説教「平和に生きる」

2012年4月15日、六浦谷間の集会
「復活後第一主日

説教、「平和に生きる」 鈴木伸治牧師
聖書、イザヤ書60章17-22節
   ペトロの手紙<一>1章3-9節
   ヨハネによる福音書20章19-29節
賛美、(説教前)讃美歌21・327「すべての民よ、よろこべ」
   (説教後)讃美歌21・432「重荷を負う者」


 4月も半ばとなり、新しい生活を始めた皆さんは徐々に慣れ親しんでいる状況であろうかと思います。そんな中でドレーパー記念幼稚園時代のことを思い出しています。入園式が終わり、最初の日はお母さんと一緒でしたが、その次の日からは、もはやお母さんはいません。いつもは必ずお母さんやお父さんがいたのに、自分一人だけなのです。非常に不安になり、家に帰りたくなるのです。それで幼稚園の門のところで、お母さんを呼びながら泣いているのです。そういう子供が何人かいて、先生達は聖歌隊と称していました。しかし、その聖歌隊も次第に幼稚園生活が慣れて来て、お友達と遊ぶのが楽しくなります。不安のうちに始まった新しい生活も、今では楽しい毎日になるのです。これが小学生を卒業して中学生になると、もちろん聖歌隊はありませんが、いかに新しい友達と共に過ごすかが課題になります。しかし、中学生ですから自ずと自分と合う友達ができるものです。子ども達は皆と同じようにするのが、今の状況を歩んで行くことの知恵ともなります。皆と違うことをすると、皆から仲間はずれにされたり、意地悪をされたりするようです。
 成長し、大人になっていく中で、色々な人生の荒波を経験していくことになります。友達ができない、いじめに会う、孤立していく、そのような状況に生きるとき、どうしたら良いのか、行き詰ってしまうことになるでしょう。あるいは家庭にあっても、家族の理解が得られないということもあるでしょう。会社に入社し、希望に燃えて働き始めていますが、こんなはずではなかったとの思いも出て来て、挫折を経験しなければならなくなることもあるでしょう。社会に生きること、その中で自分がどのように生きて行くのか、孤独と弱さをしみじみとかみしめるのです。それらの人々に、ただ頑張れと言うだけでは、励ましにもならないでしょう。キリスト教の牧師として言えることは、復活のイエス様がそのような人々共に歩んでくださっているということです。イエス様が十字架によって死ぬのは、弱い立場の人たちと共に歩むためなのです。死んで葬られましたが、三日目に復活し、意気消沈しているお弟子さん達に復活を示し、とにかく復活のイエス様を信じなさいと励ましたのです。そう、その復活のイエス様によってお弟子さん達は立ちあがったのです。イエス様が自分と共に歩んでくださるという信仰が与えられたのです。お弟子さん達は、皆イエス様を裏切っています。それでも彼らが立ち直ったのは、復活イエス様を信じたからなのです。

