説教「新たなる力を得る」

2012年5月6日、六浦谷間の集会
「復活後第4主日

説教、「新たなる力を得る」 鈴木伸治牧師
聖書、イザヤ書40章27-31節
   コロサイの信徒への手紙3章12-17節
   マタイによる福音書11章25-30節
賛美、(説教前)讃美歌(54年版)・152「陰府のちからは」
   (説教後)讃美歌(54年版)・391「ナルドの壺」


 今朝は5月6日、ゴールデンウィークと言われる連休の終わりの日であり、今日は一日中帰省する人々で混雑するでしょう。高速道は渋滞60キロ、50キロであり、のろのろ運転には閉口してしまいます。それでも家族のために帰省し、あるいは旅行をすること、大切なことであると思っているのです。海外に出かけた人たちも帰国ラッシュで、飛行場も混雑しているでしょうし、電車にしても新幹線の駅は大変な混雑でしょう。
 このような民族の大移動を思わせる状況で、先日はバスの事故があり、7名の方が亡くなられたということは痛ましい出来事でした。高速道の防御壁がつながってなく、切れ目があるので、もし切れ目がなければ、バスは防御壁を激しく接触しても死者が出ることはなかったとも言われます。道路管理が指摘されていますが、それと共に運転士の過密なスケジュールが大きな問題になっています。今は格安が売り物で、飛行機にしてもバス旅行にしても格安で利用できると宣伝されています。格安飛行機は今までのように機内サーヴィスを省略するとか、そのため客室乗務員を減らすことで運賃を安くできるようです。バス旅行の格安は運転士の過密な労働が求められているようです。十分な休息がないままに次の職務をしなければならないこと、二人体制の運転を一人で運転しなければならないこと、犠牲が運転士に求められて格安となるということです。
 日本には5月のゴールデンウィーク、8月のお盆休暇、年末年始のお休みがあり、いかにもお休みが多いようです。しかも最近は祝日を日曜日に続け、連休としていることも喜ばれているようです。しかし、日本はお休みが多いようにも受け止められますが、決して多いとは言えないでしょう。このお休み以外は、仕事に明け暮れているからです。諸外国の事情については、あまり知りませんが、昨年4月5月にスペイン・バルセロナで一ヶ月半過ごしましたが、お休みの多いことでは驚かされました。お昼休みは2時間もあり、その時間は会社にしても店にしても、しっかりと休むのです。もっともサグラダ・ファミリア等観光地の土産物屋さんは2時間の休みなどはありません。そして、日曜日もすべてがお休みなのです。会社はもちろんそれぞれの店も休みです。キリスト教の国ですから、日曜日は教会でミサ、礼拝をささげることになっているのです。しかし、必ずしも教会に行くわけではないようです。そして、7月8月は夏休みになっており、長い休暇を避暑地で過ごす人々もいるようです。こうして考えると、日本では仕事の合間に休みがあるということですが、休みの合間に仕事があるような感じがします。十分な休息、心のゆとり、そのような環境で仕事をしているということであり、格安競争をする日本においては、人間を犠牲にしていると言うことです。
 十分な体の休息と共に、心の平安、精神の安定、魂の喜びが大切であるということです。それらが与えられてこそ真に「新たなる力を得る」ことになるのです。「新たなる力を得る」こと、その根源は何か、今朝の聖書の示しをいただきましょう。

