説教「安心を与えられる」

2019年6月30日、三崎教会 
聖霊降臨節4主日



説教・「安心を与えられる」、鈴木伸治牧師
聖書・ 申命記8章11-20節
   ルカによる福音書8章40-48節
賛美・(説教前) 讃美歌21・342「神の霊よ、今くだり」
   (説教後) 讃美歌21・532「やすかれ、わがこころよ」

 


 先日の愛川町で警察官から逃走した犯人ですが、厚木市は犯人が捕まるまで小学校、中学校を休校にしました。務めている伊勢原幼稚園も厚木市と隣り合わせであり、休校にすべきか判断が求められていましたが、結局休校にしないで、十分に注意しながら過ごすことにしました。私も朝の登園、帰りの降園には門に立って注意していたのであります。幼稚園の職務が終わり、自宅に戻りまして、横浜市金沢区は厚木や伊勢原とは遥かに遠いので、何となく安心して過ごすことができるとの思いでした。そうしましたら犯人が逮捕されたのは横須賀であるというので、遠いから安心していた自分を反省したのでした。いろいろな事件は思わぬところで発生します。災害にしても、いつ起きるかわかりません。私たちは災害にしても凶悪犯罪にしても、いつ自分に降りかかってくるかわからないのです。安心できる日々の生活が求められているのです。災害があるにしても日々の歩みが、いつも安心しつつ過ごせる人生でありたいと願っています。その日々の安心する歩みを導いてくださる原点、主イエス・キリストのお導きに委ねたいのであります。
 今朝は、私達の生きる原点、主イエス・キリストの十字架の救いへと導かれているのであります。その信仰が安心の人生へと導かれるのです。

 旧約聖書申命記が今朝の示しとなります。申命記は「命」を「申」し渡す意味になりますが、本来の題は「言葉」であります。それは申命記1章1節に、「モーセイスラエルのすべての人にこれらの言葉を告げた」と記されているので、申命記全体が「言葉」、それも神様の御言葉として示されているのです。奴隷の国エジプトからイスラエルの人々を解放し、神様の約束の土地、乳と蜜の流れる国カナンを前にして、モーセは今日に至る神様の導きを示し、導きの原点に立ち返って、新しい土地での歩みを導いているのです。
 申命記8章11節以下が今朝の示しとなっています。「主を忘れることに対する警告」として人々にモーセが語っているのです。「わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい」と諭しています。「今日命じる戒めと法と掟」としていますが、戒めと法と掟は、今日初めて示されるのではなく、エジプトを出てシナイ山に宿営したとき、モーセが神様から十戒を与えられ、その時から「戒めと法と掟」が与えられているのです。十戒は人間の基本的な生き方を示しているのですが、基本の生き方ができない人々にとって、戒めとなり、法となり、掟となっているのです。その十戒の示しを守らず、神様のお導きを忘れることのないようにしなさいとモーセは諭しています。「あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい」と諭しています。人間は豊かになり、食べ物や生活の必要な物が困ることなく与えられることによって、神様の恵みを忘れてしまうのです。
 イエス様は、「心の貧しい人は幸いである」と教えておられます。物が豊かになると、心も豊かになります。自分にある豊かさは神様の恵みであることを忘れてしまうのです。その意味で、例えば物が豊かであっても、心を貧しくして神様の恵みをいただくことが大切なことであると示しています。何よりもあなたがたの原点に立ち返りなさいということです。苦しいことがあったとしても、あなたが幸福になるための訓練であったとしているのです。それに対して人々はどうであったか。飲む水がないと言ってはモーセに詰め寄りました。食べるものがないと言ってはモーセに抗議していました。人々はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てます。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れだし、この全会衆を飢え死にさせようとしている」と抗議したのです。しかし、今振り返って、誰が飢え死にしたのか、誰が水がなくて渇き死んだのか。誰もが神様の恵みをいただき、約束の土地の前にいるのであります。「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならないのです。「富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである」とモーセは人々に示しています。だからこの原点、奴隷の我々を神様が救い出されたこと、恵みを与えて導いてくださっていること、常にこの原点に立って歩むことを示しているのです。救いの原点に立つことであります。この原点に立つならば、新しいカナンの歩みが祝福されるのです。決して、「主を忘れて他の神々に従い、それに仕えて、ひれ伏すことがないようにしなさい」とモーセは示しているのです。

