説教「豊かに実を結ぶ基」

2012年4月29日、六浦谷間の集会
「復活後第3主日

説教、「豊かに実を結ぶ基」 鈴木伸治牧師
聖書、詩編146編1-10節
   ヨハネの手紙<一>5章1-5節
   ヨハネによる福音書15章1-17節
賛美、(説教前)讃美歌(54年版)・149「とこよにわたりていわえ」
   (説教後)讃美歌(54年版)・389「敵を愛せよとの」


 今年の復活祭は4月8日でした。主イエス・キリストは復活後40日間、人々に現れ、新しい歩み出しを励ましたのであります。私達、日本の国は4月が年度の始まりであり、学生にしても、社会人にありましても、また教会や企業におきましても、祈りつつ新しい歩みを始めているのであります。私達も復活のイエス様の励ましをいただきながら、信仰の歩みを力強く導かれたいのであります。
 ところで今日は4月29日でありますが、大塚平安教会在任時代の湘北地区では、CS生徒大会が開催されておりました。今年は今日の29日は日曜日なので、明日の振替休日の30日に開催されるとのことです。湘北地区には17の教会と伝道所がありますが、一年に一度、地区内の教会学校に通う子供たちが集まり、共に礼拝をささげ、交わりのひとときを持つ、そのような集いを持っています。このCS生徒大会を開催するに至りましたのは、1988年でありました。当時の地区牧師会が地区内教会学校の活性化を願って開催することにしたのです。湘北地区内の教会は大きな教会があり、教会学校も多くの子供たちが集まっていますが、それは2、3の教会であり、他は少数の子供達が集まる教会学校でした。先生たちも一生懸命に子供たちと共に歩んでいるのですが、いつも少ない人数で、どうしても消極的にならざるをえません。そういう中で、みんなで集まること、先生たちも前向きに準備しますので、いわば若い教会学校の先生たちが活性化すること、そして子供達も、いつもは少ない人数ですが、イエス様の教えをいただいているお友達がこんなにいるんだという励ましにもなるのです。
 私が退任する一年前は、大塚平安教会が担当教会となり、地区内の教会学校のお友達を迎えて開催されました。その時のテーマが「出エジプト記から学ぶ」と言うことで、モーセと共にエジプトを脱出した人々の聖書の示しを、いろいろと形に現しながら学んだのでした。その時、私はモーセ役を演じ、ひげもじゃらの姿を作るのは結構大変でしたが、楽しく演じ、子供たちと共に過ごしました。教会によっては教会学校を開いても、子供たちが集まらず、だから先生だけが参加するということもありました。だいたいが10名前後しか集まらない教会が多いということです。1979年に大塚平安教会に赴任したころは、教会学校は幼稚科、小学科、中学科、それぞれの礼拝を持つほど子供たちが多く出席していました。しかし、今の時代は、日曜日にクラブやお稽古などで教会学校に通う子供たちが少なくなっているのです。そういう中でCS生徒大会が開催されることは、活性化を与えます。何よりも、復活のイエス様が導きと励ましを与えられていることを示されるのでした。明日のCS生徒大会が祝福の集いとなるようお祈りしています。

