説教「新しい希望」

2022年4月17日、六浦谷間の集会 

「復活節第1主日イースター

                      

説教・「新しい希望」、鈴木伸治牧師  

聖書・イザヤ書42章10-17節

   コリントの信徒への手紙<一>15章1-11節

   ヨハネによる福音書20章1-18節

賛美・(説教前)讃美歌21・327「すべての民よ、よろこべ」

   (説教後)讃美歌21・328「ハレルヤ、ハレルヤ」

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 今朝は主イエス・キリストのご復活日であります。イースターおめでとうございます。イエス様のご復活は私たちの新しい歩み出しであります。毎年、イースターを春に迎えることができるのは、本当にお恵みであります。3月は年度の終わりの時であり、4月は始まりであります。イースターを3月に迎える場合もありますが、終わりと始まりを示されながら、イエス様のご復活のお導きを示されるのです。今まで苦しく歩んでいた人は、もはや新しい歩みが始まったことを知らなければなりません。今まで悲しみを持ちつつ歩んでいた人は、もはやイエス様の福音の喜びを知らなければなりません。今まで喜びを持っていた人は、イエス様の新しい喜びを持って歩み出さなければなりません。主イエス・キリストのご復活は私達に新しい命、新しい希望を与えてくださるのであります。

 旧約聖書イザヤ書の示しであります。イザヤが新しい歩みを示しています。それも「神様の勝利」として人々に神様の御心を示しているのであります。この時代は聖書の人々がバビロンの国に捕われている状況であります。聖書の国は、北イスラエルと南ユダに分かれています。きわめて小さい国でしたので、人間的な力、大きな国に頼ろうとする姿がありました。その時、預言者たちは神様のお心を示して導いていたのです。預言者イザヤ、エレミヤ等が神様のお心を示し、人間の力に頼るのではなく、ただ神様のお心に従いなさいと繰り返し示すのであります。結局、大国の狭間にある聖書の人々は、とくに国の指導者達はアッシリアに助けを求め、エジプトに心を寄せたりするのであります。神様から離れてしまっている人々に対する審判がバビロンに滅ぼされるという結果になりました。多くの人々がバビロンに連れて行かれたのであります。いわゆる捕虜でありますが、聖書の世界では捕囚と称しています。異国の空の下で故郷や中心のエルサレムの神殿を思いつつ過ごすのであります。

 そこで今朝の聖書になります。第二イザヤは捕囚の人々に神様のお心に立ち帰るよう示しています。神様こそ真にあなた方を導く方であり、慰めを与え、新しい希望を与えてくだると示しているのであります。「新しい歌を主に向かって歌え。地の果てから主の栄誉を歌え」と人々を励ましています。もはや苦しみの歌ではなく、悲しみの歌ではなく、神様があなた方を今の状況から解放してくださるので、立ち上がりなさい、新しい歌を、喜びの歌を歌いなさいと示しています。「主は勇士のように出で立ち、戦士のように熱情をふるい起し、叫びをあげ、鬨の声をあげ、敵を圧倒される」と言うのであります。あなた方はもはや苦しんでいるのではない、悲しんでいる時ではないと示しています。「わたしは決して声を立てず、黙して、自分を抑えてきた」と示していますが、神様は黙りこくっているのではありません。人々が神様から離れてしまったので、あたかも神様が沈黙を保っているように感じるのであります。神様はいつの時代においても御心を示していました。それは預言者という人々であります。預言者は時の社会に神様のお心を示してきました。しかし、神様に心を向けない人々は神様の御心が聞こえないのであります。バビロンの捕囚で苦しみのうちに生きている人々は、今こそ預言者の言葉を聞くようになりました。捕囚の身であるという絶対性に対して、イザヤは「神様の勝利」宣言を示すのであります。人々が神様に心を向けるとき、神様こそ私達をお救いくださり、新しい歩みを導いてくださることを知るのであります。新しい歩みが始まったのであります。新しい歩みは神様のお心にある歩みなのであります。今の私の絶対性を打破されなければならないのであります。

 私達も新しい歩みが始まりました。主イエス・キリストのご復活が私達を新しい歩みへと導いてくださるのであります。今朝はヨハネによる福音書によりイエス様のご復活が示されています。「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」と報告しています。週の初めの日は日曜日であります。ユダヤ教の社会でありますから土曜日は安息日であります。神様が天地を創造され、七日目に休まれたので、土曜日は安息日とされました。安息日は神様の創造を感謝し、そのご栄光をたたえる日であります。そして翌日の日曜日から普通の生活に戻るのであります。週の初めの日になります。社会では週末と言えば、土曜日、日曜日でありますが、キリスト教では日曜日が週の初めの日であります。それは主イエス・キリストが甦られたので、新しく始まる日とされました。日曜日はご復活のイエス様を喜び、讃美する日であります。

