説教「主の憐れみ」

2012年3月25日、六浦谷間の集会
「受難節第5主日」 

説教、「主の憐れみ」 鈴木伸治牧師
聖書、イザヤ書49章7-10節
   テトスへの手紙3章1-7節
   マルコによる福音書10章35-45節
賛美、(説教前)讃美歌21・299「うつりゆく世にも」
   (説教後)讃美歌21・432「重荷を負う者」


 今年は受難節、レントが2月の22日から始まりましたが、今朝は受難節第5主日であり、次週の4月1日は棕櫚の主日、受難週に入ります。主の十字架の救いの時が近づいてまいりました。主の十字架による贖いをいただき、信仰を深めて歩みたいのであります。
 今朝は2011年度の最後、3月の最終の礼拝になります。この年度も神様の憐れみとお導きをいただきながら歩むことができました。最終の礼拝として感謝しつつ神様に向きたいのであります。大塚平安教会を退任してから、もはや2年を経ておりますが、昨年は4月4日からスペイン・バルセロナでピアノの演奏活動をしている羊子のもとに行くことで、気持ちがそちらに傾き、感謝の思いが薄れていたのではないかと思います。2年前の3月の最終の礼拝、3月28日でありましたが、大塚平安教会の最後の礼拝でした。最後の礼拝ということで、普段礼拝に出席できない方もご出席くださり、お別れの礼拝を共にささげたのでありました。遠く高崎の地に住んでいる方が会衆の中におられて驚きました。また、他の教会員であり、幼稚園教師として務められた方もおられ、この礼拝にご出席くださったことに心から感謝したのであります。その時も娘の羊子がスペインから帰国し、当日の奏楽を担当してくれました。感激しましたのは、羊子ばかりではなく、星子も百合子も部分的に奏楽を担当していたのです。星子は、その前の礼拝でも奏楽を担当してくれました。その時も百合子が部分的に奏楽を担当していました。いわば、この教会で成長した子供達が、親の最後の礼拝で、奏楽を担当したということ、まさに神様のお導きとして感謝したのであります。そして、礼拝後は幼稚園ホールで送別会が開かれ、礼拝にご出席の皆さんはほとんどお残りになっておられました。皆さんからのお別れの言葉は、私たちの心に深く刻まれています。いつもはクリスマスやイースターの時にポトラックの食事でしたが、この日も私達が要望してポトラックの食事にしていただきました。最後に皆さんの手作りのご馳走をいただく喜びを得たのであります。
 その最後の礼拝は棕櫚の主日であり、受難週に入るのです。主の十字架はご受難でありますが、私たちをお救いくださること、十字架の贖いの完成なのです。その意味で、完成の時を持って大塚平安教会を退任することの導きを深く示されていました。そして、次週の4月の第一主日イースターであり、新しい歩みが始まって行くのでした。私は、最後の礼拝において、次のようにメッセージを取り次ぎ、終わりとしたのでした、改めて、その時のメッセージを記しておきましょう。「時の到来」として示されました。
「説教集が発行され感謝しています。説教集の発行は鈴木伸治牧師に説教を生み出させた皆さんの証し集であるのです。その題を「最初の朝餐」としました。「最後の晩餐」において信仰を導く原点が示されました。「最初の朝餐」「は、復活されたイエス様がお弟子さん達と最初に朝の食事されたのであります。お弟子さん達は、今後は自立して歩みだすのであります。今まではイエス様と一緒でした。しかし、もはやイエス様は目に見える存在ではなく、復活信仰の中で導かれる方なのであります。朝の食事を与えたイエス様は、お弟子さん達を新しい歩みへと導いておられるのであります。「時の到来」はイエス様の十字架の救いが完成されたことであります。そして、時の到来は、明日への新しい時へと導かれることなのであります。十字架のイエス様を仰ぎ見つつ新しい歩みへと導かれるのであります。大塚平安教会、ドレーパー記念幼稚園、綾瀬ホーム、さがみ野ホームの皆さんは、時の到来をしっかりと受け止め、明日への歩みを踏みしめてゆくでありましょう。それぞれの皆さんに主イエス・キリストの祝福が豊かにありますようお祈りいたします。」
 私たちは自らを顧みるとき、主の憐れみによって導かれているのであります。私の大塚平安教会における30年6ヶ月の牧会はまさに主の憐れみによるものです。主の憐れみが私に注がれていること、それは、今の私は隠退牧師になっていますが、この状況にも主の憐れみが注がれており、御言葉に向かう導きを与えてくださっているのです。これからも主の憐れみをいただきながら、御言葉に向かいつつ歩みたく願っています。