 今朝は旧約聖書詩編の示しであります。詩編は、言うまでもなく「詩」であり、「歌」であります。この詩、歌は神様に捧げるものであり、その意味では賛歌と言うことになりますが、詩編150編全体を見ますと、むしろ苦しみの歌を捧げているということです。今朝の詩編146篇は、「ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。命のある限り、わたしは主を賛美し、長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう」との詩になっています。まさに賛歌であり、喜びの歌をうたっています。しかし、後半を見ますと苦しみに生きる人々を示しています。「虐げられている人のために裁きをし、飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち、主は見えない人の目を開き、主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し、主は寄留の民を守り、みなしごとやもめを励まされる」とうたっています。これらの人々は現実の状況なのです。この146篇を歌っている詩人はバビロン捕囚から解放された後の時代の人です。人々は懐かしい都エルサレムに帰還しますが、50年も空白の時代が続き、今再び帰って来ても、生活が保障されているのではありません。新たなる生活が始まって行くのです。バビロンに滅ぼされたとき、戦いにより多くの人が戦死しています。家族を失った人々がいるのです。父や両親がいない子供達、夫を亡くしている女性たち、荒廃の中に置かれ、苦しみの連続なのです。
 ミレーと言う画家が「落ち穂拾い」を描いています。麦刈が終わった畑の中で、三人の女性が落ちた麦の穂を拾い集めているのです。そして、向こうの方にはたくさんの麦の収穫を積み上げている人が描かれています。これは聖書の教えを背景に描かれているのです。レビ記19章9節以下、「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈りつくしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘みつくしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である」と教えられています。レビ記は聖書の人々がエジプトで奴隷であり、モーセによって脱出した後に、神様の約束の土地カナンへ向かう途上に与えられた律法、掟、戒め等を示す書です。聖書の人々がエジプトで奴隷として生きること、困難極まりない状況であり、過酷な労役によって死んでいった人が多くいるのです。また、脱出にしても命からがら、戦いながらのことであり、そこでも多くの人々が犠牲になっているのです。そういう中で夫を亡くした女性たち、親を失った子供たちが取り残されているのです。従って、聖書の民族は、早い時代から、神様の御心として「みなしご、やもめ」の救済が教えられているのです。
 いつの時代でも「虐げられている人、飢えている人、捕われの人、見えない人、うずくまっている人、寄留の民、みなしご、やもめ」がいるのです。当然、人間としてそれらの人々と共に生きなければならないのですが、何よりも「とこしえにまことを守られる主」の神様が導きを与え、恵みをくださると詩人はうたっています。現実はこのような苦しみですが、人間に失望しても、「とこしえにまことを守られる」神様を仰ぎ、寄り頼まなければならないのです。「君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。霊が人間を去れば、人間は自分の属する土に帰り、その日、彼の思いも滅びる」と示しています。
 もちろん、人間はあい助け合って生きています。東北関東大震災の悲しみは続いています。多くの人がこの困難から立ちあがるために協力しています。復興が徐々に導かれています。しかし、人間は根本的な基、すなわち自分を真に導くのは神様であると知ることなのです。私の存在をすべて神様の前に差し出すことです。主イエス・キリストが十字架の贖いにより、私を生きる者へと導いてくださっているのでありますから、喜びの時も、悲しみの時も、苦しみの時も、イエス様と共に歩むことが大切なのであります。詩編はそういう歌であるのです。何もかも神様に差し出して、喜びの歌をうたい、悲しみの歌をうたい、苦しみの歌をうたい続けるのです。そこに人生の基があるのです。この人生の基を持ち続けるということです。この基が新しい一歩を導いてくださるのです。

