説教「目を留めてくださる方」

2012年2月26日、六浦谷間の集会
「受難節第1主日」 

説教、「目を留めてくださる方」 鈴木伸治牧師
聖書、エレミヤ書24章1-7節
   ヘブライ人への信徒への手紙4章14-16節
   マタイによる福音書4章1〜11節
賛美、(説教前)讃美歌21・295「見よ、十字架を」、
   (説教後)讃美歌21・470「やさしい目が」


 今朝は受難節第一主日であり、前週の2月22日から四旬節、レント、受難節に入りました。4月7日までの40日間、主のご受難を心に示されつつ歩むのがこの期間です。そうすると46日間になるのですが、日曜日は主を礼拝する日であり、日曜日を除く日の40日間になります。4月7日まで六回の日曜日があります。神様の御心をいただき、希望と力が与えられ、いよいよ神様の御心の歩みをするべく決意する日であるのです。そのため。受難節ではありますが、40日間には含めないのであります。日曜日以外の週日の歩みの中で、社会に生きる者として、主イエス・キリストのご受難を示されつつ歩むのです。
 日本の教会は、まさにこの期間は主のご受難を示されつつ歩みますので、克己の生活が奨励されます。いわゆる贅沢な生活は控えるということです。普通の生活をしていれば良いのですが、克己の生活ということで、喫茶店でコーヒーを飲むのを控え、控えたコーヒー代を克己献金としてささげます。あるいは電車にしてもバスにしても、歩ける距離なら乗車しないで、運賃を克己献金としてささげるのです。昔はそのような克己献金日本基督教団も奨励していました。しかし、今は克己献金という言葉は消えてしまいました。それぞれの生活の中で主のご受難を示されることが奨励されているのです。過度の克己生活は考えなければならないこともあります。
 教会員の中である方は、やはり克己の生活をされていました。受難節が始まると、ビールを飲むことも甘いお菓子を食べることも断たれて生活されるのです。日曜日に礼拝後の交わりで甘いお菓子が出されるのですが、その方は食べようとはしませんでした。「自分に課した受難の生活なので、皆さんは自由に食べてください」と言われながら食べませんでした。皆さんは、「とても美味しい」とわざと言いつつその方を誘惑するのでした。楽しい思い出でありますが、私は「日曜日は受難節の40日から外れているんですよ」と、これまた誘惑でもあるのですが助言してあげていました。しかし、その方の信念というか、信仰というか、克己の生活を続けられていました。日本の伝統的な信仰に生きる年配の方々の信仰でもあるのです。
 昨年、4月5月にスペイン・バルセロナで、娘の羊子がピアノの演奏活動していますので、45日間過ごしてきました。丁度、棕櫚の主日、復活祭の時期でした。娘はカトリック教会に出席して奏楽の奉仕をしています。そのため、カトリック教会の棕櫚の主日礼拝に出席しました。印象としてはお祭りでした。イエス様が十字架への道をいよいよ歩み始めるのですが、それは私達を救うためなのであります。従って、確かにご受難でありますが、救いの成就ですから、むしろ私達は喜びの時なのです。そのため、受難節において克己の生活はありません。喜びへと向かう日々でもあるのです。しかし、そのように示されても、やはり受難節は主のご受難を示されて歩んでいます。カーニバルがその証しです。カーニバル、謝肉祭と言われますが、このお祭りは受難節が始まる前に行われます。受難節は美味しいものを食べない、質素な生活をするとの思いから、それなら今のうちに肉を食べ、美味しいものを食べ、皆で楽しく過ごすことが目的なのです。ですから受難節中は、それなりに克己の生活をしているのです。
 それは「目を留めてくださる方」への信仰があるからです。神様がこの私に目を留めてくださり、私のために主イエス・キリストの十字架によりお救いくださっている信仰へと導かれているのです。