 「主に望みをおく人は新たなる力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」とイザヤ書は確信をもって示しています。今朝のイザヤ書は第二イザヤのもので、バビロンに捕われている人々への励ましの預言であります。バビロンに捕われること約50年、希望もなくなり、ただ生きている人々に対する預言であります。だから今朝の聖書40章27節で述べています。「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ断言するのか。私の道は主に隠されている、と。わたしの裁きは神に忘れられた、と」、このような諦めきった人々の声の中でイザヤは神様の御心を語るのです。「ヤコブよ、イスラエルよ」と複数に呼びかけているようですが、ヤコブイスラエルも同一であります。ヤコブの別名がイスラエルであり、聖書の民の総称であるのです。「わたしの道は主に隠されている」と言い、神様は隠れているのだと言っている訳です。「わたしの裁きは神に忘れられた」と言っていますが、神様に苦しみを訴えても、神様は相手を裁いてくれないと嘆いているのです。我々には何も構ってくれない神様であると嘆き、失望しているのです。
 そのように失望しているイスラエルの人々は、50年間の捕囚に埋没してしまっているのです。どうにもならないのだということ、希望すら持てないということなのです。そういう人々に対してイザヤは、どのような状況であろうとも、「主に望みをおきなさい」と示します。「あなたは知らないのか、聞いたことがないのか。主はとこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主」と示し、神様はこの世界の創造者であり、力の根源であるというのです。だから「倦むことなく、疲れることなく、その英知はきわめがたい」と述べ、創造者の御心をだれが知ることができようと示しているのです。「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる」神様であることを知らなければならないのです。なぜ、諦めているのか、力を無くしているのか、力をくださるのは神様であり、活力を与えてくださるのは神様であると断言します。「若者は倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが」と示し、人間の弱さを示しています。人間は滅びて行くものですが、その滅びて行く人間を強くするのは神様であることです。「主に望みをおく人は新たなる力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」と述べています。私はこの部分を読むとき、イザヤは、「神様はそういう導きを与えてくれます」と優しく述べているのではなく、声を大にして、人々に叫んでいることが示されて来るのです。「何をくよくよしているのか。神様が力をくださっている。弱ることなく、疲れることのない力をくださっている」と声を大にして叫んでいるのです。その根源は「主に望みをおく」ことです。神様にすべてを託し、希望をもつことです。神様はどのように私を導いてくださるのか、それは分かりません。しかし、「弱ることなく、疲れない」力をくださるのです。その力によって、与えられた私の道を踏みしめて行くことです。
 この希望は捕われから解放されることですが、バビロンはこの後ペルシャによって滅ぼされ、イスラエルの人々は解放され、都エルサレムに帰って行くのです。まさに「弱ることなく、疲れない」力を与えられ、「主に望みおく」人々へと導かれていくのです。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と主イエス・キリストは人々を招いています。「あなたがたを神の国に生きる者へと導く」とイエス様は示しているのです。今朝の新約聖書11章25節以下は主イエス・キリストの招きの言葉であります。招きの言葉を言う時、「天地の主である父よ。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」と言われています。このマタイによる福音書11章のはじめに、バプテスマのヨハネが、彼は捕らえられて牢屋の中に居るのですが、ヨハネは自分の弟子をイエス様に遣わし、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、他の方を待たなければなりませんか」と尋ねさせるのであります。それに対して主イエス・キリストは、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」と答えられました。まさに主イエス・キリストが救い主であることを証ししているのです。イエス様はそのようにお答えになってから、バプテスマのヨハネを高く評価しています。ヨハネが悔い改めの説教をしたのに、人々は受け止めなかったのであります。「笛を吹いたのに踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに悲しんでくれなかった」。これは子ども達の遊びであります。結婚式ごっこの遊びでは、誰かが笛を吹くと、みんなが喜びの踊りをおどるのです。葬式ごっこでは、悲しみの歌をうたうと、悲しみの声をあげるということです。世の中の人々はヨハネが神様のお心を示しているのに、少しも受け止めなかったことをイエス様が指摘しているのです。さらに11章20節以下でも、悔い改めない町を批判しています。
 神様のお心を受け止めない人々を示し、真に神様のお心をいただくのは、知恵ある者や賢いものではないと言われ、幼子のようなものこそ神様のお心を真にいただく者であることを示しているのです。コリントの信徒への手紙(一)1章18節以下、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」と示されています。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする」とも示されています。「幼子」とは貧しき人々であり、世の人々から片隅に押しやられている存在であります。当時の社会で「罪人」といわれる人々、病気の人々は社会からはみ出されて生きていたのであります。状況的には、社会の中で何の保証もない、不安定な人々、捕囚に生きる人々のようです。希望が持てない人々に、「主に望みをおく」ことを叫んだイザヤでした。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とイエス様は招いています。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたに安らぎが得られる」と教えておられます。「休ませてあげよう」と言われていますが、「わたしの軛を負いなさい」と言われています。「軛」は牛や馬の首の部分に横木を当てて、重い荷物を引かせるものです。あるいは田畑を耕すためのものです。イエス様のもとに行くことは安らぎを得るためですが、そのためには軛を負うことになるというのです。イエス様が言われる「軛」とは、「自分を愛するように、隣人を愛する」ということなのです。この軛を担って生きることにより、神の国に生きる者へと導かれるというのであります。「自分を愛するように、隣人を愛する」生き方は自分との戦いであります。十字架の贖いをしっかり見つめて生きなければ、自分との戦いに負けてしまいます。そうであると、イエス様に従うことは、かえって疲れてしまうのではないかと思うでしょうか。もし、私たちが自分の好き勝手に生きて、他人のことなど考えないで生きるとき、そこに本当の平安があるでしょうか。何か心に引っかかるものがあり、心の重荷になって来るのです。そうではなく、イエス様が教えておられるように、イエス様の軛をいただくことにより、いつも他者を見つめ、共に生きようとするとき、その時こそ真に平安が与えられるのです。私たちが「疲れる」のは他者を排除するからです。「重荷を持つ」ことは生活の苦労、諸問題でありますが、その重荷をイエス様が共に担ってくださると言われるのです。イエス様のもとに身を寄せるとき、安らぎが与えられるのです。
コロサイの信徒への手紙の御言葉も示されておきましょう。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」(3章12節、13節)と教えられています。このように生きるとき新たなる力を得るのです。