 困難な状況はいつの時代でも、古今東西存在します。今を思えばシリア情勢は胸を痛めます。独裁者は民衆の声を無視して、自分の繁栄を望むのです。一人の存在はいつも無視される、この現実があるのです。聖書の国、ユダの国も大変な状況におかれています。前週もイザヤ書の示しでしたが、今朝は第三イザヤの示しになります。聖書の人々は、もはやバビロン捕囚から解放され、故郷のエルサレムへ帰還しつつあります。帰還して、なすべきことは荒廃した都の建て直しであり、破壊された神殿の再建でありました。都エルサレムは、ユダヤの残留民がいます。そして、サマリア人エルサレムを支配しているのですが、それらの残留民やサマリア人の妨害がありました。そういう中で、預言者達、指導者達の励ましにより、神殿再建に取り組んでいるのです。今朝の聖書の背景は、そのような困難な社会情勢でした。困難に直面している人々に 第三イザヤは神様の御心を与えています。「わたしがあなたに与える命令は平和、あなたを支配するものは恵みの業」であるというのです。今、神殿を再建していますが、材料が手に入らないのです。そのような人々に、「わたしは青銅の代わりに金を、鉄の代わりに銀をもたらし、木の代わりに青銅を、石の代わりに鉄をもたらす」と言っています。まさに、今やあなたがたには恵みが与えられているということです。神様が共におられる、だから現実がどのような状況であろうとも、「平和と恵み」をくださっている神様を信じて歩むことなのです。
 19節、「太陽が再びあなたの昼を照らす光とならず、月の輝きがあなたを照らすこともない。主があなたのとこしえの光となり、あなたの神があなたの輝きとなる」と示しています。この聖書の言葉は新約聖書ヨハネの黙示録21章22節以下に引用されています。「わたしは都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである」と示しています。黙示録は神殿は不要だと示しています。昔から神殿を通して神様の御心を示されていました。神殿は神様のいますところであるのです。しかし、神様が私たちと共にいてくださるのでありますから、神殿はなくても良いのです。黙示録は、さらに太陽も月もいらないというのです。太陽も月も光を放つ存在です。別の考え方をすれば、太陽も月も、生活の希望でもあるのです。私達は日々の生活において太陽の恵みをいただきつつ歩んでいるのですが、あるいは月の光も夜の生活には必要な光です。しかし、神様のご栄光が私たちの生活に与えられているのです。神様のご栄光が私たちの生活を導いてくださるのです。太陽も月も生活の糧を与えるものですが、神様のご栄光をいただくことが生活の糧と言うことなのです。
 こうして第三イザヤは困難な状況に歩む人々を励ましています。「わたしが与える命令は平和である」と言われ、「あなたを支配するのは恵みである」と示しています。神様が共におられるので平和へと導かれ、恵みの生活へと導かれているのです。それは現実の歩みに与えられることなのです。この現実を神様と共に歩むことを示しているのです。

 「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と主イエス・キリストは復活のイエス様を信じることを導いています。
 週の初めの日、朝早く、マグダラのマリアさんはイエス様が埋葬されているお墓に行きました。そのお墓の入り口は大きな石でふさがれていることになっていましたが、マリアさんがお墓に行きますと、その石は横に転がされていました。墓の中を覗くとイエス様の遺体がありません。それで、すぐにお弟子さんのペトロさんともう一人の弟子に知らせました。二人は競うようにして墓まで走り、墓の中を確かめたのでした。確かに、マリアさんの言うとおり、墓の中にはイエス様の遺体がありませんでした。それで、彼らは不可解な思いで帰っていくのです。しかし、マリアさんは悲しみつつも、その現実にとどまり続けたのです。現実にとどまるマリアさんに復活されたイエス様が現れました。私の現実にとどまり続けるとき、復活されたイエス様が、私の現実を共に担ってくださることを示されたのでした。マリアさんはお弟子さん達に知らせに行きました。「わたしは主を見ました」と言ってお弟子さん達に知らせたのです。
 しかし、お弟子さん達はマリアさんが「わたしは主を見た」と言っても、信じ難かったのです。半信半疑で聞いたと思われます。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分達のいる家の戸に鍵をかけていた」のでした。主イエス・キリストが十字架につけられ、殺されてしまったとき、弟子達は自分達にも何か被害があるのではないかとの恐れを持っていました。従って、家の戸に鍵をかけていたのでした。しかし、イエス様は鍵のかけられた家でありますが、弟子達の前に現れたのです。「あなたがたに平和があるように」とまず祝福を与えています。そして、十字架にかけられたとき、手のひらを釘で打たれ、またわき腹には槍が刺されていますので、その傷跡を示されたのです。お弟子さん達は、その方が復活されたイエス様であることはすぐに分かり、しっかりと信じたのでした。「父がわたしを お遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言い、お弟子さん達に息を吹きかけられました。お弟子さん達は家の戸に鍵をかけるほど恐れていました。不安でありました。イエス様がいなくなってしまった今、今後どのようにして生きていけばよいのか、希望をなくしていたのであります。希望を無くしていましたが、彼らも現実にとどまっていたのです。もう、イエス様がいないのであるから、別の道を歩むことも考えられますが、お弟子さん達も不安を持ちながら現実にとどまっていたのです。その彼らに、復活のイエス様が現れ、意気消沈するお弟子さん達を励ましたのであります。「あなたがたに平和があるように」と祝福を与え、息を吹きかけられたのでありました。
 息を吹きかけるとは、何か不思議な行為であります。これは聖書の深い意味があります。旧約聖書創世記は神様が天地を創造されたことが記されています。天地が造られ、動植物も造られました。そして、最後に人間が造られました。そのとき、神様は土の塵、すなわち粘土で人の形を造りました。それはまだ人間ではありません。神様は粘土の人の形、その鼻に命の息を吹き入れたのであります。すると、人は生きる者になったと聖書は報告しています。つまり、人間は神様の「命の息」をいただいて生きる者へと導かれていると示しているのです。「命の息」は「ルアッハ」というヘブル語であります。このルアッハは息でありますが、「風」とか「霊」とも訳されることがあります。ペンテコステの日にお弟子さん達は「激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ」ました。それがルアッハであり、神様の息、また霊でありました。
 今、主イエス・キリストはお弟子さん達に「息」を吹きかけたのであります。お弟子さん達が力を得たことは言うまでもありません。それで、お弟子さん達は言うことができました。「わたしたちは主を見た」とマリアさんと同じ告白をしたのであります。「わたしは主を見た」というとき、しっかりと自分が復活のイエス様を認識し、その存在を見たということなのです。確信をもって「主を見た」と言ったのであります。
 誰に言ったのか。同じ弟子の仲間のトマスさんでした。お弟子さん達に復活のイエス様が現れたとき、トマスさんはいませんでした。それで、後でお弟子さん達から確信をもって「わたしたちは主を見た」と言われ、自分がそこにいなかったことの悔しさも手伝いながら、そんなことは信じられないというのでした。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」というのでした。それから八日の後、お弟子さん達はまた家の中におり、トマスさんも一緒にいました。家の戸にはみな鍵をかけていましたが、復活のイエス様が再びお弟子さん達に現れたのです。「あなたがたに平和があるように」と祝福を与えました。そして、トマスさんに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われたのであります。もちろん、トマスさんは調べてみることなど致しません。「わたしの主、わたしの神よ」と告白したのでした。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」とイエス様は導いておられます。

