説教「信仰の幸い」

2022年4月24日、六浦谷間の集会 

「復活節第2主日

                      

説教・「信仰の幸い」、鈴木伸治牧師  

聖書・民数記13章25-33節

           コリントの信徒への手紙<二>4章7-18節

           ヨハネによる福音書20章19-29節

賛美・(説教前)讃美歌21・333「主の復活、ハレルヤ」

           (説教後)讃美歌21・532「やすかれ、わがこころよ」

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 前週は主イエス・キリストのご復活を与えられました。ご復活の主と共に新しい歩みが始まりました。今日、もちろんイエス様のお姿は目に見ることはありません。目には見えませんが、信仰によってご復活のイエス様を信じ、希望をもって歩む私達なのであります。そのご復活のイエス様を聖書が証していますので、私達は聖書に示されるご復活の主を信じるのであります。自分の思いこみではありません。自分の希望に合わせることでもありません。偶像の神様は私達の思いを投影しています。自分の思いをかなえさせることが目的で偶像の神様を作り上げるのであります。この神様にお祈りすれば病気が治るとの誘いがあります。あるいはこの神様にお祈りすると商売繁盛、一家安泰が与えられるというのです。それは自分の思いをかなえさせる偶像の神様でもあります。選挙が始まりますと、大きな達磨さんを部屋の中心に置き、目玉は一つだけ黒く塗っておきます。当選した暁にはもう一つの目玉を入れるというわけです。無理に自分の思いをかなえさせようとしているのです。当選しなければ目を入れない。神様を奴隷のようにしています。

 イースターを迎え、改めまして信仰の喜びを与えられて歩みたいのであります。私達の信仰は常に主イエス・キリストに原点を置かなければなりません。十字架の救いを仰ぎ見ること、信仰を励ます主の聖餐をいただくこと、そこに信仰の新しさが与えられ、ご復活のイエス様と共に歩む信仰が導かれるのであります。ご復活のイエス様と共に歩む時、イエス様のお心を持って歩むのですから、自分の思い込みではありません。また、生活の中にも死角という位置付けがあります。しかし、思わぬところから問題が出てきても、主のお導きをいただいている私達です。祈りつつ対処することができるでありましょう。

 聖書の人々はエジプトという国で奴隷の生活をしていました。もう400年も奴隷として生きてきたのです。その400年間の奴隷の苦しみから解放したのは、神様の選びの人、モーセでありました。モーセはエジプトの王様に掛け合い、神様の審判を与えたりして、ようやくエジプトの脱出に至るのであります。「乳と蜜の流れる土地カナン」へ導くのは神様でありました。エジプトを出て、しかし40年間も荒れ野をさまよい、ようやく約束の土地、乳と蜜の流れる土地カナンを前にしたのです。

 今朝の聖書の民数記13章は約束の土地カナンを偵察することが示しとなっています。約束の土地であったとしても、そこには元からの人が住んでいるのであります。13章1節以下、「主はモーセに言われた。『人を遣わして、わたしがイスラエルの人々に与えようとしているカナンの土地を偵察させなさい』」との示しが与えられました。それで12部族から一人ずつ選ばれました。モーセは選ばれた12人に言いました。「ネゲブに上り、更に山に登って行き、その土地がどんな所か調べてきなさい。そこの住民が強いか弱いか、人数が多いか少ないか、彼らの住む土地が良いか悪いか、彼らの住む町がどんな様子か、天幕を張っているのか城壁があるのか、土地はどうか、肥えているかやせているか、木が茂っているか否かを。あなた達は雄々しく行き、その土地の果物を取ってきなさい」と命じたのです。

 12人の偵察隊は40日間、カナンを偵察して帰ってきました。そして報告します。「わたしたちは、あなたが遣わされた地方に行ってきました。そこは乳と蜜の流れるところでした。これがその果物です」と言い、約束の土地は良いところであると報告しました。しかし、こうも報告しています。「その土地の住民は強く、町という町は城壁に囲まれ、大層大きいものでした」とも報告しました。12人の偵察隊のうちカレブとヨシュアは「断然そこへ行くべきだ」とモーセに言います。しかし、他の10人は、むしろ悪い情報を報告し、そこに進入するのは危険であると言うのであります。カレブとヨシュアはこのカナンこそ神様の約束の土地であり、約束を信じてカナンに入るべきだと主張するのであります。イスラエルの人々は10人の者が述べた報告を信用し、カレブとヨシュアの報告は信用しなかったのであります。今朝の聖書はそこで終わっています。つまり、神様の約束を信じない人々の姿が示されているのです。カレブとヨシュアの報告を、まだ見ぬ事実でありますが、信じなければならないのであります。信じることが信仰なのであります。まだ見ぬ事実を確認すること、それが私達に求められていることなのであります。

