説教「主のいるところ」

2012年3月18日、六浦谷間の集会
「受難節第4主日」 

説教、「主のいるところ」 鈴木伸治牧師
聖書、出エジプト記33章12-17節
   コリントの信徒への手紙<二>1章3-7節
   ヨハネによる福音書12章20-26節
賛美、(説教前)讃美歌21・298「ああ主は誰がため」
   (説教後)讃美歌21・461「みめぐみゆたけき」


 3月も半ばを過ぎ、間もなく4月を迎えようとしていますが、3月が終わるというより、2011年度が終わるという意味合いがあります。今は年度が変わるということで、忙しくもなく、毎日平然と過ごしているのですが、大塚平安教会とドレーパー記念幼稚園在任中の頃は、今の時期はいろいろなことに思いを寄せながら歩んでいたのでした。今ごろは卒業式の頃です。この卒業式を前にして、その練習やら、教会から子供たちに聖書を贈呈するのですが、一人一人の聖書の扉に励ましの言葉を書いたりしていました。2月中は卒業する子供たちと、毎回5、6名ずつ、一緒にお弁当を食べていました。毎回、賑やかにお弁当を食べていましたが、一通り会食が終わると、ホッとするような思いでした。
 ドレーパー記念幼稚園は卒業式と称し、卒園式ではありません。幼稚園時代の遊びを卒業するのであり、幼稚園は卒園しないのです。送り出した子供達には生涯教育として関わっていきたいからです。そのため、卒業した年の7月には同窓会を開きます。一年生になった子供達が元気に幼稚園に帰ってくるのです。そして小学校を卒業する子供達の同窓会、中学校を卒業した子供達の同窓会を開催しています。毎年、春分の日のお休みの日に開催しており、今年は明後日の20日になります。久しぶりに卒業した子供達と再会できる事を楽しみにしています。その後の同窓会はありませんが、幼稚園後援会が「ドレーパーだより」を年一回発行しており、幼稚園と卒業生のパイプ役を担っています。卒業しても主イエス様のお心をもって、力強く、元気に歩んでいただきたいと祈っているのです。そして、幼稚園の母体である教会の存在を常に示しているのです。
 卒業式は子供たちを送り出す時ですが、それは祈りつつ新しい世界に送り出すということでした。卒業証書を渡しながら、牧師・園長が、卒業する子供の頭に手を置いて祝福のお祈りを致します。「神様を愛し、人々を愛する人になりますように」と祝福のお祈りをして送り出していたのです。従って、ドレーパー記念幼稚園の子供たちは祝福が基となって成長しているのです。子供たちは祝福をいただく姿勢が上手です。それは誕生会で祝福のお祈りをいただいているからです。4歳児で入園すれば2回の誕生祝福を受けています。さらに11月の祝福式、これは希望者になりますが、ここでも祝福を受けています。そして、幼稚園は祝福礼拝を行いますが、この時はクラス毎の祝福ですが、皆で一緒に祝福をいただくのです。従って、卒業式までに6回の祝福をいただいているのです。そして、卒業式の祝福は、しっかりと祝福をいただいて巣立っていくのです。静かに頭を下げる子供の頭に手を置く時、主イエス様の祝福が力強く与えられたと信じていました。
 主イエス様に心を向けるとき、神様の慰めとお導きを示されていくのです。今年も卒業式の時となり、祝福をいただいて巣立っていく子供たちをお祈りしたのでした。祝福をいただいたから、いつも良い子でいるのか、必ずしもそうではありません。社会の中で、いろいろな出来事、人間関係の中で、自分本位に生きることもあるでしょう。人を傷つけながら生きることもあるでしょう。しかし、祝福と言う原点があるのです。何処かで、再び原点に立ち戻り、まさに社会の中で祝福の人生を歩んでいただきたいのです。

