説教「祝福の主にある希望」

2012年3月4日、横須賀上町教会
「受難節第2主日」 

説教、「祝福の主にある希望」 鈴木伸治牧師
聖書、詩編91編1-16節
   ローマの信徒への手紙5章1-11節
   マルコによる福音書12章1-12節
賛美、(説教前)讃美歌21・305「イエスの担った十字架は」、
   (説教後)讃美歌21・474「わが身の望みは」


 ただいまは受難節、四旬節、レントの歩みをしています。2月22日から受難節に入りましたので、今朝で受難節12日間の歩みとなります。40日間の歩みですから、主のご受難を仰ぎ見つつ、救いに至る道でありますので、私たちも次第に近づく十字架の救いの喜びを深めたいのであります。信仰を持って生きるということは、信仰者が十字架の救いをしっかりいただき歩むことですから、孤独な歩みでもあります。信仰は一人ひとりが主を信じて生きることであり、信仰の交わりが導かれながら、この私が十字架を仰ぎ見ることなのです。私達はこの横須賀上町教会に導かれ、共に礼拝をささげ、主にある交わりが深められていますが、いよいよ私が十字架の救いを信じて歩みたいのであります。
 4月からは専任の牧者が与えられていることは喜びであります。新たなる歩みに希望を持ちながら歩みたいのであります。4月から当教会に赴任する宮澤恵樹先生は、去る2月27日、日本聖書神学校を卒業しました。その卒業式に出席致しました。実は、私達が大塚平安教会で牧会していた頃、小林美恵子さんを神学校に送り出したのであります。4年間の学びを終え、今年で卒業することになり、お祝いに連れ合いと共に出席したのでした。今回は8名の皆さんが卒業されたのですが、私達が送り出した小林美恵子さんと共に、4月から横須賀上町教会に赴任される宮澤恵樹さんもおられました。卒業式が終わり、祝会の時に、金子信一先生から宮澤恵樹先生を紹介されました。実はこの宮澤先生の父上とは親しくさせていただいている間柄です。父上の宮澤豊先生は軽井沢南教会の牧師をされています。数年前にその軽井沢南教会から礼拝のお招きをいただき、礼拝と共にお交わりをしています。私が日本基督教団教団書記でしたので、5月の教区総会開催時に何回か東海教区の総会に教団問安使として伺いましたので、その都度、父上の宮澤豊先生とお交わりをしていました。その息子さんが横須賀上町教会の牧者に就任されるということ、神様の計り知れないお導きであると示されています。そのような関わりがありますので、私ができることはお手伝いしたいと思っています。
 私の経験というか、今までの牧師としての歩みを振りかる時、伝道者は孤独に生きなければならないということであります。教会員の皆さんに支えられての牧会でありますが、一人牧師の胸にしまっておかなければならないことがあります。教会員のお一人おひとりのこと、牧会上のことは連れ合いにも話しませんし、牧師が受け止め、神様にお祈りすることが牧会ということなのです。そのような孤独な姿がありますが、牧師は教会員によって育てられるのですから、新しい牧者を祈りつつお支えいただきたいと願っています。

