説教「命を救うために」

2012年2月19日、六浦谷間の集会
「受難節前第1主日」 

説教、「命を救うために」 鈴木伸治牧師
聖書、哀歌1章18-22節
   コリントの信徒への手紙<一>13章1-13節
   マルコによる福音書8章31〜38節
賛美、(説教前)讃美歌21・289「みどりもふかき」、
   (説教後)讃美歌21・507「主に従うことは」


 今朝は受難節前第一主日であり、今週の22日から四旬節、レント、受難節に入ります。その前の主日礼拝であり、聖書も新約聖書は主イエス・キリストが受難を予告されている箇所になります。イエス様のご受難を心に示されながら今朝の聖書の示しをいただくのであります。四旬節は40日間続きますので、その期間にイエス様の十字架の贖い、救いを深く示されていくのであります。
 前週の14日に日本基督教団の前総幹事、竹前昇先生の召天一周年記念式が松沢教会で開かれました。教団書記在任中、竹前先生とは共に教団の重い課題を担いましたので、ぜひ出席させていただきたいと思っていました。実は竹前昇先生のご葬儀には列席出来なかった経緯があり、申し訳ないとの思いが残っていたのであります。昨年の2011年1月31日にご葬儀が行われたのでありますが、どういうわけかその連絡を受けていませんでした。丁度同じ日に日本聖書神学校の前校長・小林利夫先生の追悼記念式が日本聖書神学校で開催されましたので、そちらに出席していたのです。同じ日に竹前昇先生のご葬儀が重なり、連絡いただいても竹前昇先生の葬儀には列席出来なかったと思います。しかし、分かっていれば弔電を送っていたと思います。
 竹前昇先生の召天一周年の当日は日本基督教団常議員会が午後3時に終わり、4時30分からであれば、教団役員や常議員の皆さんが出席出来るのです。40名くらいの皆さんが出席されました。久しぶりに皆さんとお会いし、健在ぶりを喜びあったのであります。記念式は元教団議長である小島誠志先生(松山番町教会)が記念説教を担当されました。その後、追悼文出版記念会が立食パーティーの形で行われました。教団出版局から竹前昇先生追悼文集「私たちの祈るところ」として出版されています。私も寄稿させていただいています。その出版記念会では竹前昇先生の思い出、お人柄、お世話になったことなど、いろいろな方から聞くことができました。ほぼ私が思っていた竹前昇先生の姿を皆さんが証言されたということです。
 竹前昇先生は物事を大きな範疇で受け止められる方であったと思います。小さな事は大切なことであり、もちろん小さな事に関わるのですが、それらも大きな波の中で捕らえようとしていたように思います。2004年10月に開催された第34回教団総会は冒頭から混乱する状況でした。開会礼拝が終わり、議長団が席に着こうとする時、二人の人が壇上に上がり、抗議を始めました。一つは沖縄教区議員が欠席のまま総会を開くことは不当であるということ、もう一つは性差別問題特別委員会の再設置議案の取り扱いは不当てあるということでした。二人が議長席に詰め寄ると同時に議場から大勢の人が詰め寄って来たのです。その為、1時間30分遅れて開会宣言に至ったのでした。その時、竹前総幹事は、壇上で議長、副議長を囲んで抗議している人々を見ながら、「こういう時間も必要でしよう。言いたいことを言わせておきましょう」と言われたのでした。ここで議場整理員を動員して、抗議する人々を壇上から下ろすようなことはしませんでした。先生の言われたように、時間遅れで開会出来たのも、抗議する人たちが、ある程度の言い分を議長に言うことができたからでもあります。大きな観点で物事を判断する先生であったと思います。大きな判断で職務を担っていた先生の姿勢は、ともすると小さな事を心配する私たちに大きな指針を残されたと示されているのです。大きな神様の愛の中で、歩むべき方向が示されて来るということです。

