説教「聖霊の導きに委ねつつ」

2021年2月28日、六浦谷間の集会

「受難節第2主日

                       

説教・「聖霊の導きに委ねつつ」、鈴木伸治牧師

聖書・イザヤ書35章5-10節

   ヨハネの手紙<一>3章1-10節

   マタイによる福音書12章22-32節   

賛美・(説教前)賛美歌「生きて愛して祈りつつ」

   (説教後)賛美歌「主の祝福」

伊勢原幼稚園の園長を担うようになり、早くも3年になっています。当初は1年くらいのお勤めと思っていました。3年前の3月に横浜本牧教会付属の早苗幼稚園を退任しましたが、その4月から伊勢原幼稚園の園長に就任することを求められました。その時、すでに78歳ですから、どこの幼稚園も新任の園長としては求めないのであります。それをあえて就任を要請するのは、暫定的な園長であるからです。求められたのは、今までの園長が退任するからということで、次の園長が決まるまでと思っていたのです。ところが、次の園長が決まらないまま、結局は3年も園長をになうことになりました。今年の4月から、ようやく次の園長が決まり、退任することができることになったのであります。4月からは、もちろん決まった職務を持ちませんので、ようやく隠退牧師としての歩みができることになります。2010年3月に30年間務めた大塚平安教会を退任しましたが、その後も代務者や園長等を担いましたので、隠退したものの、現役のように牧師・園長の務めを担ってきました。これからはゆっくりと過ごしたいと思っています。まさに今まで、聖霊のお導きにより、歩んでまいりました。これからも聖霊のお導きに委ねつつ歩みたいと思っています。

 希望を持って日々の生活をしています。しかし、現実の生活は希望とはかけ離れた生活となっていると思っている方もあるでしょう。希望はあるが、現実は苦しみであり、悲しみであるという方もおられるでしょう。しかし、その苦しみと悲しみの現実に、主が希望を与えてくれることを示しているのが今朝の旧約聖書イザヤ書35章であります。この35章は32章から聖書の国ユダの回復が記されていますが、締めくくりとして35章が記されているのです。背景的には聖書の人々がバビロンに捕われて暮らすこと約50年でありますが、その終わり頃ということであります。50年も捕われの身分で生きているのですから、希望もなく夢も無い状況であります。しかし、苦しみが増し加われば加わるほど、悲しみが募れば募るほど、主なる神様に希望を持ったのが聖書の人々でありました。33章2節以下は記しています。「主よ、我らを哀れんでください。我々はあなたを待ち望みます。朝ごとに、我らの腕となり、苦難のとき、我らの救いとなってください」と祈っています。聖書の人々がバビロンに滅ぼされ、捕われの身になるのは、神様の御心に従わなかったからであります。神様ではなく、人の力により頼んだのであります。バビロンが脅威であれば、エジプトに助けを求めました。人間の力により頼み、活路を見出そうとしたのでした。あるいは神ではない偶像に心を傾け、自分達の思いを偶像に投げかけたのであります。神様のお心を求めない聖書の人々に対する審判がバビロンによる滅亡でありました。従って、希望を持つということは、主の御心に自分を変えるということなのであります。御心により頼んで生きるということが希望の基となるのであります。今、神様に希望を持つように示すのがイザヤであり、エレミヤであり、他の預言者たちでありました。

 「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ。砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ、大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ、カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る」と示しています。レバノンは緑の山脈であり、カルメル山も恵みの山であります。そしてシャロンレバノンとカルメルの間にシャロンの豊かな平野が存在します。旧約聖書の雅歌2章1節に「わたしはシャロンのばら、野のゆり」と記されています。シャロンのばら、美しいばらの花が咲くシャロンの平野を示すのであります。シャロンとは憩いの場であり、平和の象徴でもあるのです。

 私の姉はシャロンという逗子にある洋服家さんで働いていました。もともと十字屋ストアーでしたが、名前を変えることになり、店員に名前を募集しました。姉が「シャロン」の名称を提示して採用されたのでした。シャロンとは憩いの場であり、心が休まる緑と花の平野であるのです。もはやその店はありませんが、一時期、逗子の町にシャロンがあったことを意味深く思い出しています。