 「見ないのに信じる人は、幸いである」とイエス様はトマスさんに言いました。マリアさんにしてもお弟子さん達にしても、そしてトマスさんにしても、実際にイエス様を見ていますから「主を見た」のであります。従って、イエス様のこの言葉は、むしろ私たちに言われている言葉なのであります。私たちはイエス様を「見た」とは言えません。実際に見ることはできません。しかし「見ないのに信じる人は幸いである」と言われているように、私たちがイエス様を実際に見てないのに信じていることが幸いなのであります。イエス様はお弟子さん達に息、ルアッハを与え、一人ひとりを生きた者へと導かれました。「あなたがたに平和があるように」と祝福を与えられました。その息、ルアッハは私たちにも与えられているのです。イエス様の平和は私たちにも与えられているのです。私の現実に神様の命の息が与えられ、イエス様の平和が与えられていますが、明日の私も命の息と平和の歩みなのです。平和に生きるよう導かれているのです。
 第一ペトロの手紙1章8節以下、「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」と示しています。まさに、私達は復活のイエス様を見ているのではありません。しかし、信仰によって復活のイエス様を見ているのです。その信仰生活が平和の現実であるということです。
 今の状況は苦しい、自分の存在は何なのか、つくづく自分が苦しくなってきます。しかし、神様は私が「平和に生きるよう」に命令されているのです。「平和に生きる」とは主イエス・キリストのご復活を信じて生きることなのです。復活の主が私と共に歩んでくださる、これが私たちの信仰なのです。たとえ現実がどのようであろうとも、この現実にとどまりながら、復活のイエス様を仰ぎ見ることです。復活信仰に生きる現実は「平和に生きる」ことなのです。神様のご命令は、私が平和に生きることであり、恵みが与えられていることを、この現実の中で受け止めることなのであります。
<祈祷>
聖なる御神様。復活の主を私たちに与えてくださり、感謝致します。どのような現実でも、平和に生きる者へと導いてください。主の御名によりおささげいたします。アーメン。