 ご復活のイエス様と最初にお会いしたのはマグダラのマリアさんでした。マリアさんはご復活のイエス様にお会いしたことをお弟子さん達に報告します。お弟子さんたちがマリアさんの報告をどのように受けとめたかは記されておりません。そのお弟子さん達は、週の初めの日の夕方、ユダヤ人を恐れて家の中に集まっていました。家の戸に鍵をかけ、誰も入らないようにしていたのであります。社会の人たちはお弟子さん達も十字架で死んだイエス様の仲間だとして迫害するかも知れないからです。そこへご復活のイエス様が現れ、「あなたがたに平和があるように」と言われ、ご自分の手とわき腹をお見せになられたのであります。十字架に架けられた時、手のひらは釘で打たれ、わき腹に槍を刺されたのであります。お弟子さん達はご復活のイエス様であることを知りました。イエス様はお弟子さん達に息を吹きかけました。

 息を吹きかけるということ、これは聖書では深い意味があります。天地創造については旧約聖書の創世記に記されています。天地万物をお造りになった神様は最後に人間をお造りになりました。まず粘土で人の形を作ります。そして粘土に神様の息を吹きかけたのであります。すると人間として生きた者になったと報告しています。つまり人間は神様の息をいただいて一人の人間として生きるのです。聖書の人間観でありますが、人間を理解するために真理であります。イエス様はお弟子さん達に息を吹きかけられたのは、人間の基本的な姿、原点に戻したということです。「聖霊を受けよ」と導いておられます。

 イエス様がお弟子さん達に現れた時、トマスという弟子はいませんでした。「わたしたちは主を見た」という他の弟子たちに対して、トマスは「わたしはあの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れて見なければ信じない」というのであります。それから8日の後、弟子たちはまた家の中におり、鍵をかけていました。そこにはトマスもいました。そこへ再びイエス様が現れたのであります。そしてトマスに、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」と言われたのであります。トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と告白したのでありました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と信仰の姿勢を示されたのであります。「信じる者になりなさい」とイエス様は言われております。

 主イエス・キリストは私達の命です。そして、「命の息」を与えてくださっているのです。力をなくしているお弟子さんたちにイエス様は「命の息」を与えました。彼らは、「命の息」を与えられたものとして、力強く歩むようになったのです。「命の息」は私達に与えられています。新しい歩みは不安を伴いますが、どのようなことになっても、私は復活のイエス様と共に新しい者へと導かれているのです。

 本日は「信仰の幸い」と題してみ言葉を示されています。信仰とは、偉大な存在に私たちの存在を委ねることであります。それにより私たちの人生が導かれるのであります。どのように導かれるのか。私達が人間として、「共に歩む」ということです。聖書の人々を導いた神様は、まず「十戒」を与えました。その十戒を守りつつ歩むことが、祝福の人生であるということです。では十戒はどのように人生を導いているのでしょうか。第一戒から第四戒は神様を信じて歩むということです。そして、第五戒から第十戒は人間関係を保つことであるのです。人々と共に、歩むということです。他者の存在を大切にするということです。それが信仰の基本なのです。自分のみを大事にする生き方は信仰とは言えないのです。そして、他者と共に歩む人生が神様の豊かな祝福を与えられること、永遠の祝福へと導かれること、目に見えない祝福を信じて歩むこと、それが信仰の原点であります。「見ないのに信じる人は、幸いである」とイエス様は示されています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」とヘブライ人の手紙11章1節で示されています。そして、その信仰の人々を紹介しています。私達も「信仰の幸い」を与えられているのです。

<祈祷>

聖なる御神様。イエス様の命へと導いてくださり感謝いたします。ご復活の主と共に力強く歩ませてください。キリストの御名により、アーメン。

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