  イエス・キリストのもとに目が見えず、口が利けない人が連れてこられました。イエス様はその人を癒します。目が見えるようになり、口が利けるようになるのです。驚くべき御業を見た人々は「この人はダビデの子ではないだろうか」と言いました。ダビデの子といえば、人々が待ち望んでいる救い主であります。ところがファリサイ派の人々は、人々が言っていることを否定しました。ファリサイ派というのは当時の社会で律法を厳格に守って歩んでいる人々であり、社会的にもエリート的な存在でした。「悪霊の頭ベルゼベルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」というのです。目が見えない、口が利けない、それは悪霊に取り付かれていると考える社会です。昔はそのように考えていました。日本でも、病気になると悪霊を追い出す祈祷師に頼んだりしたのです。イエス様はファリサイ派の人々に対し言われました。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも、内輪で争えば成り立たない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ」と言われました。これは説明しなくてもファリサイ派の人々は分かるのです。イエス様の反論にはもう一つのことが言われています。27節で「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか」と言われています。ユダヤ教ではラビ的な存在が悪霊を追い出しているのです。それは神様の力を信じての悪霊退治です。従って、イエス様の悪霊退治は問題ないわけですが、ファリサイの人たちは、人々がイエス様を「ダビデの子」と言っていることで批判しているのであります。まさに力ある業を行うイエス様をそのまま受け入れられないのであります。真実を真正面に見ながらも、それを否定すること、そこに問題があるのです。ベルゼブル論争はそこに焦点があるのです。イエス様はこの論争の結論として言われました。「人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒瀆は赦されない。人の子にいい逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることはない。」

 若い時、この聖書の言葉が胸に刺さりました。「聖霊に言い逆らう者は赦されない」と示されていますので、自分は赦されないのではないかと真剣に考え、恐ろしくなったことが思い出されます。「人の子に言い逆らう」とはイエス様に言い逆らい、イエス様がメシアであることを認めなくても赦されると言われているのです。しかし、主イエス・キリストが十字架により救いを完成し、神様のみもとに昇られた後、聖霊が下って教会の時代となりました。その聖霊の導きを否定する者が赦されないとしているのであります。ユダヤ教におきましても、「アブラハムの契約を無視し、聖日を守らず律法を歪曲する者は、来るべき世において赦されることはない」と示されているのです。赦されることを前提に考えるのではなく、赦されない生き方がありますよと示しているのであります。

 目の見えない人が見えるようになり、口のきけない人がきけるようになったこと。その御業を示された人々は「この人はダビデの子ではないだろうか」と思ったこと、それは聖霊の導きでありました。ファリサイ派の人々も悪霊退治は見たことがありますが、イエス様の御業は本当に驚いたのであります。だから、人々と共に「ダビデの子、メシアだ」と告白すべきでありました。聖霊の導きがあったのであります。しかし、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と否定したのであります。自分の声に言い逆らったのであります。真実を見ながら真実と言わない姿勢であります。希望が生れないのであります。真実をしっかりと受け止めること、そこに希望が生まれ、喜びが生れてくるのであります。「とこしえの喜びをいただく」ことができるのです。

 主イエス・キリストは私たちの希望であります。イエス様は十字架の贖いにより、私達を聖霊によってお導き下さっているのです。自分の思いがあります。おかれている状況において、いろいろと自己判断をしますが、まず神様のお導きに委ねるということです。自分を第三者的に見つめる必要があります。いろいろと見えてくると思います。自分の思いに凝り固まっている姿が見えてくるのです。そのような自分ですが、主イエス・キリストは、私たちの歩むべき道を示されているのです。受難節を歩んでいますが、いよいよ十字架を仰ぎ見つつ、その歩みが喜びであると示されて、私たちの人生を歩みたいと示されているのです。

 

<祈祷>

聖なる神様。主の十字架の御救いへと導きくださり感謝いたします。聖霊のお導きに委ねて歩ませてください。キリストのみ名によって。アーメン。

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