説教「喜びで満たされる」

2012年5月13日、横須賀上町教会
「復活後第5主日

説教、「喜びで満たされる」 鈴木伸治牧師
聖書、列王記上8章27-34節
   テモテへの手紙<一>2章1-7節
   ヨハネによる福音書16章16-24節
賛美、(説教前)讃美歌21・336「主の昇天こそ」
   (説教後)讃美歌21・493「いつくしみ深い」


 横須賀上町教会は、この4月から新しい牧者、宮澤恵樹先生をお迎えして、新たなる歩みが導かれています。この新たなる教会で、本日の講壇に立たせていただく導きを感謝しています。2010年10月より、毎月第一主日の講壇に立たせていただいていました。そして、2012年4月より新しい牧者が赴任されるので、3月をもって礼拝担当が終わるとの思いがあったのですが、再び神様のお導きをいただき講壇に立たせていただくことになりました。祈り求めることは宮澤先生が一日も早く正教師となられて、先生が洗礼式、聖餐式を執行することであります。どうか教会の皆さんも宮澤先生をお支えくださいまして、その日の到来を祈りつつ待望したいと思います。
 宮澤先生がこの横須賀上町教会に遣わされたということは、私にとりましては深い神様のお導きであると示されています。実は宮澤先生の父上様とは親しい友人であります。父上に対して年齢的には随分と上になりますが、神学校の学年では、父上様は数年後輩になります。卒業してそれぞれの教会に遣わされましたので、なかなかお会いすることはなくなりました。2002年10月から、私は日本基督教団の総会書記に就任しました。5月になると各教区が総会を開催しますので、教団の議長、副議長、書記、総幹事が分担して各教区総会に教団問安使として訪問します。宮澤先生の父上は軽井沢南教会の牧師であり、東海教区に所属します。その東海教区には書記在任中に三度、教団問安使として訪問しました。その時に久しぶりに父上様とお会いしたわけです。旧交が暖められたこともあり、2008年8月17日に軽井沢南教会の講壇に立たせていただいたのでした。その時、ご子息の宮澤恵樹先生がその礼拝に出席されておられたと言うことです。おそらくそこで紹介されたと思いますが、記憶に残ってなく、先日、宮澤先生が私共の家をお訪ねくださり、いろいろとお話しているときに、そこでお会いしていることを示されたのでした。そのような経緯を示されるとき、この横須賀上町教会へと神様がお導きくださったことを示されるのであります。そのようなお導きをいただいておりますので、私も祈りつつ横須賀上町教会をお支えしたいと示されています。
 ところで、今まで第一主日の講壇に立たせていただいていましたが、昨年の5月はスペインに行っていましたので休ませていただきました。本日は5月の第二日曜日であり、「母の日」と言うことです。教会で始まったことであるにしても、社会的にもこの日が覚えられています。私は5月になると、大塚平安教会在任中も、私が牧師になっていく経緯をお話させていただいていました。母の日になると、当然でありますが母を心に示され、そして今日の私があると示されているのであります。
 日本の敗戦後、母は病院で入院するようになりました。はっきりしたことは憶えていないのですが、1948年頃、昭和23年頃だと思います。ある日、見知らぬ子供達が病室に入ってきまして、花をいただいたのでした。それは6月の第二日曜日、「子どもの日・花の日」であり、近くの教会学校の子供たちでした。その当時からこの行事が行われるようになっていたわけです。敗戦後3年ですから、教会もアメリカの教会行事を取り入れていたのです。見ず知らずの子供に花を送られ、「早く良くなってください」との言葉をいただいたのでしょう。母は深い感銘を与えられたようです。退院しますと、私を連れて、小学校3年生になっていた私ですが、その教会学校に行ったのです。花の日のお礼を述べ、今後は息子が出席しますからよろしくお願いします、と挨拶するのでした。私の気持ちではなく、母の気持ちなのです。これはずっと後になって示されたことですが、母が私を教会学校に通わせるようになったのは、自分の子供も人様に喜んでいただく、そういう人になってもらいたい、との願いであったと思うようになりました。それからは日曜日になると、教会学校に通わされたのでした。二人の姉が横浜の清水ヶ丘教会に導かれていましたので、それらも導きになっていたと思います。毎年、母の日を迎える度に、私の原点である母の祈りを示されているのであります。

