのです。イエス様もこのヨハネから洗礼を受けています。人間は罪ある存在として、イエス様は洗礼を受けたのでした。その時、ヨハネは躊躇します。まことの救い主であることを知っていたからです。ところが今朝の聖書の後の部分、7章18節以下には、ヨハネがイエス様に確認しているのです。ヨハネは自分の弟子をイエス様のもとに遣わし、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねるのです。ヨハネの弟子が、イエス様が死にかかっている百人隊長の僕を癒したこと、ナインの女性の一人息子を生き返らせたことをヨハネに知らせたので、改めてイエス様の存在を確認したのです。
 ヨハネの質問にイエス様は答えています。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、病気を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」と言うことをヨハネに知らせなさい、と言われたのです。主イエス・キリストにより、目の見えない人は見えるようになり、耳の聞こえない人は聞こえるようになりました。病気が癒され、死人が生き返っているのです。ヨハネによる福音書9章に「生まれつきの盲人の癒し」について記されています。イエス様によって目が見えるようになった青年に、人々は不思議な思いでいます。「どうして見えるようになったのか」と言うのです。イエス様が「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」と言われた時、そこにいたファリサイ派の人々は、「我々も見えないということか」と抗議します。イエス様は「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」と言われたのであります。私達は見えると言っていますが、自分の好みのものしか見ていないのです。イエス様と出会うことにより、自分の気持ちではなく、見なければならないことを見るようになるのです。自分の好みの音ではなく、聞かなければならないことの声が聞こえてくるのです。死者について言うなら、確かに私達は生きている存在です。しかし、本当に生きているのか。生きているものは喜びと希望を持って生きることなのです。人々と共に喜びつつ生きることです。イエス様との出会いにより、本当に生きた者へと導かれるのです。「生命の回復」が与えられるのです。生命の回復が与えられていると、今の状況が苦しくても、悲しくても、常に喜びつつ歩むことができるのです。

 「生命」は人が生きていることでありますが、聖書では生命をZOEとしています。ゾーエーは「生命」ですが、そこには「永遠の生命」の意味も含まれているのです。「生命の回復」は永遠の命への道が回復されるということです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書3章16節)と聖書は示しています。主イエス・キリストの十字架の贖いを信じることが、生命の回復であり、永遠の生命へと導かれるのです。
 前週は大塚平安教会の講壇に立たせていただき、今朝「祝福をいただく生命」として御言葉をいただくとき、大塚平安教会時代に生命の回復を与えられた皆さんを心に示されています。7月に召天された皆さんは生命の回復を喜びつつ歩まれました。7月1日に21歳で召天された笠倉正道さん、やはり7月1日に召天された石原美保さんは87歳でしたが、礼拝には喜んで出席されていました。帰るときには、教会の玄関にいる牧師に、「良いお話をしてくださり、ありがとうございました」と必ず言われるのでした。ほとんどの方は何も言わないで帰られるのですが。7月15日に82歳で召天された津曲文子さんはお連れ合いが召天された時、ご子息の反対を押し切ってキリスト教の葬儀をなされました。お連れ合いは信者ではありませんでしたが、生命の回復が与えられていたと確信されていたのです。ご自分の教会生活をお連れ合いが御理解されていたからです。葬儀が終わったとき、反対されていたご子息に喜びが湧いたのでした。そして津曲文子さんが召天された時、ご子息はすぐに牧師に連絡されたのです。主イエス・キリストに向かうことは生命の回復に導かれることを証しされたのでした。その他、7月2日に82歳で召天された八木幾重さん、7月14日に73歳で召天された齋藤慎子さんを示されています。今は7月ですので、7月に召天され、生命の回復を与えられて、永遠の生命へと導かれた人を示されていますが、一年間を示されるならば、多くの証人を示されるのです。
 「祝福をいただく生命」は主イエス・キリストの十字架の救いを信じて歩むことです。この信仰が私たちを永遠の生命へと導くのです。主イエス・キリストが私たちと共におられて、祝福の道を導いていてくださるのです。
<祈祷>
聖なる御神様。生命の回復を与えられ、祝福の歩みを感謝致します。この喜びを多くの人々に証しできますようお導きください。主イエス様のお名前によりささげます。アーメン。