説教「主の救いを見る」

2020年3月8日、六浦谷間の集会
「受難節第2主日

 

説教、「主の救いを見る」 鈴木伸治牧師
聖書、列王記下6章8-17節

   エフェソの信徒への手紙5章6-14節
   ヨハネによる福音書9章1-12節
賛美、(説教前)讃美歌54年版・134「いざいざきたりて」
   (説教後)讃美歌54年版・452「ただしく清くあらまし」

 


 受難節第二週となりました。主イエス・キリストのご受難がこの私の救いの基でありますので、いよいよ主のご受難を受け止め、救い主への信仰を深めたいのであります。主のご受難を仰ぎ見るほどに、救いが見えてくるのであります。救いが見えるということ、まさに「真実に生きる道」が与えられるということです。
 「救い」という言葉は、今ほど求められているのではないでしょうか。世界的に広まっている新型コロナウィルスの感染は深刻な問題です。多くの人々が感染し、死んだ人も多くおられます。日本でも感染予防対策が急務になっていますが、3月2日から小学校、中学校、高等学校は春休みまで臨時休校になりました。これは総理大臣の要請でありますが、ほとんどの学校は要請を受けて休校にしています。しかし、休校は幼稚園、保育園は含まれていませんので、関係者は判断に苦慮しているのです。幼稚園を休園にすると、働いている保護者は、小さい子供を家に残して仕事にはいかれないのです。そのため判断ができないでいるのです。伊勢原市の幼稚園協会は2日から8日間は休園にするよう要請を出しましたので、伊勢原幼稚園も休園にしました。しかし、保育園扱いの子どもたちは預かりをしています。学校の休校ということで、子どもたちの過ごし方が課題となっています。学童保育は、いつもは学校が終わってからの預かりですが、朝から子どもたちを受け入れることになっています。
 コロナウィルスに対しての特効薬が開発されていませんので、瞬く間に世界に広まっていきました。何とかして感染を食い止める方向が与えられることを願っています。今こそ、「救い」という言葉が重くなっているのではないでしょうか。主イエス・キリストの時代は、支配者によって歩まなければならない時代です。重く苦しい時代でありました。どこに生きる道を求めるのか、決められないのです。それは歴史を通しての歩みでもありました。もともと小国である聖書の人々は、いつの時代も外国の支配を受けていたのです。苦しい時代であり、そういう中で救いを求めているのですが、聖書は昔から救い主の出現を待望していたのです。歴史においてダビデの時代は平和であり、ダビデ王のもとで豊かな歩みをしていたのです。しかし、その後は外国の支配のもとに苦しい生活となりました。そういう中で、再びダビデのような存在が現れることを待望するようになったのです、それがメシア思想というものです。イエス様の時代もメシア待望がありました。しかし、実際、イエス様は救い主として現実に現れても、人々はイエス様を救い主とは思わなかったのです。、そして、ついにイエス様を十字架につけてしまったのでした。
 今、私たちは救いを待望しています。コロナウィルス感染予防で病んでいるのです。神様は、この状況に救いを与えてくださっているのです。