 今朝の旧約聖書詩編91編であります。この詩編は神様のご加護を願い求め、神様がお守りくださる約束が記されているのであります。冒頭に、「いと高き神のもとに身を寄せて隠れ、全能の神の陰に宿る人よ、主に申し上げよ、『わたしの避けどころ、砦、わたしの神、依り頼む方』と」と歌われています。この詩編は46編の内容に似ています。46編の冒頭では、「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難の時、必ずそこにいまして助けてくださる」と歌われています。神様が絶大な保護者であり、お守りくださる方であることを歌っているのです。詩編46編はマルチン・ルターにも深い影響を与え、讃美歌21・377番「神はわが砦」を作詞・作曲しています。その1節は「神はわが砦、わが強き盾、すべての悩みを解き放ちたもう。悪しきものおごりたち、邪な企てもて戦を挑む」と歌っています。2節「打ち勝つ力はわれらには無し。力ある人を神は立てたもう。その人は主キリスト、万軍の君、われと共にたたかう主なり」と歌っています。他に457番の「神はわが力」はルターが作ったものではありませんが、詩編46編が基となっている讃美歌です。詩編91編は同じような内容ですが、詩編46編は「わたしたちの避けどころ」という複数で記しています。それに対して91編は「わたし」、「あなた」と単数で記しているのです。46編は「わたしたちの避けどころ」というように信仰を共にする人々の神様への信頼なのです。91編の場合は、「わたしの避けどころ」、「あなたは主を避けどころとし」と言われており、個人の信仰を励ましているということです。
 「神はあなたを救いだしてくださる。仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。神は羽をもってあなたを覆い、翼の下にかばってくださる」と一人の存在を励まし、主に希望を持つことを示しているのです。神様は個人であるあなたを決して見捨てることなく、どのような時にもお守りを与えてくださると示しています。11節以下は、「主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」と歌います。そのようにお守りくださっているのです。ところが、この言葉は悪魔の言葉としてもちいられました。それはマタイによる福音書4章における、イエス様が「誘惑を受ける」場面であります。40日間断食をして祈りの内に過ごしたイエス様に悪魔が現れ、誘惑するのです。最初の誘惑は食べることでした。これから世に出て行き、神様の御業の働きをするイエス様は体力が必要です。だから悪魔は「石をパンにして食べなさい」と誘惑します。それに対してイエス様は、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」のであると応えるのです。次に悪魔はイエス様を都の高い建物、神殿の屋根に連れて行きます。そして、ここから飛び降りなさいと言い、この詩編91編11節以下の言葉を引用するのです。「神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当ることのないように、天使たちは手であなたを支える」と詩編の言葉を持って誘惑するのでした。その時、イエス様は「あなたの神である主を試してはならない」との申命記6章16節の言葉で応えています。悪魔は神様が守ってくれるから試してみるということで引用していますが、詩編91編は絶大な信頼なのです。神様がご加護くださる、お守りくださる、固い信仰を歌っているのです。
 詩編91編14節からは、神様が一人の存在をお守りくださり、お助けくださることを示しています。「彼はわたしを慕う者だから、彼を災いから逃れさせよう。彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え、苦難の襲うとき、彼と共にいて助け、彼に名誉を与えよう」と、一人の存在をお守りくださる神様を示しているのです。
 この詩編91編をもとにして作られたのが讃美歌21の466番「山路超えて」であります。「信頼」という項目の中に置かれていますが、前の讃美歌、54年版は404番でしたが、「送別・旅行」という項目に分類されていました。確かに旅の空で不安があり、心細いのですが、そのために神様を信頼して歌います。しかし、旅は私たちのこの世の旅なのであり、神様を信頼して生きる歌であるのです。1節は「山路こえて、ひとり行けど、主の手にすがれる、身はやすけし」と歌っています。4節「みちけわしく、ゆくてとおし、こころざすかたに、いつか着くらん」と歌い、人生の荒波に生きようとも、神様のお守りがあり、たとえ孤独に生きようとも神様のご加護があることを喜びつつ歌っているのです。
 神様に身を寄せて生きること、絶大な力であることを歌います。詩編46編は共同体としての歌であり、詩編91編は個人としての信頼の歌なのであります。私たちも詩編91編を歌いつつ、「わたしの避けどころ」として歩みたいのであります。

