説教「キリストの復活」

2012年4月8日、六浦谷間の集会
「復活祭」

説教、「キリストの復活」 鈴木伸治牧師
聖書、イザヤ書53章1-12節
   コリントの信徒への手紙<一>15章1-11節
   マルコによる福音書16章1-8節
賛美、(説教前)讃美歌21・325「キリスト・イエスは」
   (説教後)讃美歌21・458「信仰こそ旅路を」


 今朝はイースター礼拝、復活祭礼拝です。主イエス・キリストが十字架にかけられ、死んで葬られ、しかし三日目に甦ったこと、これがイースターであります。死んだ者が復活するということ、人間的には考えられないのですが、私たちは信仰に導かれ、神様の御業として復活を信じているのです。今朝はキリストの復活を示され、いよいよ信仰をもって与えられている歩みを踏みしめたいのであります。
 前週は棕櫚の主日であり、主イエス・キリストが都エルサレムに入られると、人々は歓呼して迎えたことを示されました。歓呼して迎えたのは「パンとサーカス」の意味合いを示されました。ローマの皇帝は常に「パンとサーカス」を心がけていました。つまり、パンは小麦なのですが、皇帝は小麦を支給しては民衆の心をつかんでいたのです。さらに、サーカスをすることでした。サーカスとは見世物です。大きな競技場を造り、色々な競技をさせては民衆を熱狂させるのです。それにより人々は皇帝を平和の王として称えたのでした。都エルサレムの人々がイエス様を歓呼して迎えたとき、そのような思いがあったことは確かです。前週はヨハネによる福音書12章でしたが、その前の11章でイエス様が死んだラザロを生き返らせているのです。その噂は都の人々が知っていました。その他にもイエス様が病人を癒し、パンをもって大勢の人々を養ったことを経験したり、聞いたりしていますので、イエス様からもう一度不思議なことを見せてもらいたいという希望をもっていたのです。確かにイエス様のお話に心を動かされ、神様の御心として受け止めている人もいました。しかし、多くの場合、見世物を再び見る希望をもってイエス様を歓迎したのです。それがそのまま現れてくるのです。これは時の社会の指導者達の策略ですが、人々はイエス様を十字架につけよと叫ぶことになるのです。
 主イエス・キリストは、時の指導者達の妬みにより捕らえられ、ローマから遣わされている総督ピラトに引き渡されます。ピラトはイエス様を調べますが、このマルコによる福音書によれば、イエス様はほとんど答えなかったと記されています。ピラトは祭りの度ごとに、人々が願い出る囚人を一人釈放していました。群衆がピラトのもとに来て、いつものように釈放してほしいと願い出ます。ピラトが、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と尋ねます。その時、祭司長達は囚人のバラバを釈放してもらうように群衆を扇動しました。そこでピラトは、「それではユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうして欲しいのか」と群衆に尋ねました。群衆は「十字架につけろ」と叫ぶのです。ピラトが、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言うと、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てるのでした。こうして歓呼して迎えた主イエス・キリストを、同じ口をもって「十字架につけろ」と叫ぶことになっていったのです。祭司長達の扇動がありますが、「パンとサーカス」しか求めない人間の弱さがここに示されているのです。イエス様が荒れ野の試練で、悪魔から食べることの誘惑を受けています。その時、イエス様は「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」との申命記8章3節の言葉をもって答えています。パンだけで生きる人々の姿を示されます。
 時の社会の指導者達がイエス様をピラトに引き渡したとき、ピラトはイエス様に尋問しています。「お前がユダヤ人の王なのか」と聞いた時、イエス様は「それは、あなたが言っていることです」と答えています。それに対して指導者達はいろいろと訴えています。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに」とピラトは言いますが、イエス様はもはや何もお答えにならなかったとマルコによる福音書は記しています。その姿をピラトは不思議に思ったのでした。