「真実に生きる道」のメッセージを旧約聖書列王記下により示されます。列王記は題名のごとく、王様達の興亡を記しているものであります。その王様達の興亡の中で神の人といわれるエリヤ、エリシャの働きが記されています。今朝の聖書はそのエリシャの働きを示しています。アラムの国とイスラエルの国が戦っている状況です。アラムの王様は家臣達と作戦会議をし、イスラエルの攻略を決めます。神の人エリシャはそれを察知し、イスラエルの王様にアラムの作戦を知らせるのです。それでイスラエルの王様はアラムの作戦の備えをします。アラムの国は作戦を変えるのですが、それもエリシャによってイスラエルの王様に知らされるのです。アラムの王様はことごとく作戦が相手に分かってしまうのは、誰かがイスラエルの王と通じているからだと家臣に言います。すると家臣の一人が、イスラエルには預言者エリシャがおり、彼が何もかも我々の作戦を王様に知らせているのです、と答えるのでした。そこで、アラムの王様はエリシャを捕らえるために、エリシャがいる町を包囲します。エリシャの従者は町がアラム軍に包囲されていることを知り、あわててエリシャに報告します。すると、エリシャは「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と言い、神様にお祈りします。「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と願うのであります。すると、従者の目が開かれ、彼は火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見ることになるのであります。天の軍勢が共にいることを知り、神様のお導きとお守りをはっきりと見たのであります。人間的な思いでは、町を囲んでいるアラム軍しか見えませんが、そこには神様の導きがあり、この現実に神様の真実が示されていることをはっきりと見たのであります。この現実を私の目で見る限り、苦しい状況と判断して恐れを持ちますが、神様にあって心の目が開かれることにより、大きな導きを見ることになるのです。
 アラム軍は神様により目がくらまされ、イスラエルの中のサマリアに導かれることになります。サマリアイスラエルの中心の町でありました。イスラエルの王様はそのアラム軍を撃ち殺すとエリシャに言うのですが、エリシャは食事を与えるよう示します。いわば捕虜を暖かくもてなして返すことにより、もはや戦いを挑んでこなくなるのであります。神様がアラム軍の目をくらませているのですが、結果的には戦いを終わらせることの導きでもありました。アラム軍も真実を見ることになったというわけです。
 神様のお導きとお恵みは私たちを包んでいるのです。しかし、私たちは私を包む神様のお恵みが見えません。それは、現実を私の気持ちで見ているからであります。私の気持ちは自己満足的に判断しますから、自分にとって有利なのか不利なのか、得なのか損なのかとの観点で見ます。従って、そこに示されている神様の恵みの事実を見ることができないのであります。神様にこの私を委ねるとき、そこにこそ神様の豊かな導きと恵みを見ることになるのであります。

神様の恵みをしっかりと見なさい、との旧約聖書のメッセージを示されながら、ヨハネによる福音書は、一人の人が真実見えるようになったことを報告しています。今朝はヨハネによる福音書は9章であります。9章には生まれつきの盲人が癒されたことが記されていますが、それは見える、見えないという肉体的なことと共に、神様の真理が見えることへの示しであります。
 イエス様と弟子達が通りすがりに一人の生まれつき目の見えない人を見かけます。すると弟子達は「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか」とイエス様に聞くのです。この時代、因果応報的に考えていたので、病気の人、体の不自由な人は罪の結果と理解していました。それは本人か、両親か、あるいは先祖が悪いことをしたからなのです。うっかり風邪も引けない社会でもありました。イエス様は罪人といわれる人々と共に過ごし、食事をしているというので批判されることが福音書に記されています。その罪人といわれる人達は病気の人であり、体の不自由な人々であったのです。弟子達の質問に対してイエス様は、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と言われました。イエス様は因果応報的な考えを否定しました。神様の御業がこの人に現れるためであると教えたのであります。
 人はそれぞれの姿で生まれ、この世に生きることになります。みな同じ人間ではありません。姿や形、性格もみな違うのであります。あるいは生まれつき目が見えないこともあります。「神様の御業が現れるために」今の私の存在があるということなのです。因果応報の考えの社会の中で、イエス様は人間の真の姿を示したのであります。このイエス様のメッセージも示されるのでありますが、今朝は「主の救いを見る」として示されたいのです。
 生まれつき目の見えない人はイエス様により見えるようになりました。すると、この人を知っている近所の人々が不思議がるのです。どうして見えるようになったのか、納得できません。そこで近所の人々は「お前の目はどのようにして開いたのか」と聞きます。イエスという方が見えるようにしてくれました、と答えても信用しない人々でした。それで、人々は社会の指導的な立場のファリサイ派の人々のところへ、この生まれつき目の見えなかった人を連れてゆきます。そこでも、どうして見えるようになったのかと聞かれます。それで同じように答えるのですが、やはり納得してくれません。指導者達は、今度は両親を呼んで聞くのです。両親は答えます。「どうして見えるようになったのかは分かりません。本人に聞いてください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう」と答えるのでした。両親にとって、やたらなことを言えば、追放されることを知っていたからです。イエス・キリストをメシア、救い主という者は追放すると決められていたからでありました。そこで、また生まれつき目の見えなかった人を呼んで、どうして見えるようになったかを聞くのでした。彼は答えました。「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」とはっきり自分を証したのでありました。
 その後、目の見えなかった人はイエス様に出会います。イエス様はご自分がメシア、救い主であることを示すと、「主よ、信じます」と言い、ひざまずいたのでありました。その時、イエス様は、「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」と言われたのであります。そこに居合わせたファリサイ派の人々は、このイエス様の言葉を聞き、「我々も見えないということか」と言います。それに対して、イエス様は「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だからあなたたちの罪は残る」と言われたのであります。
 私たちが「見える」と言ったとき、見えているものは、自分の意に適ったものであります。自分の意に適わないものは見たくないのであります。この生まれつき目の見えない人が見えるようになったとき、そういうことは今までにないことであり、その事実を認めたくないのです。この人は目が見えないことが当たり前なのであり、見えるという事実は否定しなければならないのです。真実を見ない、受け止めない姿勢であります。だから、イエス様は「見える」という人々は「罪が残る」と示しているのです。神様の御業を見ようとしない、御心を受け止めようとしないこと、「罪が残る」のであります。「罪がある」というのであれば、それは一過性のものです。しかし、「罪が残る」と言われたとき、今後においても罪の姿を持ち続けるということなのです。

