説教「祝福への道」

2012年4月1日、六浦谷間の集会
「受難節第6主日」、棕櫚の主日 

説教、「祝福への道」 鈴木伸治牧師
聖書、申命記11章26-32節
   フィリピの信徒への手紙2章1-11節
   ヨハネによる福音書12章12-19節
賛美、(説教前)讃美歌21・300「十字架のもとに」
(説教後)讃美歌21・449「千歳の岩よ」


 今朝は棕櫚の主日、主イエス・キリストが都エルサレムに入った日であります。その時、人々はイエス様を歓呼して迎えています。今朝のヨハネによる福音書は、エルサレムの人々が「なつめやしの枝」を持って迎えに出たと記されています。54年版の口語訳聖書は「しゅろの枝」と訳していましたので、この日を「棕櫚の主日」と称しているのです。マタイは「木の枝」と「服」、マルコは「葉のついた枝」と「服」、ルカは「服」だけです。「しゅろの枝」はヤシ科であり、新共同訳聖書は「なつめやしの枝」と訳しています。昔から「棕櫚の主日」と称しているのですから、「なつめやしの枝」ではなく「しゅろの枝」で良かったと思っています。何故、人々は歓呼して迎えたのか。それは言うまでもなく、イエス様の噂を聞いていたからです。多くの病人を癒したこと、心に響く神様の御心をお話されたこと等ですが、実際にイエス様のそばで体験した人々がいるわけで、それらの人々が言い広めたこともあり、イエス様のエルサレム入城を歓迎したのです。西洋の昔の町は、町の周りを高い塀で囲み、敵の侵入を防いだのでした。だから、どこからでも都に入るというのではなく、町の入口があったのです。ヨハネによる福音書によると、11章に記されている、イエス様が死んだラザロを甦らせたことを聞いていたので、関心を示したということでした。人々は「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に」と言いつつイエス様のエルサレム入場を歓迎したのでした。「ホサナ」というのはへブル語で、「今、救い給え」との意味です。まさに「救い」を与えるイエス様として迎えているのであります。
 従って、棕櫚の主日は喜びの日なのです。ところが、日本の教会は、多くの場合、この日から受難週に入るということで、喜びは薄れていると思います。むしろイエス様のご受難を偲ぶことに重きが置かれているのです。昨年、4月5月にスペイン・バルセロナで過ごしました。娘の羊子が11年前にバルセロナに渡り、ピアノの演奏活動をしているので、娘を訪問するために連れ合いのスミさんと次女の星子と共に行くことになったのです。その時期に棕櫚の主日を迎えたのであります。次の日曜日が棕櫚の主日である週に、サグラダ・ファミリアの近くの通りに露天商が出ていました。教会に持っていくために棕櫚の枝、これは作られたものですが、それぞれの店で売っていました。そればかりではなく、色々なお菓子も売っていたのです。いわばお祭り騒ぎのようでした。そして、迎えた棕櫚の主日は、羊子はカトリック教会に出席して奏楽の奉仕をしているのですが、そちらのミサに出席する機会を得ました。子供達が露天商が売っていた棕櫚の枝を持参し、神父さんと共にイエス様のエルサレム入城を歓迎するセレモニーを行うのです。そして子供たちも聖壇に上がり、棕櫚の主日を喜んでいるのでした。棕櫚の主日の迎え方をつくづく考えさせられたのでした。まさに棕櫚の主日は喜びの日なのです。人々が「ホサナ」と叫び、「今、救い給え」と叫んだように、私たちも喜びつつこの日を迎えるべきなのです。そして、歓呼して迎えながら、同じ口を持って「十字架につけよ」と叫ぶ心の変化を受け止め、これが自らの姿であることを悔い改めなければならないのです。喜びが大きければ、悔い改めも深く導かれるのであります。それは旧約聖書で示されている「祝福と呪い」の道でもあるのです。