 何もお答えにならないイエス様は、旧約聖書イザヤ53章に示される「苦難の僕」であったのです。イザヤ書は全部で66章までありますが、すべてイザヤと言う人が書いたわけではありません。現在、分かっていることは1章から39章まで書いた人と、40章から55章まで書いた人と、56章から66章を書いた人は異なる人と言うことです。それで39章まで書いた人を第一イザヤと称し、55章まで書いた人を第二イザヤと称し、その後は第三イザヤと称しているのです。今朝示されている聖書は第二イザヤの預言書と言うことになります。40章以下のイザヤ書も大きくは二つに分けられます。40章から48章までは、聖書の人々がバビロンに滅ぼされ、捕われの身分でバビロンの空の下にいる状況なのです。そして、49章から55章までは、その捕われの身分、捕囚から解放されてからの預言と言うことになります。49章以下には「主の僕」の存在を示し、「主の僕」によって救いが与えられることを示しているのです。
 それでは、この「主の僕」とは誰なのか。それはイザヤ書を記している第二イザヤであると言われ、あるいは聖書の民イスラエルの人々であるとも言われています。しかし、今朝の聖書イザヤ書53章に示される「苦難の僕」となると、特定の人を想定することはできなくなるのです。「渇いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない」と紹介しています。「主の僕」は生まれたときから、人々から蔑まされる存在であったのです。さらに「苦難の僕」について紹介は続きます。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた」と言うのです。そして、10節には「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる」と示しています。つまり、「苦難の僕」が人間の悪の代償として、死んで行くというのです。本来、罪を犯した人間が死に値するのですが、その人間を救うために自らの命で償ったということが「主の僕」であると示しているのです。
 人々が幸せになるということ、それは力ある者が、敵なる存在を打ち負かすことです。聖書の人々はバビロンに滅ぼされ、捕われの身になりますが、しかし、そのバビロンはペルシャに敗れて行きます。聖書の人々にとってペルシャのキュロス王こそ救い主でありました。平和を与えるのは強い王様であるとは、古代の人々は誰もが思い、強い王様を期待していたのです。人類の歴史は平和のための戦いでした。日本の戦国時代は、天下を統一することが平和になるということでした。ヨーロッパの歴史においても戦いに明け暮れます。ローマ時代は皇帝が平和を実現してくれると信じていたのです。先ほども「パンとサーカス」として考えさせられましたが、他の国々に勝利することが平和を作り出す皇帝であったのです。しかし、そのためには戦いの兵士とならなければなりません。重い税金を取られることにもなります。戦いによる平和の思いが次第に変わっていきました。それは主イエス・キリストを信じて生きることの喜びへと変えられていくのです。戦いではなく、人を愛する時にこそ真の平和が実現するということ、そしてこの自分のためにイエス様が命を差し出して償ってくださったということ、この信仰が次第にローマの社会に浸透していき、ついにローマはキリスト教を国の宗教にするのでした。まさに「キリストの勝利」でありました。
 従って、戦いの王様ではなく、「主の僕」による救いこそ真の平和が与えられることを示されるようになるのです。果たして、「苦難の僕」は誰なのか、大きな希望にもなって行くのです。