 今朝の旧約聖書は原点に立ち戻ることの示しであります。ヤコブの一族がエジプトに寄留することになり、その後、奴隷にさせられるのですが、その400年間の苦しみから、神様はモーセを立てて聖書の人々を奴隷から解放しました。エジプトを脱出した聖書の人々は三ヶ月を経てシナイ山の麓に到着し、そこで山に向かって宿営しました。モーセはそのシナイ山に上って行ったのであります。その時、神様はモーセに言われました。「あなたたちは見た。わたしがエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れてきたことを。今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる」と言われました。聖書の人々は、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と応えたのであります。その人々に神様は十戒を授けたのでありました。
 十戒をいただくためにシナイ山モーセは上って行きました、十戒と共に主の御心である戒め、掟を与えたのでありました。モーセが山に上ったまま、なかなか降りて来ないので聖書の人々は不安になります。今まではモーセが先頭に立って荒野を歩んできたのです。モーセが居なくなったら、どうしたらよいのかとの思いは、モーセに代わる神の存在を造ることでした。偶像です。今までモーセと共に人々を導いてきたアロンに対して、偶像を造るよう迫るのでした。アロンは人々の要求通りに金の子牛なる偶像を造るのです。すると人々は金の子牛の偶像の周りで踊り狂い、ささげ物をしたりするのでした。人々はすっかり偶像崇拝者になってしまったのです。神様はその人々の偶像崇拝を激しく怒ります。そして、この人々を滅ぼすと宣言されるのです。モーセは急いで下山すると、人々は偶像礼拝の盛りでした。モーセは授かった十戒を砕きます。そして、人々が崇拝している金の子牛を粉々に破壊するのです。偶像崇拝をした多くの人々は滅ぼされました。モーセはこの偶像崇拝の罪を心から悔い改めさせます。人々はモーセの指導に委ねるのですが、神様のお怒りに対して、心から悔い改めるのです。
 そこで今朝の聖書になります。33章12節からは、モーセが人々のために執り成しと導きを懇願しているのです。「お願いです。もしあなたがわたしに御好意を示してくださるのでしたら、どうか今、あなたの道をお示しください。どうか、この国民があなたの民であることも目にお留めください」と懇願しています。ここで注目しておきたいのは、「この国民があなたの民であることも」と言っていることです。モーセは自分でも言っているように、神様に御好意をいただき、選ばれて人々をエジプトから脱出させました。しかし、その人々は偶像崇拝になり、神様はこの国民を見放したのです。だから、モーセは御好意をいただいているのですが、「この国民があなたの民であることも」と言っているのです。自分と同じように、この国民も神様の民であることを心にとどめてくださいとお願いしているのです。
 それに対して神様は、「わたしは、あなたのこの願いをかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである」と言われたのです。この神様の言葉の中には、国民はありません。神様はモーセに好意を寄せられ、再び十戒を与えるのですが、人々はモーセの示す十戒により、神様の御心の道を歩むことになるのです。人々はモーセを通して御心を示され、モーセに導かれて前進するということなのです。神様に対して国民、人々はかたくなな民であり、偶像崇拝者であります。しかし、神様が好意を寄せているモーセに従い、御心を示されて生きるならば祝福の道へと導くことを示しているのです。