 旧約聖書申命記11章26節以下を示されています。申命記という書名は、1章1節に、「モーセイスラエルのすべての人にこれらの言葉を告げた」と記されていますが、重ねて命令を語り聞かせたという意味になります。「申」は「申し述べる」ことですが、「重ねる」という意味合いもあります。従って、モーセが繰り返し神様の御心を語り聞かせたということで「申命記」とされたのであります。この申命記モーセの説教集ということになります。奴隷の国エジプトからモーセにより脱出した人々に、神様の導き、御心を示し、ただ神様に従って歩むことを教えているのです。注解書によっては、申命記は説教集ではなく、モーセの遺言集であるとしています。神様の御心を語り終えたモーセは最後に死んで行くからであります。いずれにしても、申命記により歴史を導く神様を示され、御心を示されるのです。1章から4章までは歴史の導きと律法授与が記されています。そして5章以下は律法、神様の戒めに従って生きることを教えているのです。今朝の聖書11章は、神様の御心に従って生きるのか、それとも勝手気ままに生きるのか、モーセは決断を迫っているのであります。
 26節、「見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。あなたたちは、今日、わたしが命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、今日、わたしが命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける」と示しています。神様の戒めに聞き従うならば祝福の道を歩む。しかし、聞き従わないならば呪いを受けると示しています。呪いというのは、不幸になることであり、死に追いやられることであります。
 創世記3章にアダムさんとエバさんが蛇の誘惑を受けることが記されています。天地を創造された神様は、人間を造り、エデンの園に住まわせます。彼らはそこで何を食べても良いのですが、一つだけ戒めが与えられています。園の中央の木の実を食べてはならないということでした。彼らはその戒めを守っていましたが、蛇が登場し誘惑するのです。「園のどの木からも食べてはいけないなどと神は言われたのか」というわけです。園のどの木からも食べてはいけないと言われたのではなく、園の中央の木の実でした。蛇の誘惑はまことに巧みです。みんな食べるなと言われたみたいですが、そうではないのです。結局、蛇の誘惑は、今まで気にしてなかった園の中央の木を見つめることになるのです。彼らがその木を見ると、「いかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるようにそそのかしていた」のであります。彼らは思わず手を伸ばして食べてしまうのです。自分の満足のために戒めを破る、人間の原罪として示されているのです。このように人間をだました蛇に対して、神様は「このような事をしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は生涯這いまわり、塵を食らう」と言われたのであります。ここでは、蛇は呪われたものとして、すべての生きものから嫌われることが示されています。
先ほども触れましたが、昨年4月5月にバルセロナに赴いた際、マドリッドにも行きました。そこで開催される東北関東大震災復興コンサートで羊子がピアノ演奏をするためでした。マドリッドに住んでいる祥永さんとフェルナンドさんご夫妻の家に泊めていただきました。そこではマドリッド日本語で聖書を読む会が開かれており、その礼拝説教を担当させていただきました。また、聖書の勉強の時があり、創世記1章から3章を読み、解説と奨励をしました。その時、一人の婦人が、蛇の誘惑のくだりで、何故蛇なのかと質問されました。蛇は昔から気持ち悪い動物であり、悪い存在の象徴として考えられる。実際、レビ記には清い動物と汚れた動物の分類がありますが、汚れた動物は気持ち悪い存在です。そんな答えをしたものです。実際は、蛇は古代の神話では、生命・知恵・富・生殖・癒しを司る神とされていたのです。こうした偶像崇拝の根源的な存在を悪の根源としているところに聖書の示しがあるということです。その存在の誘惑に負けることの審判があるのです。今、おかれている状況で、神様の御心に聞き従うのか、自分の欲望のままに生きるのか、旧約聖書は厳しく問うているのです。

