説教「神の国の食事」

2019年6月23日、六浦谷間の集会 
聖霊降臨節3主日



説教・「神の国の食事」、鈴木伸治牧師
聖書・ サムエル記下7章1-10節

           使徒言行録2章37-47節
           ルカによる福音書14章15-24節
賛美・(説教前)讃美歌21・352「来たれ全能の主」
          (説教後)讃美歌21・81「主の食卓を囲み」

 


 今朝は「教会の一致と交わり」が日本基督教団の主題ですが、説教の題を「神の国の食事」としています。それは今朝の新約聖書ルカによる福音書14章15節に、イエス様と共に食事をしていた人が、「神の国で食事をする人は、何と幸いなことでしょう」と言ったので、主イエス・キリストが「神の国に生きる」教えをされているからです。今朝は神の国の食事を示され、神の国に生きる喜びを与えられるのです。
 喜びつつ食事をいただくこと、この六浦谷間の集会でも行われています。それはクリスマスやイースターの礼拝には知人の皆さんが出席されますので、私たち家族と共に礼拝後の楽しい食事をしています。皆さんもおいして食べ物を持参してくれますので、楽しく語らいながら食事をするのでした。しかし、それは一年に一度か二度の食事であります。月に二度くらいは我が家の子供たちが土曜日から日曜日にかけてきますので、その時には家族で楽しく食事をいただいています。大塚平安教会時代は毎週の礼拝後には必ず食事が用意されました。婦人会や壮年会がカレーライスやおそばを用意してくれるのです。それは教会の建築資金のためでもありますが、礼拝後には食事のお交わりができ祝福のひと時でした。しかし、食事の機会はそれくらいで、個人的には共に食事をいただくことはありません。それを思うとスペイン・バルセロナに滞在した時、いつも食事のお交わりがありました。バルセロナには娘の羊子が滞在し、ピアノの演奏活動をしていますが、そのため何回か滞在しています。お友達に招かれるのは誕生日祝いでもありました。羊子や私たちの誕生日の時にはお友達をお招きして食事をします。それらのお友達が自分の誕生日には皆さんを招いてくださるのでした。それから日本からきている私たちのためにお招きくださることもあるのです。家庭に招いてくださることもありますが、レストランに招いてご馳走してくださる方もあるのです。バルセロナの思い出といえば、やはり皆さんと食事をしたということです。楽しいひと時でしたので忘れることができません。スペインの皆さんは神の国の食事をいつも体験されているのではないかと示されたのでした。
 日本ではそのような習慣はないようです。若い人たちが誕生日のお祝いをするようですが、家族ぐるみで食事をするということはないようです。あるいは職場の友達は仕事帰りに食事をするようですが、家族の交わりではありません。日本人はその意味では食事の交わりをもっと持つべきだと示されているのです。

 「神の国に生きる」導きと祝福は神様のお約束でありました。神様は信じて歩む群れを導き、祝福すると約束されているのです。旧約聖書はサムエル記下7章です。この部分は「ナタン預言」と言われ、神様の御心を意味深く示しているのです。もともと聖書の国、イスラエルは王国ではなく、12部族の宗教連合体でした。しかし、周辺の国々は王国であり、王を中心とする勢力には対抗できないのでした。それで、聖書の人々は王国を建設したのです。最初の王様はサウルでしたが、サウルは神様の御心ではなく、自らの思いで支配しましたので失脚するのです。その後がダビデ王になります。ダビデが王になるまでの経過は苦難の連続でしたが、ついにダビデの時代になったということです。
 王として王宮に住むようになった時、ダビデは深く反省することになるのです。それでダビデ預言者ナタンに言いました。「見なさい。わたしはレバノン杉の家に住んでいるが、神の箱は天幕を張った中に置いたままだ」と言うのでした。その時、ナタンは「心にあることは何でも実行なさるとよいでしょう。主はあなたと共におられます」と王様に言いました。つまり、ダビデは神の箱を安置する神殿を造る思いをナタンに告げたのです。「神の箱」の中には十戒が収められているのです。エジプトを出て、シナイ山にて神様から授与され、以後は十戒を中心にして導かれてきました。その神の箱は天幕の中に安置されています。天幕は聖書の人々が十戒を授与された時、荒れ野を旅するなかで、宿営するときは天幕を張りますが、神の箱を収める特別な天幕を張りました。言うなれば、「移動式組立お宮さん」と言うことになります。ダビデの時代になっても神の箱は移動式組立お宮さんの中に安置されていたのでした。ダビデレバノン杉で造られた立派な王宮にいる自分を思い、ここは神殿を造る思いが深まったのでした。ぜひ、立派な神殿を造り、神の箱を安置したいとの思いです。ところが、神様はナタンを通して御心をダビデに告げました。
 「わたしの僕ダビデに告げよ。万軍の主はこう言われる。わたしは牧場の羊の群れの後ろからあなたを取って、わたしの民イスラエルの指導者にした。あなたがどこに行こうとも、わたしは共にいて、あなたの行く手から敵をことごとく断ち、地上の大いなる者に並ぶ名声を与えよう。わたしの民イスラエルには一つの所を定め、彼らをそこに植え付ける。民はそこに住み着いて、もはや、おののくことはなく、昔のように不正を行う者に圧迫されることもない」と言われています。そして、神殿を造るのはダビデの後の王になると示しているのです。ダビデの後の王国もとこしえに続く約束をしているのであります。つまり神様に向かいつつ、戒めを守り、神様を中心にして歩むならば、神様の祝福はとこしえに続くと示しているのです。祝福の群れは喜びと希望が与えられ、共に喜びあいつつ生きることを示しています。神の国に生きる喜びを、後々に至るまで与えることを示しているのです。ダビデは自分の手で神殿を造る決心をしたのですが、神様の御心のままに、今与えられている祝福の歩みを喜びつつ生きることになるのです。