 マリアさんが日曜日の朝早く、まだ暗いうちに、イエス様のお墓に行きました。マリアさんがイエス様のお墓に行きますと、墓の前に置かれていた石が取りのけられているのを知るのであります。お墓参りに行ったマリアさんも、当然のことながら入口は石でふさがれていると思って行ったのであります。ところが石は取りのけられていました。そこですぐにお弟子さん達に知らせに行くのでありました。知らせを聞いたペトロさんと「イエス様が愛しておられたもう一人のお弟子さん」が、墓に走って行きました。彼らもお墓の入り口は石でふさがれていると思っていたのであります。そして、お墓について、確かにイエス様のご遺体がないことを確認したのであります。つまり、彼らはイエス様がご復活になられたことには思いが及ばなかったのであります。この時点では、かねてよりイエス様がご復活することを示していたにしても、復活されたということには思いが及ばなかったということであります。しかし、彼らの確固たる思い、イエス様はお墓の中に安置されているという事実が否定されたのであります。イエス様のご復活を確信する第一の段階であります。すなわち、私達は自分が絶対と思っていることが、イエス様のご復活によって打ち破られるということであります。今までこのようであったから、このように展開していくだろうとは私達の思いであります。しかし、私達の思いは打ち破られるのであります。まず、十字架にかけられ、死んで葬られ、三日目にご復活されたということは、本当は信じられないのであります。ところが今は、私達は信じています。主イエス・キリストは十字架におかかりになりました。それは時の社会の指導者達の妬みでありました。しかし、神様は人間がどうしても克服できない姿、内面的な悪の姿、自己満足、他者排除の根本的な姿をイエス様の十字架の死と共に滅ぼされたのであります。私達は十字架を仰ぎ見ることによって、私の内なる悪の姿が滅ぼされたと信じるのであります。救いであります。自分ではどうすることもできない自分自身をイエス様がお救いくださったのであります。イエス様のお弟子さん達はイエス様のご復活を信じる第一関門を通過したことになります。絶対と思っていたことが打破されることです。そして、この後、ご復活のイエス様が現れ、ご復活を示されたのであります。もはや第一関門を破られているお弟子さん達は、そのままご復活のイエス様を信じたのであります。私達も第一関門である絶対性を打破されなければなりません。そして、そこにこそご復活のイエス様が現れ、力を与え、導きを与え、新しい希望へと導いてくださるのであります。主イエス・キリストのご復活は新しい歩みを導いてくださるのであります。

 横須賀上町教会は牧師の異動がありました。今迄10年間勤めてこられた宮澤恵樹牧師が3月で退任されました。そして4月からは杉野信一郎さんが伝道師として就任されました。杉野先生は大塚平安教会の出身であります。私の在任時代は社会にお勤めになられていました。その後、私が退任してからですが、社会のお勤めを退任し、ドレーパー記念幼稚園の副園長の職務を持ちながら神学校に通い、この3月で卒業され、横須賀上町教会の担任教師となられたのでした。杉野先生が就任されたこと、不思議な神様のお導きを示されています。私と横須賀上町教会とのかかわりは長い歴史があるのでした。私が高校生の頃、清水ヶ丘教会出身の斎藤雄一牧師が横須賀上町教会の牧師に就任したのでした。その就任式にも伺いましたし、何回か斎藤先生をお訪ねしています。そして、2010年10月からは毎月一度、講壇で説教をさせていただくことになりました。2017年まで続いたのでした。2013年には西尾弥生さんの洗礼式を執行させていただいています。その意味でも横須賀上町教会の歩みについてはいつも示されていたのです。長い歴史の中で、小さい教会ではありますが、いつの時代でも神様の大きな導きがありましたことを示されています。人間的な思いを断ち切り、神様に委ねることです。新しい希望の教会となるのです。新しい歩みが始まり、ご復活のイエス様が豊かにお導き下さるのであります。

<祈祷>

聖なる御神様。主のご復活により、新しい一歩を歩みだすお恵みを感謝いたします。歩みが祝福となりますよう。主の名によって。アーメン。

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