 旧約聖書の信仰は「目を留めてくださる方」あるいは「顧みてくださる方」を信じるということです。すなわち神様が「わたしのもとに帰りなさい」と声をかけてくださるので、嘆き悲しみ、神様の御心に反する歩みをしていたにしても、神様の呼び声に励まされるのです。今朝の旧約聖書も、そのような神様の導きを示しています。
 今朝はエレミヤ書1節から7節ですが、「良いいちじくと悪いいちじく」として示されています。状況的には、ユダの国がバビロンに滅ぼされて、第一回捕囚の後に神様の御心を示しているのです。バビロンの国にユダの国が攻められた時、エレミヤは神様の御心として、戦うのではなく降伏することを人々に示しますが、指導者達は聞く耳を持たずバビロンと戦います。それによって降伏することになるのですが、多くの人々が捕われてバビロンに連れて行かれます。その時、捕囚となった人々は社会的地位にある人々や軍人等1万人、職人と言われる技術を持つ人々でありました。ヨーロッパの歴史を読むと、戦いに明け暮れるわけですが、勝者は敗者の人々の中で軍人や技術を持つ者を自分の国に連れて行き、軍人は自国の兵士とし、技術を持つ者は建築や制作に関わらせるのです。捕囚とならずユダの国に残った人々は、むしろ貧しい人々であったと言われます。しかし、エジプトに逃れている人々もおり、再びバビロンに対抗して立ち上がる人々が出てきます。第一回の戦いでは、都エルサレムの神殿は破壊されず、神殿の宝物が持ち去られています。それは紀元前598年のことでした。その第一回捕囚にはエレミヤは含まれていませんでした。その後、再びバビロンに滅ぼされたとき、神殿は破壊され、徹底的に都は廃墟となり、さらに多くの人々が捕囚として連れて行かれますが、エレミヤはバビロンに対抗して戦おうとした人々によってエジプトに連行されたということです。おそらくエジプトで死んだということです。最後までバビロンと戦うことを辞めさせようとして預言した人でした。
 今朝の聖書は第一回捕囚の後で、エレミヤは都エルサレムにいながら人々に神様の御心を示しているのです。エレミヤが神様から示されたことは二つの籠でした。一つの籠の中には、初なりのいちじくのような、非常に良いいちじくが入っていました。もう一つの籠には、非常に悪くて食べられないいちじくでした。これらの二つの籠の中を見せられてから、神様はその意味をエレミヤに示したのであります。「このところからカルデア人の国へ送ったユダの捕囚の民を、わたしはこの良いいちじくのように見なして、恵みを与えよう」と神様はエレミヤに示しています。それに対して、悪いいちじくとは、「ユダの王ゼデキヤとその高官たち、エルサレムの残りの者でこの国にとどまっている者、エジプトの国に住み着いた者を、非常に悪くて食べられないいちじくのようにする」と言われました。捕囚の人々はバビロンの国に連れて行かれ、苦しみと悲しみの中に過ごしながらも、この結果は神様の御心に従わなかった故であることを心から悔い改めているのです。それに対してエルサレム残留者、エジプトにいる寄留者は、この度のバビロンによる敗因の意味を悔い改めることなく、さらに御心に反してバビロンに立ち向かおうとしている人々であり、悪いいちじくと言う他は無いのです。神様は良いいちじくのバビロン捕囚の人々に対して、「彼らに目を留めて恵みを与え、この地に連れ戻す。彼らを建てて、倒さず、植えて、抜くことはない。そしてわたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは真心をもつてわたしのもとに帰ってくる」と言われています。
 神様が目を留めてくださる捕囚の人々は、バビロンの空の下で、御心に反した自らを心から悔い改めているのです。御心に向かいつつ生きる。神様が目を留めて導いてくださるのです。

