説教「復活の証し」

2021年4月11日、六浦谷間の集会

「復活節第2主日」       

                      

説教・「復活の証し」、鈴木伸治牧師

聖書・イザヤ書65章17-25節

   使徒言行録13章26-31節

   マタイによる福音書28章11-15節

賛美・(説教前)「生きて愛して祈りつつ」(鈴木伸治牧師作詞、鈴木羊子作曲)

   (説教後)「主の祝福」(鈴木伸治牧師作詞、鈴木羊子作曲)

 

 主イエス・キリストのご復活をいただき、前週はイースター礼拝を喜びつつささげました。主のご復活は私たちに新しい命を与え、力と希望を与えてくださいます。本日の聖書、マタイによる福音書は、主イエス・キリストのご復活を人々に示されたことについての報告は記されていません。ご復活の証としてルカによる福音書ヨハネによる福音書が記していますので、その証を示されたいのであります。

 ルカによる福音書は24章13節以下にエマオという村で現れたご復活のイエス様を記しています。二人のお弟子さんが都エルサレムから12キロ離れたエマオという村へ向かって歩いています。彼らが話しながら歩いていると、いつの間にかご復活のイエス様が二人に加わり、一緒に歩くのです。二人のお弟子さんは道連れの人がイエス様であるとは気がつきません。彼らがエマオの村に着き、夕食を共にしているときに、二人の人は道連れの人がご復活のイエス様だと気が付くのでした。

 ルカによる福音書はさらにイエス様のご復活について報告しています。それは24章36節以下に記されます。お弟子さん達がご復活のイエス様にお会いしたことを話し合っていると、そこにご復活のイエス様が現れるのです。「あなたがたに平和があるように」と祝福を与え、お弟子さん達に手と足をお見せになったのであります。そしてイエス様は焼いた魚を彼らの前で食べたのであります。ルカによる福音書におけるご復活のイエス様の示しは、復活されたイエス様は亡霊ではなく、もとのイエス様であることを証言しているのであります。

 ご復活の証をヨハネによる福音書も記しています。これはヨハネによる福音書20章19節以下に記されています。週の初めの日の朝に主イエス・キリストはご復活になりました。その週の始めの日、すなわち日曜日の夕刻、お弟子さん達は人々を恐れて、家の中に閉じこもっていました。家の戸に鍵をかけていました。そこへ、ご復活のイエス様が入ってこられたのです。「あなたがたに平和があるように」と言われ、手とわき腹をお見せになったのであります。それから八日たちましてからも再びお弟子さんたちにあらわれたことが記されています。

 ヨハネによる福音書は21章にも記されています。イエス様のご復活後、お弟子さん達の7人が漁に出たのでした。一晩中漁をしましたが何も取れませんでした。朝になって浜辺の人が、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば取れるはすだ」と言うのです。それでお弟子さん達は網を打ってみるとたくさんの魚が取れ、それらよってご復活のイエス様であると示されるのでした。

 以上、聖書における復活の証を示されました。ご復活の主イエス・キリストは私たちの生活と共におられ、私たちに新しい命を与え、新しい力と希望を与えてくださっているのです。

 今朝の旧約聖書イザヤ書65章17-25節は「救い」について示しています。本日の聖書の背景は聖書の人々がバビロンに捕われていたことから解放され、かなりの期間を経ていますが、荒廃した都の中で希望もなく生きていた人々への励ましが示されているのです。

 「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」と励ましています。「初めからのことを思い起こす者はない」と言われますが、「初めからのこと」とは捕われていたときの苦しみであり、さらにエジプトにおける奴隷の時代であります。初めから苦難の歴史でありました。しかし、今や新しい導きが始まっているので、昔の苦難を思い出さないほど、新しい導きの恵みが与えられると言うのであります。

