説教「神の国で食事をする」

2015年6月7日 六浦谷間の集会
聖霊降臨節第3主日

説教・「神の国で食事をする」、鈴木伸治牧師
聖書・サムエル記下7章1-10節
    使徒言行録2章37-47節
     ルカによる福音書14章15-24節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・162「あまつみつかいよ」
    (説教後)讃美歌54年版・501「いのちのみことば」


 今朝は「神の国に生きる」ことが主題ですが、説教の題を「神の国で食事をする」としています。それは今朝の新約聖書ルカによる福音書14章15節に、イエス様と共に食事をしていた人が、「神の国で食事をする人は、何と幸いなことでしょう」と言ったので、主イエス・キリストが「神の国に生きる」教えをされているからです。今朝は神の国の食事を示され、神の国に生きる喜びを与えられるのです。
 喜びつつ食事をいただくことでは、自ずとスペイン・バルセロナ生活を思い出します。娘の羊子が15年前よりバルセロナに渡り、ピアノの演奏活動をしていますので、今まで三度に渡りバルセロナ生活をしています。2011年は4月から5月にかけて一ヶ月半、2012年は9月から11月にかけて二ヶ月、2014年は10月から2015年1月にかけて二ヶ月半滞在しました。バルセロナの生活において多くの皆さんとの出会いが与えられました。その出会いも、楽しい食事を通してのお交わりが多くありました。娘の羊子が皆さんをお招きしての食事があり、さらに皆さんが羊子と共に私達家族を含めてお招きくださいます。私達家族が日本からきているということでお招きくださる場合もありますが、その方のお誕生日でお招きくださり、あるいはみんなで食事をするので、一緒にどうぞということもありました。2011年、2012年にバルセロナに滞在したとき、私達は羊子の家族としてお交わりいただいていたと思います。ところが2014年10月から滞在したときから、皆さんは私達に対する受け止め方が変わったようです。昨年、バルセロナに渡ったのは、実は滞在している羊子が結婚することになったからです。羊子はサグラダ・ファミリアのミサでも奏楽奉仕をしていますが、結婚について神父さんに相談しました。神父さんはサグラダ・ファミリアで結婚式をしてくださることを了解してくださいましたが、羊子の父親がプロテステントの牧師であることを知り、それなら一緒に結婚式の司式をしましょうと提案してくださいました。あの有名なサグラダ・ファミリアで結婚式を執り行い、カトリックの神父さんとプロテスタントの牧師が共同司式をするという前代未聞の出来事になりました。このことが羊子のお友達の私達に関しての受け止め方が変えられたようです。もちろん今までも羊子の父親は牧師であることは紹介されていました。しかし、今回神父さんと一緒に結婚式をしたことで、プロテスタントの牧師であるとの認識が深められたようです。その後、羊子の友人から私達の家族を含めて食事の招待をいただきました。その時、食事の前に私に感謝のお祈りを求められたのです。今までも何回かお招きをいただいて食事をしていますが、初めてお祈りを求められたのでした。
 羊子は他の神父さんとも親しくさせていただいていますが、クリスマスのミサには羊子がその神父さんの教会で奏楽をしますので、私達も一緒にミサに行ったのです。私の出席を知った神父さんが、私も一緒にミサの司式をするよう、羊子に求められたのでした。これにもびっくりしましたが、お受けしたのでした。この神父さんともバルセロナに来るたびにお交わりをいただき、食事を共にいただいているのです。バルセロナを思い出すときは、皆さんとの食事であり、その食事でお交わりが深められ、神の国に生きる喜びを与えられていると思っているのです。