 主イエス・キリストエルサレムに入城した時、都の人々は歓呼してイエス様を迎えました。そこにいたファリサイ派の人々は、「何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか」と互いに言い合ったのであります。それほどイエス様に心を向けていたのです。この日から始まる一週間は祝福か呪いかを問われることになるのです。
 イエス様は人々が歓呼して迎えている中でエルサレムに入って行くのですが、その時、ろばの子を見つけてお乗りになりました。他の福音書、マタイ・マルコ・ルカによる福音書の場合、エルサレムに入る前にあらかじめろばを用意して、そのろばに乗って入って行きました。ヨハネはたまたまそこにいるロバを見つけてお乗りになったようです。それは15節に、「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がお出でになる、ろばの子に乗って」と記されるように、これは旧約聖書ゼカリヤ書9章9節以下の言葉が実現したことを示しているのです。平和の王様が人々を救うためにお出でになったことを示しています。ゼカリヤ書をそのまま読んだ方が平和のメッセージが示されます。「シオンの娘よ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる」と預言されています。ここに預言されているように主イエス・キリストは平和の王としてエルサレムに入られたのでした。そのため平和の象徴であるろばに乗って来られたのです。
ろばはひき臼をひいたり、重い荷物を運んだりするために用いられます。従順な姿は、いつでも頭を垂れていることからも示されて来るのです。エルサレムの入場門は、いつもは王様やローマからの総督が入場する時は、馬に乗って、甲冑に身を固めた家来を伴って、どうどうと入って来るのです。人々は儀礼的に迎えに出るのです。古代では凱旋門が造られました。古代ローマは勝利を収めた皇帝が帰国する時、凱旋式を行いますが、壮大な凱旋行進をしながら凱旋門をくぐるのを誇りとしていました。今ではフランスの凱旋門があり、北朝鮮凱旋門はパリの凱旋門より10mも大きいと言われます。バルセロナにも凱旋門がありました。いずれもこの門をくぐるのは力を誇示するためであり、軍事的平和の象徴でもあるのです。しかし、イエス様は力や軍事的平和ではなく、神様の平和を与えるためにエルサレムに入城されたのでした。
このような平和のメッセージ与えているイエス様に対して、お弟子さん達はその意味を知ることができませんでした。16節「弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した」と記されているように、十字架にお架りになった後に、イエス様の平和のメッセージを知ることになったのです。主イエス・キリストは神様の平和を与えるために来られたのです。今、歓呼してイエス様を迎えている人々でありますが、この後には「十字架につけよ」と叫ぶ人々なのです。
ここで旧約聖書のメッセージを再び示されなければなりません。申命記11章26節以下であります。「見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。あなたたちは、今日、わたしが命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、今日、私が命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける」と示されています。この示しの中に、「今日」という言葉が三回も出てきます。神様の御心に従うのは「今日」であるということです。主イエス・キリストの十字架の贖い、救いを信じるのは「今日」なのです。モーセはこの申命記の中で、繰り返し「今日」と言っています。申命記6章4節、「今日、わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい」と示しています。神様の救いをいただくのは「今日」なのです。いつか、そのうち、いずれまた、そのような先延ばしにすることなく、今日、主イエス・キリストの十字架の救いをいただくことです。イエス様の救いとは、イエス様が十字架の死と共に、私の中にある自己満足、他者排除を滅ぼしてくださったことを信じることです。人間の原罪を滅ぼしてくださったのです。原罪は私たちからなくなりませんが、いつも十字架の救いの原点へと戻されるのです。それが「今日」なのです。今日、十字架を仰ぎ見ているので、今日、祝福の道を歩むことができるのです。

 都エルサレムの人々がイエス様を歓呼して迎えたにも関わらず、一週間もしないうちにイエス様を「十字架につけよ」と、祝福から呪いに変わってしまったこと、人々にとって見世物が目的であったということです。奇跡や心を打つお話という関心が見られなくなったとき、呪いの道を選ぶことになるのです。ローマの皇帝は常に「パンとサーカス」を心がけていました。そうしないと人々の皇帝への忠誠を失うからです。「パン」は小麦粉です。これを人々に支給しては人々の希望となっていたのです。「サーカス」は見世物です。大きな競技場を造り、色々な競技をさせては人々を喜ばしていたのです。エルサレムの人々は歓呼してイエス様を迎えたものの、「サーカス」が見られなくなったので気持ちが変わって行ったのです。「サーカス」は偶像崇拝にもなっていきます。呪いを選んだということです。
 それは神様の御心から離れてしまったということです。主イエス・キリストによってラザロの甦りを示されたとき、不思議なことだと目を見張るのではなく、そこに神様の御業があることを信じなければならなかったのです。イエス様の心に響く神様のお心を、ただ感動して聞くのではなく、神様の御心として信じなければならなかったのです。ただ、自分の心に適うことを求めていた人々にとって、祝福の道を示されているのに、呪いの道を歩まなければなりませんでした。十字架の贖いをいただいている私たちは、「今日」、救いを信じるということであります。この十字架を信じて歩むこと、私の祝福への道が与えられているのであります。
<祈祷>
聖なる神様。主の十字架の贖いヘと導いてくださり感謝致します。十字架の贖いを基として祝福の人生を歩むことができるよう導いてください。主イエス・キリストの御名によっておささげ致します。アーメン。