説教「まことの牧者」

2012年4月22日、六浦谷間の集会
「復活後第2主日

説教、「まことの牧者」 鈴木伸治牧師
聖書、エレミヤ書30章18-22節
   ペトロの手紙<一>2章18-25節
   ヨハネによる福音書10章7-18節
賛美、(説教前)讃美歌(54年版)・155「空はうららに」
   (説教後)讃美歌(54年版)・433「みどりの柴に」


 4月も下旬を迎えていますが、教会によっては本日の第4日曜日の礼拝後、または次週の第5日曜日の午後に総会が開かれます。4月に総会を開催する教会は事業報告、決算報告、事業計画、予算案等を一緒に審議するのです。しかし、教会によっては2月に事業計画と予算を決め、5月に事業報告と決算報告を承認する総会を開いています。二回も総会を開くのは、いろいろな面で大変なので、一回にまとめる教会が多いようです。
 今は総会に臨むことがなくなりましたが、在任中は、やはり総会には気を引き締めて臨んだものです。教会の歩み、どのように歩んだか、それに対してどれくらいの献金がささげられたかの報告が行われますが、牧師にとって教勢報告が一番気になることなのです。教勢報告は一年間の礼拝出席平均人数であり、教会員の増減です。牧師は教会の群れを養う務めを与えられていますが、礼拝出席者が増えること、教会員が増えることを祈りつつ職務に取り組んでいるのです。しかし、教勢の増減を一人牧師が責任を持つことではなく、全教会員が共に責任を持つべきなのです。教会は牧師が一人で担っているのではなく、教会員の皆さんが共に担っていることなのです。
 地方の教会で牧会していましたが、教会が小規模であることから、教会の皆さんが教会を担っていることを示されていました。土曜日の夕刻、一人の老婦人が牧師を訪ね、明日は所用があって礼拝に出席できないと言われ、席上献金を置いて行かれるのです。あるいは、日曜日に所用があるのですが、礼拝の始めの部分だけ出席し、席上献金を置いて出かけられるのです。そういう姿勢でも礼拝出席者です。教勢は減らないし、献金もいつもの通りの献金額になるのです。皆さんが教会を支える姿勢を示されたのでした。都会の大きな教会でも、そのような姿勢の教会員がおられます。しかし、大きな教会は、それほど教会員が教会を担う姿勢が見られないこともあります。礼拝を欠席されても、別に牧師に連絡するわけでもなく、まして席上献金を事前に届けるということは少ないということです。牧師は、いつも礼拝に出席しているのに、見えられない方がおられると心にかかります。日曜日の夕刻、電話してみると、孫の誕生日でお祝いに出かけられたと言われるのでした。礼拝を欠席しなくても、礼拝が終わってからお祝いに行っても良いわけで、そんなことを思いながら、お祝いの言葉を申し述べるのでした。
 礼拝に出席するということは、この自分が神様のお恵みをいただいて歩んでいるのであり、恵みの神様に感謝をささげることです。また、御心をいただきながらも自分本位に歩んでしまい、他者を排除した悔い改めをささげることです。そして、新しい神様の御心と力をいただき、新しい一週間を歩むのです。復活のイエス様のお導きをいただきつつ歩み出すのです。この大切な礼拝をしっかりと心にとどめて歩むことがキリスト教の信者であります。大きな教会であろうと小さな教会であろうと、教会員は神様のお導きとお恵みをいただいて歩んでいるのですから、その応答をしなければならないということです。