エリシャの導きにより、従者は目が開かれ、天の軍勢を見ることになりました。救いをはっきりと見たのであります。生まれつき目の見えない人は、イエス様の御業をいただき、この自分の救いを見たのであります。私たちに救いの事実をはっきり見させてくれるのは、主イエス・キリストの十字架であります。自己満足が働き、自分の好みにより見たり、聞いたりしているこの私に、御自分の命をささげて、私たちの中にある自己満足を滅ぼされたのであります。私達が「真実に生きる道」を歩むためなのであります。
時々お話しさせていただいていますが、1979年に大塚平安教会に就任しました。その2
年後に、笠倉正道さんという青年と出会うことになります。彼は大学浪人中であり、勉強に疲れたと言っては牧師を訪ねるようになったのです。春になって大学に合格しました。しかし、その時点で腰の腫瘍が見つかり、手術しましたが、下半身麻痺となってしまいました。それでも彼は希望をもって、車いすで運動選手になろうとしていたのです。しかし、腫瘍は全身に転移しており、7月に召天されたのでした。彼はその一ヶ月前に病院の病室でお父さんと共に洗礼を受けています。お父さんが病室で洗礼を受けることを勧め、自分も受けられたのでした。その後、お父さんは教会には一生懸命に出席されるようになり、教会の役員まで担われています。お母さんもその後に洗礼を受けられ、教会の皆さんと共に歩んでいました。しかし、その後、脳を患い、車いすの生活になりました。病院に入院したりしていました。ところがお父さんの方が召天されてしまったのです。お母さんは車いすながらも一人で生活されていました。
 ある時、私たちが自宅にお訪ねした時、近所の方も来ておられました。そして、その近所の方が言われたことが忘れられません。亡くなった青年を示しながら、「本当に良いものを残してくれたんですね」と言われたのです。彼の信仰がお父さん、お母さんにも示され、ご両親は教会の信者として皆さんと共に交わりつつ歩まれていたのです。それがお父さんが召され、お母さんは一人の生活になりましたが、いつも教会の皆さんがお訪ねしていますので、お母さんは寂しさはなく、喜びつつ歩まれていると、近所の人は言うのでした。
 ここに「主の救いを見る」証しが示されていると思います。愛する者を失うことの悲しみがありますが、人は永遠に生きるのではありません。主の救いを与えられながら歩むことなのです。まさに青年は主の救いをご両親に示されたのでした。私たちは「主の救いを見た」のであります。
<祈祷>
聖なる御神様、救いを見つめる導きを感謝致します。十字架を見つめつつ、真実に生きる道を歩ませてください。主イエス・キリストのみ名によりおささげ致します。アーメン

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