 今朝の旧約聖書は哀歌の示しであります。今朝は1章18節からでありますが、冒頭に、「主は正しい。わたしが主の口に背いたのだ。聞け、諸国の民よ。見よ、わたしの痛みを。わたしのおとめらも若者らも捕らえられ、引かれて行った」と嘆きの歌を歌っています。「哀歌」は読んで示されるように悲しみの歌を綴っているのです。1章の1節に「なにゆえ、独りで座っているのか、人に溢れていたこの都が」と冒頭から悲しみの歌を歌っていますが、「なにゆえ」という聖書の言葉はへブル語で「エーカー」という語です。「なにゆえ、どうして、どのように」との意味合いですが、嘆きつつ発する言葉であるのです。それで聖書の原典はこの書を「エーカー」としたのでした。それで「哀歌」との題になりましたが、しかし「哀歌」というヘブライ語は「キーナー」という言葉であります。文語訳聖書は「エレミヤの哀歌」という書名でした。預言者エレミヤの悲しみの歌と理解していたのです。しかし、書かれていることはエレミヤが書いたものではないことが分かりますので、エレミヤから切り離した書物になっているのです。聖書の国、南ユダがバビロンに滅ぼされ、多くの人々がバビロンの国に捕囚として連れて行かれました。そして、都のエルサレムは荒廃したままです。その辺りの悲しみを歌っているのです。
 「主は正しい。わたしが主の口に背いたのだ」と告白しています。「わたしのおとめらも若者らも捕らえられ、引かれていった」現実を深く悲しんでいます。もともと聖書の国がバビロンに滅ぼされた、都が荒廃した原因は、人々が神様の御心に従わなかったからであります。そのため、預言者エレミヤは時の指導者達が、バビロンに対してエジプトと手を組んで対抗しようとしたことに真向から反対します。戦えば滅ぼされるということです。小国であるこの国が大国バビロンと戦っても破れるのは明らかです。他の国の助けを借りて戦うのではなく、ここは生き伸びることなのです。だからバビロンに降伏すべきであると人々を説得したのはエレミヤでした。時の指導者達はエレミヤの言葉を聞かず、戦ったのでした。大切な都、そして神殿は破壊されました。今は荒廃して見る影もありません。国の希望である若者たちまで連れて行かれたのです。ダニエル書に見るように、まだ少年であったダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの四人の少年達が連れて行かれたことが記されています。
 哀歌は悲しみを歌いますが、ただ現実を悲しんでいるのではなく、悲しみの現実は私の罪であるという罪責告白であるのです。神様の御心に従わなかった結果が現実であるということです。哀歌を歌うのは罪の告白であり、懺悔の祈りであるのです。このような罪責告白としての哀歌を歌うとき、神様の救いを待望するようになって行きます。哀歌を歌い続けて行くうちにも3章になると、神様への絶大な信頼と希望の歌へと導かれていくのです。3章18節「わたしの生きる力は絶えた、ただ主を待ち望もう」と歌います。人間の力では絶望のみであり、神様を待ち望む他に生きる道がないことが示されて来るのです。3章22節「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる」と希望が深まってきます。3章25節「主に望みをおき尋ね求める魂に、主は幸いをお与えになる。主の救いを黙して待てば、幸いを得る」と希望の歌を歌うようになるのです。とことん苦しみを経験し、悲しみのどん底に落ちた時、真に神様を求める者へと導かれていくのです。主イエス・キリストの示しはそこにあるのです。マタイによる福音書5章で示される「山上の説教」の冒頭で示しています。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」と教え、「悲しむ人々は、幸いである」と教えているのは、哀歌で歌われるように、「主に望みをおき尋ね求める魂」に導かれていくからであります。