 「わたしがあなたがたの基である」と言われているのは主イエス・キリストであります。そのことをぶどうの木と枝の関係で示しています。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」とヨハネによる福音書15章で示しています。このヨハネによる福音書は12章12節以下で、イエス様が都エルサレムに群衆から歓呼して迎えられていることを記しています。それ以後、イエス様は十字架への道を歩んで行くのですが、13章ではイエス様がお弟子さん達の足を洗い、「仕える者になりなさい」と教えておられます。十字架にかけられること、裏切られることをあからさまに示し、それでも十字架の道を進まれることを示しています。14章では、十字架の道を歩むことで心を痛めているお弟子さん達に、「心を騒がせるな、神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と励ましています。この14章から16章まではイエス様の決別説教になっています。その中で示されていることが、「わたしがあなたがたの人生の基」であるとの教えです。
 イエス様はぶどう園を示しながら、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」とたとえています。「父は農夫」と言われますが、神様を示しています。神様がぶどう園にぶどうの木を植えている。そして、ぶどうの木につながる枝から豊かなぶどうの実が結ぶよう、手入れしてくださっているというのです。豊かなぶどうの実を結ぶためには、枝はぶどうの木にしっかりとつながっていなければならないのです。ぶどうの木から栄養分を吸収し、それにより豊かなぶどうの実を結ばせることができるのです。「あなたはぶどうの木につながっているか」との問いかけも示されています。
 教会の礼拝に出席していることが、「ぶどうの木につながっている」とは必ずしも言えません。礼拝に出席し、主イエス・キリストの御心をいただくことがつながっていることであり、人間的な思いが先になることにより、つながりはなくなるのです。それらの人々は差別を何よりも優先します。立派な取り組みでありますが、礼拝においてもそれらの観点で臨んでいるのです。例えば、聖餐式は教会員だけが受けるということは、教会員でない者に対して差別であると主張します。教会員とは主イエス・キリストの十字架の贖いを信じて洗礼を受けた者です。教会員ではないというとき、まだ洗礼を受けていない人々です。従って、まだ十字架の贖いを信じていない人たちなので、聖餐式に臨んでも十字架の贖いを信じてないので、意味がないということです。そこで差別を主張するのですが、差別だと言う前に、主イエス・キリストの十字架の贖いを証しすることが大切なのです。ぶどうの木につながっているということは、ぶどうの木を基とすることです。それは十字架の救いを信じなければ基とすることはできないのです。ただイエス様と私の関係ではなく、十字架のイエス様と、その十字架によって新しい私が導かれていることの関係なのです。
 私達はぶどうの木につながる枝です。ぶどうの木から栄養分をいただいて豊かなぶどうの実を結ぶのです。豊かにぶどうの実を結ぶと言われていますが、どのようなぶどうの実なのか、イエス様が示しています。
 それは主イエス・キリストの「掟」を守ることです。15章12節に、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」と教えておられます。イエス様のぶどうの木につながる枝は、木から栄養分をいつもいただくのです。その栄養分とは「互いに愛する」ことなのです。イエス様はほかの表現で示しています。「あなたは神様を愛し、自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」と教えています。自分を愛することは、人間は本能としての生き方です。それと全く同じように、本能として他者を愛すること、これがイエス様からいただく栄養分なのです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上大きな愛はない」と教えられていますが、自分が身代わりとなって死ぬことなのかと思います。「自分の命を捨てる」とは、私の自己満足であり、他者排除の姿であるのです。私たちの命は、常に自己満足に生き、他者を排除しながら生きているのです。それを捨てるということが「命を捨てる」ことなのです。イエス様は「自分の命」を捨てることを任命しています。

 イエス様のお弟子さん達は、このようにしてイエス様の基を示されました。しかし、その教えを本当に示されるのは、イエス様が十字架にお架りになり、復活されたイエス様とお会いしてからでした。他の福音書の中からの示しですが、ペトロを始め、お弟子さん達はイエス様を裏切りました。まず、イスカリオテのユダは時の指導者たちにイエス様を売り渡しています。イエス様から信頼されて会計係りまで任されていたユダでありますが、迷いがあり、いろいろないきさつがあるのでしょうが、時の指導者たちにイエス様の居場所を教えて報酬を受けるのです。イエス様の掟を命令として示されていたのですが、自分の思いが先だち、裏切る結果となりました。ペトロにしても、いつもお弟子さん達の中心になってイエス様の教えを実践していました。イエス様が、十字架につけられる受難についてお弟子さん達にお話すると、ペトロはイエス様をいさめたと記されています。イエス様がそんなふうにして殺されることなんか考えても見なかったことです。やがてこの方は救い主として世の人々をお救いになるとの思いはありますが、十字架にかけられること、そんなことがあってはならないのです。ヤコブにしてもヨハネにしても、イエス様が立派になったら右大臣、左大臣にしてくださいとお願いしています。それを聞いた他のお弟子さん達は大いに怒ったと記されています。要するにお弟子さん達は自己満足でイエス様に従っていたということです。だから捕らえられて十字架にかけられることになったとき、お弟子さん達はみんな逃げてしまったのでした。その彼らを呼び戻したのは復活のイエス様でありました。そして、改めてイエス様の掟を守るように導かれたのです。
 第一ヨハネの手紙5章の示しです。「神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それは私たちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか」と示されています。豊かに実を結ぶ基なのです。
<祈祷>
聖なる神様。ぶどうの木につながる枝にしてくださり感謝致します。世に打ち勝つためにイエス様の掟を守りつつ歩ませてください。主の御名によりおささげ致します。アーメン。