 今朝の聖書は、列王記上、テモテへの手紙、ヨハネによる福音書より示されていますが、いずれも「祈り」を示しています。私たちを祈る者へと導き、その祈りにいつも耳を傾けてくださる神様のお導きを示されるのであります。
 今朝は列王記上8章27節から34節が示されていますが、この部分はソロモン王の祈りであります。今、ソロモンは神殿を造り終え、今までは「主の箱」すなわち「十戒」を幕屋の中に納めていましたが、神殿が完成しましたので、神殿に移し終え、そこでお祈りを捧げたのでした。もともと神殿は父のダビデが建設する思いをもちました。しかし、神様は神殿の建設はソロモンであるとしたので、ダビデは神殿建設を思いとどまりました。神殿建設へと導かれるのは、「主の箱」がいまだに天幕の中に置かれていたからであります。聖書の人々が奴隷の国エジプトから脱出し、モーセの導きでカナンへの旅をすること40年でした。モーセシナイ山で授与された十戒は「主の箱」に納められ、天幕の中に置かれていたのです。その天幕は40年間の旅ですから、折りたたみ式のテントでした。宿営する場所に来ると折りたたみ式テントを造り、天幕にして「主の箱」を安置していたのです。カナンに定着し、ダビデの時代、ソロモンの時代になっても天幕の中に置かれていたのです。それで、このような場ではなく、神殿を造り、そこに安置することを計画したのはダビデの時代からですが、完成したのはソロモンでした。今、ソロモンは天幕に納めてある「主の箱」、聖なる祭具を神殿に納めたのであります。8章22節以下、「ソロモンは、イスラエルの全会衆の前で、主の祭壇の前に立ち、両手を天に伸ばして祈った」と記されています。
今朝の聖書はここから始まるソロモンの祈りです。まず神様が慈しみをもって導いてくださることを感謝し、この神殿の意味をお祈りしています。「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることはできません。わたしが建てたこの神殿など、なおさらふさわしくありません」と祈っています。そして、この神殿の意味をお祈りしているのです。「わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日、僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。そして、夜も昼もこの神殿に、このところに御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください」とお祈りしています。つまり、ソロモンが神殿を造ったのは、この神殿に神様がお住まいなるのではなく、神様のお名前がおかれるためなのです。神様がこの神殿に目を注がれ、神殿に向かってささげられる祈りを聞き届けてくださると信じているのであります。
ここに神殿の深い意味が示されています。また、教会を示される原点でもあります。この教会という建物に神様が鎮座ましましているのではなく、神様が御目を注いでくださっているということです。その神殿は神様の御心である「十戒」がおかれているのです。従って、神様にささげる祈りは、十戒に向かいつつささげるお祈りであるのです。そのため、神様の御心を示されながらお祈りすることになるのです。私達は、教会は主イエス・キリストの御体と信じて、教会に集められています。イエス様が教会の中心であると言うことです。イエス様が教会に住んでいるというのではなく、イエス様の十字架の救いが置かれているということです。神殿に十戒が置かれ、神様の御心へと導かれたように、教会に主イエス・キリストの十字架の贖いが置かれており、私達が救いへと導かれているのです。私達が教会でお祈りをささげることは、イエス様の十字架の贖いによりささげることができるのです。

 「あなたがたが私の名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる」とイエス様は示しています。「今までは、あなたがたは私の名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」と示しておられます。私達がお祈りの最後に、「この祈りを主イエス・キリストの御名によりおささげいたします」と祈るのは、イエス様がお示しになられたからであります。私達の祈りをイエス様が受けとめられ、神様におとりなしをしてくださるのです。主イエス・キリストの十字架の贖いが置かれているこの教会でお祈りをすること、いよいよ救いが増し加わり、祝福の歩みへと導かれるのです。
ヨハネによる福音書16章はイエス様の決別説教です。十字架の道を進みゆくイエス様は、お弟子さん達に分かれの説教をいたします。ヨハネによる福音書14章から始まります。14章1節は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と説教を始められています。都エルサレムに入ったイエス様は十字架への道を踏みしめて歩まれておりますが、お弟子さんたちへの教えを強めております。お弟子さん達と最後の晩餐を取ったり、お弟子さん達の足を洗ったりしますが、お弟子さん達の弱さも指摘されています。お弟子さん達の一人がイエス様を裏切ることもお話され、ペトロに対してはイエス様との関係を否定すると言われるのです。ペトロを始めお弟子さん達は、そんなことはないというのでが、お弟子さん達は不安が募ってくるのでした。不安におののくお弟子さん達に対し、「心を騒がせるな」と示しつつ励ましの説教をされるのです。今朝の16章は決別説教の終わりに近づいています。16章の最後のところで、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と述べられて決別説教を終えられるのであります。
 今朝のイエス様の説教は、イエス様を見ることができなくなると示しています。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」とお弟子さん達にお話しされています。お弟子さん達は、イエス様が何をおっしゃっているのか分かりません。それに対してイエス様は言いなおされています。「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」と言われるのです。ご自分の十字架の死について示されているのです。十字架にかけられ、死んで墓に納められますが、その後は復活されることを示されているのです。そして、40日間はそのお姿を人々にお示しになりますが、40日後に昇天されます。それでまたイエス様を見なくなるのであります。しかし、イエス様というお姿を見なくなった後、イエス様の存在そのものが霊になり、お弟子さん達に降るのです。それが再びイエス様を見るということになるということです。「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる」と示され、励ましています。
 主イエス・キリストが十字架におかかりになること、それは何よりもイエス様のとりなしのお祈りなのです。十字架で殺されるということは、時の指導者たちの妬みの故でした。しかし神様の御心でありました。主イエス・キリストの死により、人間の奥深くにある自己中心、他者排除を滅ぼすことが神様の御心でありました。主イエス・キリストは神様の御心を受けとめられ、ご自分が十字架におかかりになるということ、人々の救いのためであること、この神様の御計画に従っているのです。十字架はイエス様による私たちに対する神様へのとりなしです。そして、天に昇られ、私達の祈りを神様にとりなしてくださっているのです。今週の17日がイエス様の昇天日です。イエス様のご昇天は、私達のためにを神様にとりなし、私達をお導き下さるイエス様として示されるのです。

 「わたしの名によって祈りなさい」とイエス様は導いておられます。ソロモンが神殿に向かって神様にお祈りをささげたように、私達も教会に置かれている主イエス・キリストの十字架の贖いに向かいながら、神様にお祈りをささげるのであります。
 今は讃美歌21により賛美していますが、以前は54年版讃美歌を用いていました。その中の438番は、いつも心に示される讃美歌でした。「わがまくらべに、夜ごといのらす、母のみすがた、とうときかな」、「すこやかにして、ただしくあれと、あつきいのりを、ささげたもう」と歌っていますが、母の姿を思わずにはおられません。お母さんを称える歌のようで、だから讃美歌21から外されたと思います。しかし、三節で「父なるかみよ、やさしき母を、とわにたえせず、めