説教「神の国に生きる者」

2012年3月11日、六浦谷間の集会
「受難節第3主日」 

説教、「神の国に生きる者」 鈴木伸治牧師
聖書、創世記13章8-18節
   エフェソの信徒への手紙5章1-8節
   ルカによる福音書9章57-62節
賛美、(説教前)讃美歌21・297「栄えの主イエスの」
   (説教後)讃美歌21・443「冠も天の座も」


 今朝の3月11日は、東日本大震災が発生した日であり、それから丁度一年になります。この一年間、悲しみと苦しみを深く持ちながらも、日本の国を挙げて復興に取り組んで来ました。しかし、なかなか思うように行かない面があり、今後も復興に取り組んで行くのであります。震災の渦中に置かれている人々の生活は、報道を通じて示されていますが、いよいよ支援して行かなければなりません。私たちのできることは風評被害を無くすことも一つであります。瓦礫の処理にしても、放射能汚染が気になり、自分の町では焼却することを反対する人々がいます。基準値以下であると説明しても反対する姿勢があるのです。「がんばろう日本」、「絆」等の言葉が合言葉になっていますが、言葉と現実にすれ違いがあることを示されるのであります。今後も日本の復興、震災の渦中に置かれている人々を心に示され、祈りつつ支援していきたいのであります。人々がどのような境遇に置かれましょうとも、神の国に生きている喜びを持っていただきたいのです。
 神の国を喜びつつ生きた方が、去る3月3日に召天され、その方のお証を示されたのでした。その方は気仙とみ子さんです。前任の大塚平安教会に1979年9月に就任した時、気仙さんは教会役員でした。1979年6月をもって乙幡和雄牧師が辞任することになり、後任牧師を選考する中で、気仙三一先生とお連れ合いのとみ子さんは、お会いしたこともないのですが、私とはいろいろと関わりがあることで推薦してくださったようです。一つは神学生時代に曙教会に出席して奉仕していましたが、それ以前に気仙先生が曙教会の牧会をされていたのでした。また、とみ子さんが学生時代に青山教会に出席されておられ、その後、私が伝道師、副牧師として青山教会で務めましたので、何かと私の情報をその二つの教会からお聞きになり、推薦してくださったのでした。気仙とみ子さんは1975年3月に永福町教会から大塚平安教会に転入会されました。気仙三一先生はその時から大塚平安教会に出席され、何かと協力くださっていたのでした。そして、1988年に御自宅に近い海老名教会に転出したのでありました。従って、大塚平安教会においては9年間のお交わりでした。気仙三一先生はその頃、フェリス女学院中学・高校の校長先生になられていました。曙教会、永福町教会等で牧会されていましたので、ご夫妻は私たち牧師家族を何かと心に掛けてくださっていました。家族を御自宅に招いてくださったり、天城山荘の利用券をくださったり、私たちの子供たちを顧みてくださっていました。家庭集会も開いてくださっていました。2009年11月26日に気仙三一先生は86歳で召天されました。それから約3年後にとみ子さんが83歳で召天されたのでした。お二人で神の国を喜びつつ歩まれたと示されています。海老名教会に移られたのは、年を重ねてから近くの教会でお世話になるのではなく、奉仕ができる今のうちに転会して、少しでもご奉仕をしたいということでした。歩いてもすぐ近くの教会を喜ばれながら過ごされていたのでした。常に神の国に生きるお喜びを持ちつつ歩まれたと示されています。
 私たちは主イエス・キリストの十字架の贖いをいただき、現実がいかなる状況でありましょうとも、現実は神の国である信じ、喜びつつ歩むのであります。