 ヘルマン・ヘッセの童話「アウグスッス」から考えておきましょう。
 ある町に一人の若い女性が住んでいました。結婚してまもなく夫を失ってしまいますが、彼女は子どもをみごもっていました。身よりのない彼女のために隣に住む老人が面倒を見てくれたので、彼女は子供が生まれ洗礼を授けるときに、隣の老人に代父となることをお願いします。洗礼式の終わったお祝いの席で、「洗礼のお祝いとして、小さなオルゴールがなっている間に、この子のために一番いいと思われることをひとつ考えてみなさい。そうしたらそれをかなえてあげよう」とその老人は言うのです。オルゴールがなり出したときに、母親は「みんながおまえを愛さずにはいられないように」と願います。その男の子は、誰からも愛される少年に育っていきます。願いはかなえられました。やがて母親はなくなり、美しくりりしい青年となったアウグスツスは金持ちの未亡人と恋に陥りますが、彼はやがて別の美しい娘とも恋をします。彼はその他にも次々に恋人を変え、彼の心もすさんで行くのです。スキャンダルにまきこまれたり、夫から訴えられたりして疲れ切ったアウグスツスは毒の入ったブドウ酒を飲んで自らの命を絶とうとします。そのときに、あの老人がまた現れました。「あなたのお母さんが願ったことはかなえられたけれど、それは君にとって害になってしまったようだね。もうひとつの願いをかなえてあげられるとしたら君は何を望むかね。君を再び楽しくする不思議な力があると思ったら、それを願いたまえ」。「僕の役に立たなかった古い魔力を取り消してください。その代わり、僕が人びとを愛することができるようにしてください」。そしてその結果、アウグスツスは彼を愛したすべての人から憎しみと侮蔑の言葉を投げつけられ、訴えられて獄につながれ、出獄したときには誰からも見捨てられていたのです。しかし、彼は世界をさすらい、何らかの形で人びとに役立ち、自分の愛を示すことのできる場所を探し続けたのです。
 愛される人になってほしい、とは私たちが持つ子どもへの願いでもあります。しかし、そのような受け身ではなく、積極的な生き方を願うことこそ大切なのです。「愛される」より「愛する人になる」ということです。ここにイエス様の「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」との招きの言葉があるのです。愛されることを求めることが重荷になるのです。そうではなく、愛することを持って生きるときに真の力が与えられ、喜びがあるのです。ヘッセの童話の主題は、アッシジのフランシスの「平和の祈り」によると言われます。その祈りを示されましょう。

主よ、わたしを平和の道具とさせてください。 憎しみのあるところに愛を、罪のあるところに赦しを、争いのあるところに一致を、 誤りのあるところに真理を、疑いのあるところに信仰を、 絶望のあるところに希望を、 闇のあるところに光を、悲しみのあるところには喜びを。主よ、わたしに求めさせてください。慰められるよりも慰めることを、 理解されるよりも理解することを、 愛されるよりも愛することを。人は自分を捨ててこそ、それを受け、自分を忘れてこそ、自分を見いだし、赦してこそ、赦され、死んでこそ、永遠の命に復活するからです。『フランシスコの祈り』(女子パウロ会)より 。

 ここに「新たなる力を得る」秘密があるのです。秘密は隠されているのではなく、簡単なことなのです。人々を自分に向けるのではなく、自分が人々に向かうということなのです。主イエス・キリストのお招きに応えることにより、「新たなる力を得る」ことになるのです。
<祈祷>
聖なる御神様。イエス様のお招きを感謝致します。イエス様の軛を負い、他者を見つめつつ歩む者へとお導きください。主イエス・キリストの御名によりささげます。アーメン。