 昨年3月11日に発生した東北関東大震災に間もなく一年を経ようとしています。2万人もの人々が犠牲となりました。その悲しみは癒えることはありません。また復興にあたりましても、思うように進まない現状があり、すべてにおいて日本の国はマイナス現象になっています。この災害は自然現象であり、日本ばかりではなく、世界の人々は自然災害に苦しみ、悲しまなければならないのです。悲しみは大きいのでありますが、私達はこの出来事を経験して、そこから新しい一歩を踏み出していくことが大切なのであります。復興に生きる人々のそのような取組み、決意を示されています。
 苦しみは避けたい、経験したくないとの思いを持ちますが、遭遇した場合、むしろ苦しみを原点として立ちあがっていくことが大切なのであります。今朝の聖書、哀歌はその苦しみを原点として立ち上がろうとしているのです。いつまでも、この現実は誰かの責任であると言っているのではなく、現実から立ち上がる姿勢を示しているのです。そのことは新約聖書において主イエス・キリストにより示されています。
 新約聖書はマルコによる福音書8章31節からです。イエス様がご自分の死と復活を予告されています。31節に「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」ということです。実は今朝の聖書の前の段落で、お弟子さんのペトロさんがイエス様への信仰告白をしました。イエス様が、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」とお弟子さん達に尋ねました。お弟子さん達は人々の噂として、「洗礼者ヨハネ、昔の預言者エリア、あるいは預言者の一人」と言われていると答えました。するとイエス様は、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねたのです。イエス様が人々の前に現れた時、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われつつ宣教を開始されました。そして、ペトロ、アンデレ、ヤコブヨハネの四人の漁師を弟子にしました。彼らはイエス様の宣教、救いへの招きを良く知っています。弟子になってイエス様と共に歩むとき、神様の御心を教えられ、多くの病人を癒し、力ある業を示されています。まさにこの方は昔から待望していた救い主メシアであると信じていたのであります。だから、イエス様から「あなたはわたしを何者だと思うか」と問われた時、ペトロは「あなたは、メシアです」とすぐに告白したのです。
 「救い主である」と告白した後に、イエス様が時の社会の指導者たちにより排斥されて殺されるというのです。救い主であるのに、どうして殺されるのか。人々を救い、喜びへと導いてくれる存在なのです。実際、今まで多くの人々に癒しを与え、大きな御業を行ってきています。これからも人々にその喜びを与えることが救い主なのです。そのように信じていたのに、殺されるというのですから穏やかではありません。それでペトロはイエス様をわきへ連れて行き、いさめ始めたのでした。どのようにいさめたのか記されていませんが、マタイによる福音書によると「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言ったのです。するとイエス様は、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われました。ペトロの人間的な思い、素朴な救いに対する思いをたしなめたのでした。そして、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と教えています。
 ペトロに対して、「サタン、引き下がれ」と言われましたが、この言葉はイエス様がご自分にも言われています。これはマタイによる福音書ですが、4章にイエス様が荒れ野で悪魔に誘惑を受けるために出かけられたことが記されています。そこでは食べることの誘惑、神様が守ってくださる誘惑、この世の栄華の誘惑を受けるのです。それは悪魔という別の存在が現れたのではなく、人間として当然持つことの欲望でもあったのです。従って、人間として出現したイエス様ですから、そのような欲望を持つのです。そこで「退け、サタン」と一喝されたのは、ご自分の中にある人間としての欲望に対してでした。今、ペトロに「サタン、引き下がれ」と言われたとき、ペトロの人間としての欲望に対してであります。人間としては苦しみ、悲しみ、まして死ぬということは避けて通りたいのです。「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」とイエス様は言われています。「人間のこと」とは人間の素朴な欲望です。ごく身の周りの喜びが人間のことなのです。しかし、「神のこと」とは、大きな救いを示しているのです。小さなことは、その大きなことの中に含まれているということです。主イエス・キリストは十字架の苦難の道を進んで行きますが、人間的には十字架で死にたくはありません。十字架にかけられる前にゲッセマネの園でお祈りしています。「父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしからとりのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」とお祈りされています。自分の気持ちを率直に神様に申し上げていますが、しかし、神様にすべてを委ねておられるのです。「神のこと」を思うということが、救いの実現なのです。確かにイエス様が十字架で殺されることは悲しみであり、そんなことがあってはならないのです。そう考えるのは「人間のこと」を思うからで、「神のこと」を思うとき救いへと導かれていくということなのです。

 「神のこと」を思うとき救いへと導かれるのですが、「神のこと」を思う生き方は「愛」に生きるということです。それが今朝の聖書でもある第一コリントの信徒への手紙13章に示される「愛」の教えなのです。この愛は人間の愛ではなく、神様の「愛」(アガペ)です。自分の思い、気持ちを超えて相手を受け止めて行く生き方です。だからイエス様も「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と教えているのです。自分の思いを超えて生きる時、「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」生き方へと導かれていくのです。この信仰の歩みをする時、日々の生活で起きる出来事は「小さなこと」になります。愛に生きているからです。だから、「大きなこと」をひたすら求めながら歩むことになるのです。「大きなこと」とは「命の救い」であります。
最初に前総幹事の竹前昇先生について紹介しましたが、先生はまさに「大きなこと」に思いを託しておられた方であると示されています。物事に動じない、いつも平然とふるまっている姿であったと思います。その姿は、冷たい生き方のようですが、逆なのです。愛に生きているから物ごとに動ずることなく、平然と歩まれていたのでした。
 主イエス・キリストの十字架の救いは、私達を「大きなこと」に心を向けさせ、愛に生きる歩みを導いてくださるのです。
<祈祷>
聖なる御神様。神様の大きな愛の中に置いてくださり感謝致します。常に神様の救い、大きな事を思うことができますようお導きください。主イエス・キリストの御名によりおささげします。アーメン。