 前回の説教ではアブラハムについて示されました。神様は、「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」と言われて、選んでいました。今朝の聖書も、モーセを通して人々の導きを示しているのです。一人の存在を通して神様のお導きがある、それは主イエス・キリストの十字架の贖いによる救いを示されるのであります。新約聖書ヨハネによる福音書12章20節以下により示されています。
 今朝の聖書はギリシャ人が主イエス・キリストに会いたいとのことで、お弟子さんを通してお願いしています。「さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシャ人がいた」と言うことです。従って、ここのギリシャ人はユダヤ教に改宗した人たちと思えます。礼拝するためにやって来たのですから。しかし、彼らもイエス様の力ある業、御言葉は聞き及んでいたのでしょう。ぜひ、お会いしてお話を聞きたいと思っていたのです。それでお弟子さんのフィリポに仲介をお願いしたのでした。そのフィリポは同じお弟子さんのアンデレに話し、二人でイエス様に、ギリシャ人がお会いしたいと願っていることを取り次ぐのでした。それに対してイエス様はお応えになりました。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と言われたのであります。ギリシャ人がお会いしたいと申し入れている訳ですが、イエス様の答えの中には、それについては一言も触れられていないのです。さらに言われていることは、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え」と言われているのであります。
 今朝の聖書の前の段落には「エルサレムに迎えられる」ことが記されています。エルサレムの都の人々はイエス様を歓呼して迎えました。しかし、この後はイエス様の十字架への道が始まるのです。今朝の聖書も「一粒の麦は、地に落ちて死ぬ」ことを示していますが、これはイエス様が十字架にお架りになって死ぬことであります。しかし、それによって、麦が地面に入って死ぬことは、多くの実を結ぶことであり、イエス様が十字架で死ぬということは、人々が永遠の命へと導かれることなのです。イエス様に従うならば、イエス様のいるところに「わたしに仕える者もいることになる」と言われているのであります。「わたしに仕えるものがいれば、父はその人を大切にしてくださる」と言われていること、これが今朝の示しです。すなわち、主イエス・キリストの十字架の贖いは、私自身を救うものであり、イエス様によって救いが与えられていることを信じることです。それにより、神様がその信仰の人を大切にしてくださるということなのです。
 イエス様はお会いすることを求めているギリシャ人への答えとして示しているのです。あれこれイエス様からお話を聞かなくても、この十字架の救いを信じるかと問うているのです。しかし、ここではまだ十字架の時は来ていません。来ていませんが、イエス様は「人の子が栄光を受ける時が来た」とはっきり言われています。十字架の救いがもはや迫っているのです。人々は十字架を仰ぎ見ることにより、道が示されるのです。このことは旧約聖書のメッセージが示す通りです。モーセが「この国民があなたの民であることも」と言って、神様が国民を顧みてくださることを求めていますが、神様の示しは、人々がモーセに向くということでした。なぜならば、モーセを通して十戒が与えられ、掟、戒めが与えられているのです。モーセを通して祝福の約束の土地へと導かれていくのです。人々はただモーセを見つめ、導きに委ねることでした。新約聖書も同じように、人々はただ十字架を仰ぎ見ることなのです。この十字架に歩むべき指針が示されているのです。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と示しています。私たちは、その多くの実の一つなのです。十字架に従う時、「神様はその人を大切にする」と主イエス・キリストは約束されているのです。すなわち「主のいるところ」と題しての今朝の説教ですが、モーセと共におられた神様であり、主イエス・キリストの十字架と共におられる神様であることを示しているのであります。「主のいるところ」は平和であり、祝福へと導かれることを教えているのです。

 今朝の聖書は「一粒の麦」の示しですが、この聖書の言葉は人々に深い示しを与えています。フランスの作家アンドレ・ジイドが「一粒の麦」と言う小説を書いています。自己告白的な小説でもあります。また、ロシアの作家ドストフスキーが「カラマーゾフの兄弟」を書いていますが、ロシア革命運動で果たした役割が一粒の麦の存在であったと記しているのです。日本では賀川豊彦さんが「一粒の麦」を書いています。主人公の嘉吉は貧しい家で育ちますが、一生懸命に家族を養う。そういう中で、嘉吉と婚約した芳江は、嘉吉の家に入り、貧しい家を助ける。嘉吉の家族は、父親はアル中で脳溢血になり、半身不随である。長女と次女は芸者、娼婦に売られている。長男は殺人犯、末の弟は病気で寝たきりである。その中で母と三女が働いている。その家に入った芳江は機織りをしつつ生計を手伝うのである。家族に仕え、近所の人々にも使えつつ生きる芳江であります。しかし、ついに体を壊して寝込むことになる。母と三女は病気になった芳江に冷たく扱います。どん底の中で、人々に仕えて生きた吉江は、まさに「一粒の麦」として人々に希望を与えたのです。根底にあるのは主イエス・キリストの十字架による救いです。三浦綾子さんも「塩狩峠」という作品の中で、一人の人が犠牲になって人々を救ったことを記していますが、十字架の信仰に基づくものです。
 主イエス・キリストに従うことは、十字架の信仰に導かれることですが、では、私たちも犠牲になることなのかと思ってしまいます。私達が犠牲になるのは、私自身の自己満足なのです。自分のもつ自己中心を放棄することが、十字架の信仰なのです。その信仰に導かれること、主のいるところに、私たちもいることであると今朝は示されました。
<祈祷>
聖なる御神様。ただ一つのこと、十字架を仰ぎ見ることができまして感謝致します。どうかいつも十字架のもとに侍る者へと導いてください。主の名によって。アーメン。