 新約聖書は主イエス・キリストが「誘惑を受ける」ことが記されています。マタイによる福音書4章1節から11節については前週の説教においても示されています。十字架の道を歩むことを示されたお弟子さんのペトロはイエス様をいさめます。「そんなことがあってはなりません」というペトロに、「サタン、引き下がれ」と言われたイエス様でした。「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と指摘されています。この言葉は大切な鍵になります。神様がこの私に目を留めてくださっているのです。それなのに、人間のことを思いつつ生きようとする、それが私たちの生き方になっています。今朝の聖書は、イエス様が「神様のこと」を思いつつ生きるよう、自ら生き方を示しているのです。
 「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた」のであります。40日間、断食をしつつ祈りの内に過ごしました。断食が終わったとき、「誘惑する者」が現れ、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と誘います。つまり、イエス様はこれから世に現れ、宣教を開始されるのです。それには体力が必要です。今後の食生活を考えなければなりません。クリスマスに神の子として出現しましたが、人間として現れたのですから、人間としての生きる道が必要なのです。当然、イエス様も生活のことは考えるでしょう。
 このところニュースで、三人の家族が餓死したということ、また母親が脳梗塞で倒れてしまった側に、子どもが餓死していたことが報道されていました。痛ましい出来事です。食べ物が有り余っているような日本の社会で、どうしてこのようなことが起きるのだろうと思います。食べることに絶えず心を向けながら人間は生きるのです。イエス様も人間です。食べて行かなければならないのです。しかし、イエス様は、「人はパンだけで生きる者ではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と旧約聖書申命記8章3節の言葉を示しながらお応えになりました。人間が生きていくために生活の糧は大切です。しかし、生活の糧だけでは人間としては祝福されないのです。心が満たされなければならないのです。神様の御心で満たされ、生活の糧が与えられる、そこに祝福の歩みが導かれて来ることをイエス様は示しておられるのです。今度は「悪魔」として登場しますが、悪魔はイエス様を神殿の屋根に連れて行きます。エルサレムの都の中で一番高い場所になります。そこから飛び降りなさいというのです。下は石畳ですから、飛び降りたら大けがをするか死んでしまいます。しかし、悪魔が言うには、石畳に落ちる前に神様が天使を送って受け止めてくれるというのです。それに対してイエス様は、「あなたの神である主を試してはならない」との申命記6章16節の言葉を示して応えられたのでした。いつも私という存在に目を留めてくださっている神様であり、お導きに委ねることこそ大切なのであり、これ以上、神様のお守りを試す必要はないということです。三つ目の誘いは、イエス様を高い山に連れて行きます。この世のすべての国々とその繁栄を示します。だから悪魔にひれ伏すならば、これらのものをみんな与えようと言うのです。悪魔の家来になることが繁栄につながるとは、考えさせられる示しです。それに対して、イエス様は、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」との申命記6章13節の言葉を示してお応えになり、「退け、サタン」と一喝されたのでした。
 荒れ野における断食が終わったとき、主イエス・キリストの前に悪魔という存在が現れたように記されていますが、これはイエス様の内面的な戦いでありました。イエス様はまずバプテスマのヨハネから洗礼を受けます。ヨハネは思いとどまらせようとしますが、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と言われたのです。そして、その後に荒れ野の試練を受けられたのでした。人間としてのさまざまな誘惑を退けられたということです。洗礼を受けた後に、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声を聞かれたのでした。神様が目を留めてくださっている、その信仰がイエス様の原点であります。神様が目を留めてくださっているから、そこから一歩前進が導かれて行くのです。

 神様がこの私に目を留めてくださっているから、私達は今の状況を明日に向けて歩むことができるのです。確かに、今は行き詰って、どうしていいか分からない場合もあるでしょう。あの人のやり方が悪いと言いつつ、ただその人を恨みつつ過ごしているのでは、新しい歩みは導かれないのです。どう考えても、何もかも不利の立場に追いやられているとしか考えられません。しかし、その不利の立場に生きる私に目を留めてくださっているのが神様なのです。そうすると、では何故、神様が目を留めてくださるならば、もっと良い自分の立場に置かれないのかと思ってしまいます。私達は、神様が目を留めてくださることと、幸福な自分をいつも結びつけているのです。幸せなとき、楽しいときは神様が私に目を留めてくださっていることを感じます。しかし、辛いとき、悲しいときは、神様が私に目を留めてくださっているなんて思わないのです。
 神様が、このような私に、それは苦しい、悲しいときもありますが、人を裏切ってしまったときでも、目を留めてくださっているのです。主イエス・キリストの十字架の救いは、私たちに大きな喜びであります。その十字架のイエス様は、私が救いの喜びを持つときはもちろんですが、悲しみに生きる時にも、苦しみに生きる時にも、十字架のイエス様は私にまなざしを向けてくださっているのです。このまなざしが私たちの生きる支えなのです。
<祈祷>
聖なる御神様。至らぬ私に目を留めてくださり感謝致します。どうか、どのような状況に生きましょうとも、主のまなざしを支えとして歩むことができますようお導きください。主イエス・キリストの御名によりおささげいたします。アーメン。