 今、このところに生きていることは神様のお導きであると信じたのはアブラハムでした。今朝は創世記13章8節以下18節までの示しとなっています。アブラハムは聖書の民族、へブル人、イスラエル人、ユダヤ人の先祖、最初の人でした。神様がこのアブラハムを選び、アブラハムを通して御心を示されるのであります。アブラハムは生まれたときアブラムと命名されていましたが、神様によってアブラハムと改名されたのでした。アブラハムとは「多くの国民の父」という意味であり、神様がアブラハムの祝福を通して、人々に祝福の歩みを導くのです。12章1節以下にアブラハムが神様から召命をいただき、導きに委ねて歩みはじめることが記されています。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」との神様の導きの言葉をいただいた時、アブラハムは主の言葉に従って旅立ったのであります。75歳の時でした。その時、アブラハムの妻サラと共に、甥のロトも共に連れて行きました。旅立った先はカナン地方でした。
 カナンに住むうちにも飢饉が起き、エジプトに一時寄留することになり、再びカナンに帰って来て住むようになります。後にヤコブの時代に飢饉の故にエジプトに寄留しますが、それと共に400年間の奴隷生活となります。モーセが立てられてエジプトを脱出し、カナンに戻ってくることが後に起きるのですが、アブラハムのエジプト寄留はその救いの出来事の前触れでもあります。アブラハムとロトの一族はその後、財産を多く持つことになります。それは創世記13章1節以下で示されています。そして今朝の聖書8節以下になります。「わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう」とアブラハムは甥のロトに提案するのでした。ここにアブラハム神の国に生きる姿勢が示されています。自分の思いを先にするのではなく、甥のロトに優先権を委ねているのです。だからロトはヨルダン川流域の低地一帯を選びます。そこは見渡す限り良く潤っていたのであります。アブラハムは原野にも近いカナンに住み、ロトは低地の潤った地に住むことになります。神様のお導きに委ねているのであります。そのアブラハムに、「さあ、目を上げて、あなたのいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える」と神様は言われるのでした。そして、「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう」とアブラハムの行く末を示されたのでした。
 このようにアブラハムは神様の約束に委ねて新しい歩みが始まるのでした。しかし、アブラハムも一人の人間として、やはり人間としての思いが先だってしまいます。東西南北見渡す限り、あなたの土地にすると言われ、子孫を砂粒のようにすると約束されているのですが、一向にそのようにならないことで焦りを持つようになるのです。そして、そのまま100歳にもなっていくのです。子供が与えられないということで、人間的な思いで、サラに仕えるハガルから子供を得るのです。人間的に将来を実現しようとするアブラハムに対して、御心による将来を導くのです。もはや高齢で子供ができないようなサラを通してイサクが生まれるのです。こうしたことからアブラハムは黙々と神様の導きに委ねて歩むことになります。結局、アブラハムは自分の土地を手にするのは、サラが死んで、埋葬するために得た土地だけでした。子供は一人イサク、土地はサラの墓地だけで、この世の生涯を終えるのです。しかし、アブラハムは祝福の基であると約束されています。その後、イサク、ヤコブを通して次第に子孫が増えていき、そして奴隷の時代から解放されて、カナンの土地に住むようになるのです。神様の御心に委ねて歩むアブラハムでした。いろいろな苦しい状況がありますが、この状況は神様のお導きであると信じて歩んだのでありのます。神様の導きに委ねて歩む、それは現実を神の国として歩むことなのです。