 こうして新しい導きが与えられる時、それは神様の御心をいただいて生きることであり、人々は喜びと希望に生きることになるのであります。荒廃した都の中に生きている人々にとって、このイザヤの励ましは力となりました。自分で何とかしなければと思うものの、基本的には今までの自分の姿であります。今までの自分では何も新しく変わらないのです。神様の御心をいただくこと、そこに新しい自分を見出すのです。神様の御心をいただいて生きるとき、新しいお導きが与えられるのです。イザヤは力を無くしている人々に力と希望を与えました。「彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え、まだ語りかけている間に、聞き届ける」と示しています。神様の御心がすぐに示され、人々の願いをすぐにくみ上げてくれる神様を示しているのです。祝福される者へと導いてくださっているのです。

 新しい天と新しい地を導くのは主イエス・キリストです。それがご復活のイエス様なのです。最初に、福音書におけるご復活の証を示されました。生活の中で、私たちと共におられる主イエス・キリストの導きが示されています。新しいお導きにあずかっているのです。私たちの前にある大きな課題、問題は導かれているのです。祝福される者へと導かれているのです。

マタイによる福音書28章11節以下が今朝の聖書になっています。ここでは主イエス・キリストの復活を否定しようとするたくらみが記されています。これは27章62節以下に、祭司長たちとファリサイ派の人々がピラトに言います。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子達が来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかも知れません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります」と言うのでした。このような疑いのもとに、墓の前には番兵が見張っていたのであります。地震が起こり、天使が降って来て、石をわきへ転がしたとき、番兵達は、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになったと記されています。その後、番兵達は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告したのであります。そこで、祭司長たちは長老達と集まって相談し、兵士達に多額の金を与えて、偽りの証言を言わせるのであります。「弟子達が夜中にやってきて、我々の寝ている間に死体を盗んで行った」という偽りの証言でありました。「我々の寝ている間」というのであれば、番兵達は職務怠慢ということになります。死体を盗まれないように番をするのが職務でありました。兵士達は教えられたようにしたと記されていますが、主イエス・キリストのご復活は偽りの証言によって消されることなく、むしろ今日に至るまで、人々の希望となり、喜びとなっているのであります。

 主イエス・キリストのご復活は私たちを新しい存在に導いているのです。復活をいただいた私たちは、もはや今までの自分の中に生きているのではなく、新しい自分として人々の中に生きているのであります。祝福される者へと導かれているのです

 イエス・キリストについて、キリスト教を学問として研究している人たちは、史的イエスとして、「人間イエス」の研究はいろいろな角度から論じられています。2000年前、ローマ帝国時代に出現し、新しい教え、驚くべき業等で人々の中心になっていきます。そして救いの原点として人々の希望となっていきます。このような歴史的イエス様についてのいろいろな研究がありますが、ご復活のイエス様について論じている書物はあまり多くはありません。復活とか聖霊に関することになると、それは信仰の事柄なるからです。フランスのパリを訪れ、三大美術館で鑑賞しました。聖画と言えばイエス・キリストに関する絵画が多く掲げられています。多いのはイエス様の十字架の絵です。次から次へとイエス様の十字架の絵を見せられることになりますが、復活のイエス様についてはあまり掲示されていません。十字架のイエス様については聖書が詳しく記しています。それに対して、ご復活のイエス様については信仰において証言しているのです。復活証言であり、歴史的事実としては示されないのです。また、聖霊降臨に関しても体験的なことなのです、論述できないということです。聖書に示されている「復活証言」を信じることが、キリスト教の信仰であり、信仰において復活のイエス様と出会うのです。

 私たちの人生は主イエス・キリストのご復活に与ることであります。それはイエス様が神様のみもとに引き上げられたように、私たちも永遠の命へと導かれることなのです。イエス様が神の国を示し、今生きている者として神の国を生きることへと導かれたのであります。死んでから神様の国へ導かれることではなく、生きている今、イエス様の導きをいただきつつ神の国を生きるのであります。このことは復活証言の信仰をいただくことであり、その証言に基づいて私たちはイエス様のご復活を信じているのです。ご復活のイエス様は私たちを祝福へと導いてくださっているのです。

<祈祷>

聖なる御神様。復活の証を感謝いたします。私たちが復活の主と共に人生を生きる導きを与えてください。主のみ名によりお祈りします。アーメン。