 「わたしが彼らを増やす。数が減ることはない。わたしが彼らに栄光を与え、侮られることはない」と神様が言われていることを、エレミヤという預言者が述べています。このエレミヤ書は、30章は「回復の約束」と言うことで示されていますが、聖書の人々がバビロンに捕われの状況にあるときです。捕われの身分、捕囚から解放される喜びを伝えているのです。もはや聖書の人々は、バビロンに滅ぼされ、多くの人が死に、捕われ、あるいは逃亡しているので、このまま民族が生き残れるのか、悲痛な思いがありました。今、エレミヤが回復の約束を与えていますが、民族が減少している状況で何ができるのか、そんな思いを持っているのです。今朝の聖書の前の段落、17節でも、聖書の人々に対し、人々が「追い出された者」、「相手にされないシオン」と言っていますが、いわゆる落ちぶれた民族を嘲笑しているのです。それに対して神様はエレミヤを通して励ましを与えています。「主はこう言われる。見よ、わたしはヤコブの天幕の繁栄を回復し、その住む所を憐れむ。都は廃墟の上に建てられ、城郭はあるべき姿に再建される」と示しています。「ヤコブの天幕」とは聖書のイスラエルの人々の家です。神殿は破壊され、荒廃したままの都エルサレムですが、もとのように再建されるというのです。これは神様が導くことであるということです。実際、エズラ、ネヘミヤ等が帰還して神殿を再建します。預言者達も人々を励ましていますが、何よりも神様がこの再建を先駆けてくださることを示しているのです。「そこから感謝の歌と、楽を奏する者の音が聞こえる」とも言われています。神様の導きで、再び人々が集まり、感謝の歌と楽器を奏でつつ喜び歌うのです。
 神様が聖書の人々を養っていること、導いていることを知ることです。ヤコブが、ヨセフが大臣となっているヨセフのもとに身を寄せるようになりました。それは全国的に冷害で飢饉が続くので、カナンに住んでいたヤコブの一族ですが、神様の導きでエジプトの大臣になっているヨセフのもとに行き、ゴセンと言う土地で住むようになりました。そして、ヤコブは死を前にして、ヨセフを祝福しています。「わたしの先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで、導かれた牧者なる神よ。わたしをあらゆる苦しみから贖われた御使いよ。どうか、この子供たちの上に祝福をお与えください。どうか、彼らがこの地上に、数多く増え続けますように」(創世記48章15-16節)とお祈りしています。神様が牧者であり、私達を導いてくださっていることを、子供たちの前ではっきりと示しているのです。エゼキエル書では、「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」(40章11節)と示しています。イスラエルを選び、導き、育むのは主なる神様であることを、旧約聖書の人々は告白しているのです。神様自らが人々を導き、しかしまた、ダビデのような人を選んで人々を牧する務めを与えています。人間に託しても、神様が人々の牧者であるということです。この基本が聖書のメッセージであるということです。