 主イエス・キリストはピラトの裁判を受け、ピラトは結局人々の声に負けて、イエス様を十字架にかけることを命じます。群衆の叫びを納めるには、そのようにするしかありませんでした。ローマから派遣されているピラトは、暴動が起きれば自分の責任を問われるからです。それが前週の金曜日になります。十字架にかけられ、夕刻には埋葬されます。それから三日目の朝、つまり日曜日になりますが、「マグダラのマリアヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝早く、日が出るとすぐ墓に行った」のであります。イエス様の墓の入口は大きな石でふさがれています。その石を転がさない限り死んだイエス様にお会いできません。どうするのかと心配しつつ墓に行きました。すると石は横に転がしてありました。中に入ると、そこに白い衣を着た若者がいました。婦人達は非常に驚きます。その若者が言うには、「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」と言われたのであります。若者とは天使でありますが、婦人達は墓を出て逃げ去り、震えあがり、正気を失い、このことを誰にも言わなかったのであります。
 マルコによる福音書の報告は、復活に対する人々の恐れを特に記しています。そして、復活を信じない姿を記しています。マタイの場合は、復活されたことを知った婦人達が弟子たちに知らせに行くことが記されています。ルカの場合も復活の事実を婦人達が弟子たちに知らせたことを記しています。ヨハネによる福音書マグダラのマリアさんがイエス様の復活を知り、ペトロとヨハネに知らせたのであります。ところがマルコによる福音書は、婦人達は天使から復活の事実を聞きながら、誰にも知らせなかったと記すのです。イエス様はマグダラのマリアさんに復活のお姿を示します。マリアさんはお弟子さん達に知らせるのですが、誰も信じなかったのであります。そして、二人の弟子にイエス様が現れ、彼らもお弟子さん達に知らせますが、誰も信じなかったと記しているのです。マルコは、復活の事実を人々が信じなかったことを、特に強調しているようです。だから、16章14節以下には、11人のお弟子さん達が食事をしているときにイエス様が現れ、「その不信仰とかたくなな心をおとがめになった」のであります。他の福音書はイエス様が「おとがめになる」ことは記していませんが。マルコが記す時、お弟子さん達が復活を信じない事実を特に記しているのです。
 お弟子さん達に対して、イエス様は御自分の死と復活について、三度も予告しています。予告されていても、お弟子さん達は信じなかったのです。ペトロは「そんなことがあってはなりません」と言っています。そして、イエス様が捕らえられた時、ペトロは密かについて行くのですが、「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」と指摘されると、三度も否定し、打ち消しているのです。自分とは関係ないと公言したのでした。ペトロはそのような自分を知り泣きだしたと記されています。マルコによればマグダラのマリアさんが弟子たちに、イエス様のご復活を伝えるのですが、お弟子さん達は信じなかったのであります。信じたくないのであります。イエス様に対して、裏切った思いがあり、もし本当にイエス様が復活して現れたら、自分の裏切りをイエス様がどうさばくのか、不安であり、恐ろしかったのであります。しかし、イエス様は裏切りに関してせめてはいません。復活を信じなかったお弟子さんたちをおとがめになっているのです。そして、復活という新しい事実を受け止め、新しく生きなさいと導いているのです。マルコによる福音書16章15節以下、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われる」と示しています。

 主イエス・キリストのご復活を不都合と思ったのはお弟子さん達であったのです。イエス様を裏切っているからです。しかし、イエス様はその裏切りの弱さをも十字架により贖ってくださったのです。新しい命を与えているのです。私たちにとって主イエス・キリストのご復活は不都合でありましょうか。イエス様が処女マリアさんからお生れになったことは不都合でありましょうか。イエス様の降誕と復活が別の形で言われるならば、キリスト教をもっと声を大にして、人々に伝えることができるのに、と思うのです。この、私たちにとって不都合なイエス様の出現こそ、私たちを新しい生き方へと導くのです。聖霊によってマリアさんから出現したイエス様は、死んで葬られますが、復活により再び出現したのです。人間の力では消し去ることができない主イエス・キリストなのです。だから、ローマの国は当初はキリスト教を禁止し、迫害し、信者をローマから追放しました。そのように取った措置でありますが、主イエス・キリストは消し去ることはできなかったのです。聖霊によってこの世に現れ、死んで復活した主イエス・キリストは、決して人間の手によって消し去ることができません。永遠に世の救い主として、存在しているのです。
 パウロはコリント人の手紙<一>15章で証ししています。「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、(多くの人々に現れ)、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」と私たちも告白することです。その時、新しい生きる道が示されるのです。
<祈祷>
聖なる神様。ご復活の主イエス・キリストのお恵みを感謝致します。復活の主と共に新しい歩みをお導きください。主の御名によりおささげいたします。アーメン。