 神様のお導きを喜び、委ねて歩みながら、「後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」とは主イエス・キリストの警告であります。新約聖書ルカによる福音書9章57節から62節が今朝の示しです。「弟子の覚悟」として示されています。この聖書はマタイによる福音書8章18節以下でも示されていますが、示されている趣旨が異なります。マタイの場合は、「弟子の覚悟」として示されていますように、イエス様のお弟子さんになることです。それに対して、ルカの場合はイエス様のお弟子さんになり、神の国に生きることに重点を置いているのです。イエス様の一行が進んでいると、ある人が「あなたがおいでになるところなら、どこへでも従って参ります」と言いました。イエス様の周りにはいつもいろいろな人々がいるのです。イエス様の力ある業、心に響くお話を見たり聞いたりしている人々の感想でもあります。感想はもっとイエス様の教えをいただき、イエス様のように教える者となりたいとの願望でもあるのです。それに対してイエス様は、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところもない」と言われました。ただ、イエス様の教えをもっといただきたいとの安易な思いに対し、イエス様に従うことは厳しい現実を示しています。まず生活の問題です。人々には家があり、そこで食べて寝ての生活があるのですが、それらの保障もなく神様の御用をされているのです。
そのように述べたイエス様は別の人に、「わたしに従いなさい」と招いています。するとその人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言うのです。それに対してイエス様は、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と言われるのです。ユダヤ教の社会の中で、このイエス様の言葉は社会の秩序をひっくり返すようなことです。十戒の戒律の中にも「あなたの父、母を敬いなさい」と教えらており、イエス様の言葉は、父の葬りをおろそかにするような教えにもなっています。安息日規定があり、何もしてはいけない戒律の中で、もし安息日に葬式があるならば許されることでした。「どこへでも従います」とイエス様に言っていますが、この人々はイエス様の教えをいただいて、それで弟子になると思っているのです。弟子になるということは、教えを覚えることではなく、イエス様のようになるということです。「枕するところがない」歩みをしながら、ただ神様の御心をいただいて生きるということは、イエス様の教えをいただくこととは異なります。父の葬式まで放棄するという厳しい言い方ですが、それほどの覚悟が求められているのです。ただイエス様の教えを覚えるというのではなく、イエス様ご自身の姿、生き方になることを示しているのです。
 さらに別の人は、「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」と言います。それに対して言われたことは、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言うことです。旧約聖書で、エリヤがエリシャに弟子として招くことが記されています。列王記上19章19節以下に記されていることです。その時、エリシャは牛をもって畑を耕していたところでした。エリシャはエリアの弟子への招きに応えるのですが、家族にいとまごいをしてから従いますと言います。エリヤはそれを許しています。エリシャは家族や知人と盛大な別れの晩さん会をしてからエリヤの弟子になるのでした。しかし、イエス様はそのいとまごいを拒否するのです。もはや、イエス様の弟子になることを決心しているのであれば、直ちに従うということです。「鋤に手をかける」とは土地を耕す道具ですが、鋤に手をかけながら、他を見るということは、今の仕事に集中できない姿なのです。鋤に手をかけたら、一生懸命に手や足を動かすことなのです。従って、イエス様のお弟子さんになると言いながら、あちらこちらに気を使うことへの警告なのです。イエス様はエリア以上に厳しく、従うことの意義を示されているのです。

エス様のお弟子さんになるということが、神の国に生きるということです。神の国に生きるということは、現実があたかも神の国、天国に生きているように喜びつつ生きることです。ところが、わたしたちの現実は喜びつつ生きるようなものではないと思います。災害に苦しんでいる人々が現実におられるからです。自分自身も今の生活に満足できないでいることもあります。神の国に生きるということは、うれしいことが与えられる現実ではないということです。苦しい状況ですが、この現実にイエス様が共にいてくださり、導き、励ましておられることを知るとき、神の国に生きる喜びとなるのです。主イエス・キリストは十字架にお架りになり、私達の自己満足主義を贖ってくださったのです。現実が不本意な生活であったにしても、苦しく悲しい歩みであったとしても、主が共にいてくださり、私たちを導き、永遠の生命への道を備えてくださっているので、まさに神の国に生きる喜びが与えられるのです。
 「キリストに倣いて」(イミタチオ・クリスチ)と言う本があります。聖書に次ぐ宗教的古典として知られています。この本は主イエス・キリストに倣い、徹底的にイエス様のように生きることを教えています。ここに示されているように生きるとは、あたかも修道士のような生き方になり、世捨て人にもなりかねません。ここまでは出来ないと思ってしまいますが、これは基本的な教えなのであり、そんなに深刻に受け止めるのではなく、一つの指針として示されたいのであります。私達は、今置かれている現実を主の御心として受け止めて生きるということです。この現実に主イエス・キリストが共におられる、この信仰が「神の国に生きる者」なのです。
<祈祷>
聖なる御神様。主の弟子へとお導きくださり感謝致します。現実をしっかりと受け止め、常に神の国に生きる者とさせてください。主の御名によってお祈り致します。アーメン。