 「わたしは良い羊飼いである」と主イエス・キリストは宣言されています。今朝の新約聖書ヨハネによる福音書10章7節以下ですが、ここではイエス様ご自身が羊飼いであると言われ、しかも「良い羊飼い」であると言われているのです。まず、今朝の聖書の前の段落で、まことの羊飼いについて示しています。羊は真の羊飼いを良く知っており、偽物の羊飼いには従わないということです。「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れだす。自分の羊をすべて連れだすと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く」と記されています。羊を飼う世界は、私たちの近辺にはありませんので、羊と羊飼いの状況については知ることができません。こんなお話があります。羊飼いと羊が密接なので、ある人が羊飼いの服を借りてまとい、羊飼いがするように羊に声をかけながら、先立って歩くのですが、羊はみんなついて行かなかったということです。羊飼いの服を着たとしても、やはり雰囲気、感覚等でまことの羊飼いではないことを知るのです。また、声にしても明らかに異なるので、自分達を導く羊飼いではないと知るのです。
エス様は、このたとえをそこにいたファリサイ派の人々にお話されたのですが、彼らは何のことか分からなかったということです。このファリサイ派の人々は律法を厳格に守り、社会の模範生でもあるのです。従って、ファリサイ派の人々にとって、自分達が人々を導き、人々が自分達について来ると思っているのです。そういう姿勢のファリサイ派の人々に、イエス様は羊と羊飼いのお話をしているのです。このお話をしてもファリサイ派の人々は、お話の意味が分からなかったと言わけです。律法を厳格に守ることが羊飼いとしての生き方ではないということです。羊飼いは、羊を良く知り、羊を愛し、羊に声をかけながら先頭に立つのです。律法を厳格に守りながらも、何もわかっていないということです。そのことに関しては、9章において、生まれつき目の見えない人をイエス様が癒したことのお話に示されています。人々は生まれつき目の見えない人が、イエス様によって見えるようになったことが不思議でなりません。何故、見えるようになったのかと繰り返し聞くのです。その時、イエス様は「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」と言われました。すると、そこにいたファリサイ派の人たちが、「我々も見えないということか」と反論しています。それに対して、「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」とイエス様は言われました。ファリサイ派の人々は、厳格に律法を守ることで、何もかも分かっているような生き方をしているのです。その彼らが羊飼いでないことをイエス様ははっきりと言われているのですが、自分達に言われているのが分からなかったというのです。
今朝の聖書はファリサイ派の人々との論争の後に、イエス様が御自分を証ししているのです。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と示しています。羊飼いが羊のために命を捨てて養うということ、これはまさに主イエス・キリストの十字架の贖いなのです。ヨハネによる福音書には記されませんが、マタイによる福音書ルカによる福音書には「迷い出た羊」のたとえ話をイエス様がされています。百匹の羊を養っている羊飼いが、その中の一匹がいないことに気づきます。それで、羊飼いは迷い出た羊を捜し歩くのです。見つかるまで捜し続けたのでした。この姿勢こそ真の羊飼いであり、雇われ羊飼いは、そのようなことはしないと言っています。今朝の聖書にも、「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである」と示されています。
「わたしは良い羊飼いである」と言われたイエス様は、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」と言われています。羊飼いと羊の密接な関係は、共にいることでその関係が深められるのです。羊を守ってくれる羊飼いに信頼し、ついて行く羊たちです。私達が羊であり、羊飼いのイエス様との関係は、何によって示されるのでしょうか。言うまでもなく主イエス・キリストの十字架の贖いが、関係を深めるということです。私たちの羊飼いは御自分の命を差し出して、私達が真に生きる者へと導いておられるのです。まことの牧者であります。私たちのすべてを見守ってくださる主イエス・キリストなのです。このまことの牧者に従うことが、私たちの祝福の人生なのです。ペトロの手紙<一>2章24節以下でも証ししています。「キリストは、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたは癒されました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」と私たちの人生の基を示しています。

 先ほども触れましたが、いつもはあまり礼拝に出席しない人でしたが、教会の総会で役員に選ばれてしまいました。変な言い方ですが、月に一度くらいしか礼拝に出席してなかったのです。教会の皆さんは祈りつつ役員選挙に臨んだとき、その方を示されたのでしょう。今まではあまり礼拝に出席してなかった方ですが、役員に選ばれますと、それこそ毎週のように、休むことなく出席するようになったのです。教会の歩みを何よりも優先して取り組むようになりました。礼拝が終わり、何かの集会、例えば愛餐会の席で、突然立ち上がり、最近示されて導かれている聖書の言葉であると言われ、その聖書を朗々と読み上げられることもありました。聖書はマタイによる福音書6章25節以下、「思い悩むな」のイエス様の教えです。牧師を大事にしてくださり、竹枕を自分で作り牧師にくださいました。竹を細かく切って袋に入れ、枕にするのです。風通しが良く、枕が熱を帯びないで快適に寝られるとのことでした。早速、竹枕で寝たのですが、ゴリゴリとして痛く、到底眠られませんでした。青竹踏みも作ってくださり、これは痛くもなく、結構使っていました。役員としての自覚を深め、献身と奉仕に歩まれていたことが思い出されます。これは神様のお導きであると示されたのです。役員に選ばれるのは、一年の半分以上は礼拝に出席している人が役員となる、とは人間的な思いなのです。牧師として教勢が伸びたとか、減少したとか、もちろん大切な取り組みですが、大牧者でイエス様に委ねれば良いのです。今まで教会から離れていた人が出席するようになる、牧師が導いたというのではなく、大牧者でイエス様のお導きなのです。
 大牧者のイエス様のお導きに委ねつつ、私たちに与えられている主の御用を果たしていくこと、それが祝福の歩みであります。結果を気にすることなく、主イエス・キリストに従って歩むことが私たちの歩みであります。
<祈祷>
聖なる御神様。まことの牧者をお与えくださり感謝致します。すべてを与えられている牧者に委ねて歩ませてください。主イエス・キリストの御名によりささげます。アーメン。