 旧約聖書イザヤ書49章7節から10節が今朝の聖書ですが、ここには神様の憐れみによる救いが喜びつつ記されています。聖書の人々はバビロンの国に滅ぼされ、多くの人々がバビロンに捕らえ移され、奴隷として生きているのです。それをバビロン捕囚と称しています。苦しい捕囚に生きること50年と言われています。しかし、神様が憐れみのうちに捕囚からの解放を導いてくださるのです。7節、「イスラエルを贖う聖なる神、主は、人に侮られ、国々に忌むべき者とされ、支配者らの僕とされた者に向かって、言われる。王たちは見て立ち上がり、君侯はひれ伏す。真実にいますイスラエルの聖なる神、主が、あなたを選ばれたのを見て」とイザヤは示しています。人に侮られ、忌むべき者とされていましたが、今こそ神様が憐れみをくださり、苦しみの人々を選ばれたのであります。神様の憐れみが人々を苦しみから解放してくれるのです。神様は言われます。「わたしは恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた」と導きをはっきりと示しています。
 神様は憐れみを与え、導かれているのですが、私たちは、その神様の憐れみを知ることなく、ただ自分の無力を悲しんでいるのです。大塚平安教会は30年6ヶ月の牧会でした。その前の10年6ヶ月の牧会があります。神学校を卒業して、最初は青山教会で伝道師、副牧師を担い、4年を経てから宮城県の陸前古川教会に赴任しました。私が赴任する前は後藤金次郎牧師が40年間も牧会されていました。その後の牧会を担いましたが、3年を経た頃かと思いますが、なかなか洗礼者が生まれない状況の中で、前任の後藤先生に手紙を書きました。未だに洗礼者が与えられないことで、牧師として無力を感じるという内容であったと思います。すると、後藤先生は、教会には人が来ないものです。洗礼者も与えられないものです。しかし、神様がしかるべき時に導きを与えてくださいます、との助言をくださいました。伝道すれば、すぐに成果が出てくると思っていた若い牧師には、しみじみとこの言葉をいただいたのです。そして、今朝の聖書に示されるように、「わたしは恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた」と言われる神様の導きは、まさにその通りなのであります。その後、10人の皆さんが洗礼へと導かれていくのでありますが、神様の恵みの時、救いの時は、神様が良しとされるときに現されて来るということを示されるのでした。自分の力ではないということ、神様の憐れみと導きのもとに歩むということを示されたのであります。「彼らは飢えることなく、渇くことはない。憐れみ深い方が彼らを導き、湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる」とまことに慰めに満ちた、希望にあふれた言葉を示されているのであります。その後、捕囚の人々は「恵みの時、救いの日」を与えられ、喜びつつ解放されて故郷へ帰って行くのです。