 旧約聖書は信仰を示す普遍的な基です。神様に心を向ける、神様がご加護くださる、いつも神様の御心をいただく、その信仰が普遍的な信仰なのです。分厚い旧約聖書は、歴史書である創世記をはじめとする五書、あるいはイスラエルの歴史を述べる歴史書、そして詩編ヨブ記の文学書、イザヤ書エレミヤ書等の預言書は、いずれも神様の御心に生きるために、神様に身を寄せることなのです。そして神様のご加護をいただいて喜びつつ生きることなのです。そういうメッセージを発信しているのですが、新約聖書の時代はそのメッセージを踏みにじるのです。救いを遠ざける人々を新約聖書は示しています。
 今朝は新約聖書マルコによる福音書12章1節から12節であります。「ぶどう園と農夫」のたとえで示しています。マルコによる福音書は12章になりますと、イエス様の最後の一週間の歩みであります。11章1節以下にイエス様が都のエルサレムらお入りになることが記されています。お入りになりますと、まず神殿で商売をしている人達を追い出しています。神殿の商売というのは、鳩を売る店、両替の店などです。鳩は神殿に捧げるために必要な店なのです。両替の店は外国から来た人たちのために両替をしてあげることです。外国のお金ではなく、この国のお金をささげるので、必要な店でもあるのです。それなのにこれらの店を追い出したというのは、イエス様が言われるように、神殿は祈りの場所であるのに、掛け声よろしく、賑やかに店を出していたのでしょう。
 時々、鎌倉の八幡宮を散策して歩いています。いつも大勢の人で賑わっています。八幡宮の境内もいろいろな店で賑わっていますが、参詣には関係ない物、綿菓子とか飴、風船とかたこやき等の店が並んで掛け声を発しています。参詣した人が楽しく立ち寄るのでしよう。そのように考えると、イエス様が境内地で商売をしている人を追い出したということ、イエス様の祈りという姿勢を深く教えられる思いです。日本の場合、お参りに行くのか、楽しみで行くのか、観光なのか、目的がはっきりしなくなっている訳です。
エス様は都に入り、まず祈りの場所、祈りの大切なことを示されたのであります。そして、その後、神様の御心を人々にお話されているのですが、今朝の12章1節以下は、人々というより時の指導者達、律法学者や祭司たち、ファリサイ派の人々でした。彼らの姿勢、旧約聖書のメッセージを遠ざけている指導者たちへの示しでありました。
 たとえのお話はここに示されている通りです。ぶどう園の主人が雇人に管理を任せ旅に出ます。旅先からぶどう園の収穫を受け取るため、使いのものを差し向けますが、雇い人たちは使いの者に乱暴をし、侮辱します。他の使いの者は殺されてしまいます。主人は愛する息子を送りますが、雇人たちは息子を殺してしまったというのです。これはイエス様がたとえをお話されているのですが、イエス様は御自分のことを示されているのです。愛する子供を遣わす前に、主人は使いの者を何人も送っていますが、これは旧約聖書以来の預言者たちでした。預言者達は口をそろえて、人々に神様のもとに帰るように叫んでいるのです。しかし、人々はこの預言者の言葉に耳を傾けず、殺してしまうこともありました。新約聖書の時代になりましても、普遍的な神様の御心に帰ろうとしない人々がいるのです。特に時の指導者達であったのです。
 主イエス・キリストは「ぶどう園と農夫」のたとえをお話され、「愛する息子」は御自分であること示されていますが、さらに昔から言われている言葉、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」を引用されています。家を建てるときには、四隅に基礎的な石を置き、それを土台として建てるのですが、残った石はもはやいらないというわけで捨ててしまいます。しかし、また新たに家を建てるとき、捨てられた石から親石となるべき石を拾い上げるのです。捨てられたのに、今は重要な存在になっていること言う意味です。このたとえはこれから起こることなのですが、主イエス・キリストが人々から捨てられ、しかし、重要な存在になられることを示しているのであります。十字架によって死にいたらしめられるイエス様ですが、神様はこのイエス様を復活させ、人々の希望とされました。十字架で単に死んだのではない、人間の深い罪を担われ、御自分の十字架の死と共に人間の罪を贖われたのです。人々から捨てられたのに、隅の親石となって、私たちの体を支えてくださるのが主イエス・キリストであることを聖書は証ししているのです。

 私たちはこの捨てられた主イエス・キリストに希望を持っています。十字架により私達を贖ってくださっているからです。それはローマ人への手紙5章1節以下でパウロは示している通りであります。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導きいれられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」と喜びつつ示しています。パウロは「キリストのお陰」と言い、「神の栄光に輝く希望」と言っています。「希望」とは、私たちにとって「永遠の生命」であります。この世に生きる私たちは、詩編91編で示されましたように、孤独に生きながらも、神様のご加護をいただきながら歩むとき、そこには終着点の永遠の生命があるのです。讃美歌466番「山路超えて」も終着点を目指して歌っているのです。5節「されども主よ、われいのらじ、旅路の終わりの、ちかかれとは」、6節「日もくれなば、石のまくら、かりねの夢にも、み国しのばん」と歌うのです。私たちはこの「栄光に輝く希望」を与えられているのです。
 3月11日の東日本大震災の発生した日に近づいています。早くも一年になります。今に至るまで悲しみと、苦しみの中に生きる人々を示されています。それと共に日本の国も不安と行き詰まりを感じながら今日の状況を歩んでいます。人間は人生の途上、様々な出来事にめぐり合いながら生きることになります。順風満帆(じゅんぷうまんぱん)で一生を終えるということはありません。社会の中で、いろいろな関わりを持ちつつ生きるとき、様々な諸問題、諸課題を担わなければならないのです。それらをこの身に受け止めて生きるとき、「栄光に輝く希望」を与えられていること、まさに力です、喜びなのです。パウロが示すように主イエス・キリストのお陰げなのです。十字架の贖いのお陰なのです。
 パウロは「栄光に輝く希望を誇りにしています」と示しています。そして、その誇りは、「そればかりではなく、苦難をも誇りとしています。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことはありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」と示しているのです。
 祝福の主にある希望をいよいよ深めつつ、歩むことを今朝は示されたのであります。
<祈祷>
聖なる御神様。栄光に輝く希望を与えてくださり感謝致します。この希望がありますから、今の状況をいよいよ勇気を持って歩ませてください。主イエス・キリストの御名によりおささげ致します。アーメン。