 「神の国に生きる」導きと祝福は神様のお約束でありました。神様は信じて歩む群れを導き、祝福すると約束されているのです。旧約聖書はサムエル記下7章です。この部分は「ナタン預言」と言われ、神様の御心を意味深く示しているのです。もともと聖書の国、イスラエルは王国ではなく、12部族の宗教連合体でした。しかし、周辺の国々は王国であり、王を中心とする勢力には対抗できないのでした。それで、聖書の人々は王国を建設したのです。最初の王様はサウルでしたが、サウルは神様の御心ではなく、自らの思いで支配しましたので失脚するのです。その後がダビデ王になります。ダビデが王になるまでの経過は苦難の連続でしたが、ついにダビデの時代になったということです。
 王として王宮に住むようになった時、ダビデは深く反省することになるのです。それでダビデ預言者ナタンに言いました。「見なさい。わたしはレバノン杉の家に住んでいるが、神の箱は天幕を張った中に置いたままだ」と言うのでした。その時、ナタンは「心にあることは何でも実行なさるとよいでしょう。主はあなたと共におられます」と王様に言いました。つまり、ダビデは神の箱を安置する神殿を造る思いをナタンに告げたのです。「神の箱」の中には十戒が収められているのです。エジプトを出て、シナイ山にて神様から授与され、以後は十戒を中心にして導かれてきました。その神の箱は天幕の中に安置されています。天幕は聖書の人々が十戒を授与された時、荒れ野を旅するなかで、宿営するときは天幕を張りますが、神の箱を収める特別な天幕を張りました。言うなれば、移動式組立お宮さんと言うことになります。ダビデの時代になっても神の箱は移動式組立お宮さんの中に安置されていたのでした。ダビデレバノン杉で造られた立派な王宮にいる自分を思い、ここは神殿を造る思いが深まったのでした。ぜひ、立派な神殿を造り、神の箱を安置したいとの思いです。ところが、神様はナタンを通して御心をダビデに告げました。
 「わたしの僕ダビデに告げよ。万軍の主はこう言われる。わたしは牧場の羊の群れの後ろからあなたを取って、わたしの民イスラエルの指導者にした。あなたがどこに行こうとも、わたしは共にいて、あなたの行く手から敵をことごとく断ち、地上の大いなる者に並ぶ名声を与えよう。わたしの民イスラエルには一つの所を定め、彼らをそこに植え付ける。民はそこに住み着いて、もはや、おののくことはなく、昔のように不正を行う者に圧迫されることもない」と言われています。そして、神殿を造るのはダビデの後の王になると示しているのです。ダビデの後の王国もとこしえに続く約束をしているのであります。つまり神様に向かいつつ、戒めを守り、神様を中心にして歩むならば、神様の祝福はとこしえに続くと示しているのです。祝福の群れは喜びと希望が与えられ、共に喜びあいつつ生きることを示しています。神の国に生きる喜びを、後々に至るまで与えることを示しているのです。ダビデは自分の手で神殿を造る決心をしたのですが、神様の御心のままに、今与えられている祝福の歩みを喜びつつ生きることになるのです。