 「恵みの時、救いの日」が今こそ実現する、と主イエス・キリストは示しています。それは人間的な思いで実現するのではなく、神様がその時を導いておられるのです。新約聖書マルコによる福音書10章35節以下が今朝の示しとなっています。「ヤコブヨハネの願い」として記されています。イエス様のお弟子さんは12人いますが、その中でヤコブヨハネは、ペトロとアンデレと同じように、最初にお弟子さんに導かれた人達でした。そういう意味もあるのでしょう、自分達は弟子の中でも選ばれた存在であるという思いを持っていたのです。だから、ヤコブヨハネはイエス様に、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」とお願いしました。ここで、このようなお願いをするのは場違いでもあるのです。なぜならば、今朝の聖書の前の段落には、「イエス、三度自分の死と復活を予告する」ことが記されているのです。もう、三度もイエス様は御自分の受難を予告されているのです。今までも受難予告されたとき、お弟子さん達は真実受け止めませんでした。この度もヤコブヨハネが受難予告を無視してイエス様にお願いしています。さらに、この二人のお願いを聞いた他の10人のお弟子さん達が、二人のことで「腹を立て始めた」のでありました。結局、他のお弟子さんたちもイエス様の受難予告を無視していたことになります。彼らにとって「恵みの時、救いの日」は自分達の思いで実現すると思っていたのです。
 「恵みの時、救いの日」は神様がお導きになるのです。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が支配し、偉い人たちが権力をふるっている。しかし、あなたがたの間は、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と教えています。つまり、人間の世界では、自分の思い通りにすることです。だから権力があり、上に立つ者は、自分の思い通りにしているのです。歴史の中で、まさに支配者は自分の命令で戦いを繰り返し、国造りをしています。命令に従わなければ排除され、殺されていくのです。そのような自分の思いのままに生きる人間の姿、今、ここにお弟子さん達の中にもあるのです。主イエス・キリストは、受難の道が神様のお導きであることを繰り返し示しています。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」とイエス様は神様のお導きを示しているのであります。イエス様が教えておられるように、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」ということ、人間の思いを持って生きることに警告し、「恵みの日、救いの日」を信じてあゆむことを教えているのです。「多くの人の身代金として自分の命を献げる」イエス様なのです。
 「身代金」は一般的には奴隷や捕虜を解放するために支払われる代金です。出エジプト記21章28節に、「牛が人を突いて死なせた場合、その牛の所有者が自分の命の代償として支払う賠償金」について記されています。その牛は殺されるのですが、この牛の所有者には罪がないことになります。罪があるとされるのは、この牛が以前から人を突く癖があり、所有者に警告されていたのに、所有者が警告を守らず、牛が人を突いた場合、この所有者に罪が発生するのです。その時に賠償金を払うということです。いわゆる自分の命の代わりに支払うお金であり、身代金なのです。その他にも身代金について規定されていますが、イエス様が身代金になるということ、何のためなのでしょう。身代金は自分と関わりのある存在、人間にしても動物にしても、その存在の犯した問題を自分がお金を払って償うということです。イエス様は何のために償うのでしょうか。私達、人間のためなのです。人間は原罪を持って生きているのです。それは、結局は自分を優先し、そのために他者を排除し、切り捨てていく姿です。人間はこの姿勢をどうしても無くすことができないのです。そこで、イエス様は人間に関わり、その人間の罪を贖うために、御自分を身代金としたのです。すなわち、十字架にお架りになることは人間の罪を贖うためでありました。その道を歩むこと、神様の定めた「恵みの時、救いの日」であるのです。
 このことをお弟子さん達に教え、だから人間の思いで、意のままに生きる姿に警告を出されているのです。神様が祝福の道へと導いてくださるのです。この苦しさは、いつまでも続くのではない、この悲しみは喜びの土台となることを、旧約聖書から示されていますが、イエス様は十字架の救いを私達の現実に与えてくれたのです。今こそ「恵みの時、救いの日」であるのです。

 この3月は、昨年の東関東大震災の悲しみを改めて示される月でした。多くの人々が犠牲になりました。愛する者を失った皆さんは、その悲しみが癒えることはありません。私たちも、どんな言葉を持ってお慰めしてよいか分かりません。何故、との問いには何も答えられないのです。苦しみの現実、愛する者を失った悲しみ、この現実は何であるのか、と問い続けなければならないのです。しかし、私たちは苦しみと悲しみの現実に生きるとき、神様の憐れみが厳然と与えられていることを認めたいのです。世界の人々が復興をお祈りしています。多くの人々が苦しみと悲しみにおられる人々と共に寄り添って生きようとしています。神様の憐れみが、今こそ「恵みの時、救いの日」であることを受け止めたいのであります。NHKの連続テレビで「カーネーション」を見ています。最近の場面で、考えさせられる会話がありました。主人公の糸子さんは88歳になっていますが、病院でファッションショーを開催します。モデルの中に末期がんの女性がいます。その人に言った言葉は、「今こそ奇跡を生むときですよ」と言うことでした。末期がんであっても、モデルとして美しい服を着て、皆さんの前に出る。笑顔を持って皆さんの前を歩く姿は、まさに奇跡でした。その女性の二人の子供たちは、輝くお母さんに抱きついていきました。たとえ、どのような状況でありましょうとも、今は「恵みの時、救いの日」であることを受け止めたいのです。神様の憐れみが、この現実の私を導いているのです。十字架のイエス様が私を憐れみ、導いておられるのです。
<祈祷>
聖なる御神様。あなたの御憐れみをいただき、感謝致します。恵みと救いを信じていよいよ力強く歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。