 主イエス・キリストの宣教の中心は「神の国に生きる」と言うことであります。イエス様がいつも神の国についてお話しますので、ある時、ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと聞きました。するとイエス様は、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものではない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカによる福音書17章20節以下)と示しています。「神の国はあなたがたの間にある」と言うことです。人と人との間にあるということ、人と人とが共に喜びあって生きるとき、そこに神の国があると示しているのです。このことは今朝の聖書である使徒言行録2章43節以下において示しています。ここには原始教会の交わりの生活が記されています。
 「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分けあった。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた」と報告しています。イエス様が示す神の国の姿なのです。共に生きる、共に喜びを分かち合う姿です。神の国は、共に見つめ合いつつ生きるということですが、その基となるものは、主イエス・キリストの十字架の贖い、救いを信じるとき、真に神の国に生きる者へと導かれるのであります。イエス様の十字架の贖いを信じる者が、真に「自分を愛するように隣人を愛する」ことができるからです。イエス様が十字架により私の自己満足、他者排除を滅ぼしてくださったという信仰が神の国に生きる者へと導いてくださるのであります。
 そこで今朝のイエス様の教えに示されましょう。ルカによる福音書14章15節以下に示されています。ここには「大宴会のたとえ」として記されています。「食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、『神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう』と言った」と記しています。「これを聞いて」と言っていますが、イエス様はこのたとえ話の前に「客と招待する者への教訓」を示しています。「招待されたら上席についてはならない」ということですが、むしろ日本では末席につくのが習慣になっており、上席はいつも空いている状況です。イエス様が示しているのは、当時の社会で上席に着きたがる人が多かったということです。それは社会的な指導者ということでしょう。日本の場合は謙遜のはき違いで、礼拝堂の前の席はいつも空いているのです。それからイエス様は食事に招待する場合、お返しをする人は招いてはならないと示しています。招かれた人がお返しをするために、やはり食事に招くからです。要するにお返しが目的で客を招いてはならないということなのです。これらのお話を聞いた後に、「神の国で食事をする人はなんと幸なことでしょう」と言った人がいたので、イエス様は「大宴会のたとえ」をお話しされたのでした。
それに答えてたとえ話をしているのです。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、お出でください』と言わせた。すると皆、次々に断った」と言うのです。「畑を買ったので、見に行かなければなりません」とか、「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです」と断ります。また、「妻を迎えたばかりですので、行くことはできません」と断るのでした。僕はそれらの報告を主人にします。主人は怒りを発し、「急いで町の広場や路地に出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい」と僕に言いつけるのです。僕が言われたようにしますが、まだ宴会の席はいっぱいになりません。すると主人は、「通りや小道に出ていき、無理にでも人々を連れてきて、この家をいっぱいにしてくれ」と言うのでした。そして、「あの招かれた人達の中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」と言われたのであります。大宴会のたとえ話は、神様の導きと恵みは人々に与えられているのであり、その神様の恵みを、神の国に生きる者として、心から喜ぶことを示しているのであります。

 「神の国の食事」ということでは、以前にも示されましたが、「三尺三寸箸の食事処」が良い例になります。この食事の店はバイキング方式の食事処ですが、店の名前をそのように付けているところに意味があるのです。三尺三寸の箸は約一メートルもの長さです。そんなに長い箸で食べられるでしょうか。美味しい食べ物を自分の口に入れようとしてもできないのではないでしょうか。中には美味しい食べ物を一メートルの箸でつかみ、そのまま自分の頭の上まで持っていき、そこからお料理を落とし、口で受け止めるのです。できないことはないのでしょうが、顔中が汚れてしまうのではないでしょうか。そこにいた人々はいろいろ苦労して食べようとしていますが、食べることができないのです。ところがあるグループは、上手に好きなものを食べているのです。上から落とすのでもなく、顔を汚すこともなく食べているのです。人々は三尺三寸箸で、お料理を自分の口に入れようとするから食べられないのです。自分ではなく、自分の前にいる人の口に入れてあげるのです。「今度は何が食べたいですか」、お互いにその様に相手の口に入れてあげれば、好きなものを食べることができるのです。相手をまず受け止めること、お互いに祝福があるということです。三尺三寸箸の食事は、まさに「神の国の食事」でありましょう。このように共に過ごすことが「神の国に生きる」ことなのです。十字架のイエス様を仰ぎ見ることです。神の国はイエス様が示されたように、人と人との間にあるということです。食事の喜びで示されるのです。
<祈祷>
聖なる御神様。神の国に生きる導きを感謝致します。共に御言葉をいただき、神の国を歩ませてください。イエス・キリストの御名によりささげます。アーメン。

noburahamu2.hatenablog.com