 私達の原点は主イエス・キリストの十字架の救いであります。この原点が与えられているので、日々の歩みが導かれているのです。今朝の新約聖書ルカによる福音書8章におきましては、十字架の救いはまだ記されていません。十字架の救いを完成する前に、人々の中におられるイエス様は、人々に関わり、求めるものにはお応えになられているイエス様なのです。今朝はルカによる福音書8章40節以下56節までが今朝の聖書として示されていますが、今朝お読みいただいたのは48節までです。ここには二つの出会いの出来事が示されています。一つは、会堂長ヤイロの娘の癒しであり、もう一つは、12年間病気の女性の癒しであります。この二つの出来事は、主イエス・キリストが人々に深く関わっていることを示されるのであります。このイエス様の姿勢が私達の原点となっていくのです。
 8章40節の前において、ガリラヤ湖の向こう岸にあるゲラサ人の土地に行ったのであります。そこでは悪霊につかれた人に出会います。悪霊はイエス様に、この人から出て行くが豚の中に入らせてくれと頼みます。イエス様はそれを認めます。すると悪霊が豚の群れに入り、豚は驚いて湖の中になだれ込んで死んでしまうのです。一人の人間が救われた物語です。すると豚を飼う人たちは、イエス様にこの地方から出て行ってもらいたいというのでした。これ以上、豚が犠牲になることを恐れたからです。イエス様は一人の人が救われるために、文化繁栄を犠牲にしたことを示しているのです。
 そのようなことが湖の向こうで行われて、イエス様は再びガリラヤに帰って来たのです。ガリラヤの人たちは、湖の向こう岸の人たちとは異なり、イエス様を歓迎して迎えています。それに対してイエス様も一人一人に深く関わろうとしているのです。そこへヤイロという会堂長がやってきました。ユダヤの国はユダヤ教の会堂がそれぞれの土地に建てられています。その会堂の責任者ということでしょう。このヤイロの娘が病気であり、しかも死にかけているというので、ヤイロはイエス様に娘のところに来ていただきたいとお願いしました。お願いすると、イエス様はすぐにヤイロの家に向かうのです。ところが向かう途上、一つの出来事が起きました。イエス様が立ちどまり、あたりを見回しているのです。ヤイロとしては、こんなところで立ちどまらないで、早く自分の家の娘のところに来てもらいたと思っています。
 イエス様は立ち止まって周囲を見回しているのです。実は一人の女性がイエス様の服の房に触れたのです。この女性は12年間病気であり、今までいろいろな医者に診てもらいましたが、治してもらえず、全財産を使いはたしていたのであります。この女性はイエス様の服に触らせていただければ治ると信じていたのです。女性がイエス様の服に触れると、イエス様から力が出て行ったということです。それでイエス様は、御自分に触れたのは誰かと立ちどまって周囲を見まわしておられたのです。女性はふるえながらイエス様の前に進み出ました。ふれた理由と癒されたことを皆の前でお話されました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と祝福したのであります。ここではイエス様に原点を求めた女性が祝福されたことが記されています。
 そのようなことがあって、少し遅くなりました。そしたらヤイロの家から使いが来ました。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません」と使いの者は言うのです。それに対してイエス様は、「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」とヤイロに言われ、ヤイロの家に行ったのであります。そして、死んだとされている娘に向かって、「娘よ、起きなさい」と呼びかけました。すると娘は起き上がったのでありました。ルカによる福音書8章に記される二つの出来事は、イエス様に原点を置くことの予告として示しているのです。12年間病気の女性は、せめてイエス様のみ衣に触らせていただければとイエス様に近づいたのであります。それに対して、ヤイロの娘の場合、「お嬢さんは死にました。この上、先生を煩わすことはありません」と言われているのに、イエス様が進んで娘のところに行き、癒しを与えたのです。イエス様が深く関わってくださることを示しているのです。このことはイエス様の十字架の救いを示しているのです。十字架に向かって手を差し伸べることによって救いが与えられるということです。そして、十字架はイエス様が私たちに深く関わるために、イエス様が十字架により手を差し伸べてくださっていることを示しているのです。十字架が私達の原点であることを示しているのであります。

 「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」とペトロは大胆に語りました。今朝は使徒言行録4章5節から12節までも聖書日課になっています。そこにはペトロとヨハネが祈るために神殿に上った時、「美しい門」のそばで、生まれながら歩けない人が物乞いをしていたことが記されています。ペトロはこの人をじっと見つめ、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言い、彼を立ち上がらせたのでありました。ペトロは神殿にいる人々に、主イエス・キリストの十字架の救いを大胆にお話致しました。するとユダヤ教の指導者達がペトロとヨハネを捕らえ、牢に入れてしまうのです。翌日、指導者達は生まれながら歩けない人をいやした原因と誰の名に寄るのかと尋問します。その時、ペトロは「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほかにはいない」というのです。すなわち、十字架によって私達を救われる主イエス・キリストこそ、私達の生きる原点であると証ししたのであります。
 キリスト教の教会は主イエス・キリストの名が置かれています。プロテスタントの教会は、教会の内部、礼拝堂にはキリストの像も聖画も飾られていません。その点、カトリック教会はたくさんの飾り物を通してイエス様の救いを示しているのです。プロテスタントの教会の礼拝堂には、何も飾られ、置かれてはいません。見える形ではおかれていませんが、この教会の中には主イエス・キリストの名が置かれているのです。イエス様の名とは、十字架による私達の救いです。この私のために十字架にお架りになり、私の中にある自己満足、他者排除を滅ぼしてくださったのです。「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほかにはいない」と私達も信じているのです。これは私達の生きる原点であります。
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」とイエス様は祝福を与えています。十字架の救いを信じる信仰が「安心」を与えられるのです。
<祈祷>
聖なる御神様。イエス様の十字架のお導きを感謝します。日々、十字架を仰ぎ見つつ歩ませてください。イエス様の御名によりおささげいたします。アーメン。

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