 主イエス・キリストの宣教の中心は「神の国に生きる」と言うことであります。イエス様がいつも神の国についてお話しますので、ある時、ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと聞きました。するとイエス様は、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものではない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカによる福音書17章20節以下)と示しています。「神の国はあなたがたの間にある」と言うことです。人と人との間にあるということ、人と人とが共に喜びあって生きるとき、そこに神の国があると示しているのです。このことは今朝の聖書である使徒言行録2章43節以下において示しています。ここには原始教会の交わりの生活が記されています。
 「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分けあった。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた」と報告しています。イエス様が示す神の国の姿なのです。共に生きる、共に喜びを分かち合う姿です。神の国は、共に見つめ合いつつ生きるということですが、その基となるものは、主イエス・キリストの十字架の贖い、救いを信じるとき、真に神の国に生きる者へと導かれるのであります。イエス様の十字架の贖いを信じる者が、真に「自分を愛するように隣人を愛する」ことができるからです。イエス様が十字架により私の自己満足、他者排除を滅ぼしてくださったという信仰が神の国に生きる者へと導いてくださるのであります。
 そこで今朝のイエス様の教えに示されましょう。ルカによる福音書14章15節以下に示されています。ここには「大宴会のたとえ」として記されています。「食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、『神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう』と言った」と記しています。それに答えてたとえ話をしているのです。実はこの聖書の前の部分において、「客と招待する者への教訓」をイエス様がされています。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない」と示しています。後から来た人に上席を譲らなければならないこともあるからです。むしろ末席に座ることにより、上席に案内されることになるとしているのです。「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と教えているのです。このあたりの教えは、日本人には適切に示されることですが、日本人は最初から末席にいたがるのです。上席への遠慮が強いということです。教会は前の席が空いていて、後ろの席が混み合っているというのも、日本人の謙遜の悪い姿でもあるのです。
 イエス様はもう一つ教訓を与えています。昼食や夕食の会を催す場合、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならないと示しています。その人たちも、あなたを招いてお返しするかもしれないからであると説明しています。そして、招くのは貧しい人を招きなさいというのです。その人たちはお返しができないから、あなたにとって幸いであるというのです。
 これらのイエス様の教訓を聞いた人が、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と賛辞を述べたのでした。それに対してイエス様は、神の国の食事に招かれているのに、実際に食事の席に着く人は少ないと示しているのです。そこでたとえ話になります。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、お出でください』と言わせた。すると皆、次々に断った」と言うのです。「畑を買ったので、見に行かなければなりません」とか、「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです」と断ります。また、「妻を迎えたばかりですので、行くことはできません」と断るのでした。僕はそれらの報告を主人にします。主人は怒りを発し、「急いで町の広場や路地に出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい」と僕に言いつけるのです。僕が言われたようにしますが、まだ宴会の席は埋まりません。すると主人は、「通りや小道に出ていき、無理にでも人々を連れてきて、この家をいっぱいにしてくれ」と言うのでした。そして、「あの招かれた人達の中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」と言われたのであります。
 このたとえ話は、前の段落、7節以下の「教訓」の教えと関連することになります。教訓では、金持ち等お返しのできる人を招くなと示しているのですが、「大宴会のたとえ」は社会的にお金のある人をまず招いているのです。この人たちは「お返し」ができる人たちなのです。ところが「お返し」どころか大宴会を拒否するのです。社会的にお金のある人を招いているというのは、神様の恵みに対して、神様は「お返し」を求めているのです。めぐみの感謝と言うことです。しかし、恵みを自らの力の成果として、神様に感謝をささげないのであります。それで神様は恵みを全身で喜ぶ人々を大宴会に招いたのでした。この人たちは「お返し」ができないのですが、神様の恵みとして心から喜び、身をもって神様に向かう人々なのです。大宴会のたとえ話は、神様の導きと恵みは人々に与えられているのであり、その神様の恵みを、神の国に生きる者として、心から喜ぶことを示しているのであります。

 「神の国の食事」ということでは、以前にも示されましたが、「三尺三寸箸の食事処」が良い例になります。この食事の店はバイキング方式の食事処ですが、店の名前をそのように付けているところに意味があるのです。三尺三寸の箸は約一メートルもの長さです。そんなに長い箸で食べられるでしょうか。美味しい食べ物を自分の口に入れようとしてもできないのではないでしょうか。中には美味しい食べ物を一メートルの箸でつかみ、そのまま自分の頭の上まで持っていき、そこからお料理を落とし、口で受け止めるのです。できないことはないのでしょうが、顔中が汚れてしまうのではないでしょうか。そこにいた人々はいろいろ苦労して食べようとしていますが、食べることができないのです。ところがあるグループは、上手に好きなものを食べているのです。上から落とすのでもなく、顔を汚すこともなく食べているのです。人々は三尺三寸箸で、お料理を自分の口に入れようとするから食べられないのです。自分ではなく、自分の前にいる人の口に入れてあげるのです。「今度は何が食べたいですか」、お互いにその様に相手の口に入れてあげれば、好きなものを食べることができるのです。相手をまず受け止めること、お互いに祝福があるということです。三尺三寸箸の食事は、まさに「神の国の食事」でありましょう。このように共に過ごすことが「神の国に生きる」ことなのです。十字架のイエス様を仰ぎ見ることです。
<祈祷>
聖なる御神様。神の国に生きる歩みを導いてくださり感謝致します。共に御言葉をいただき、満たされて歩ませてください。イエス・キリストの御名によりささげます。アーメン。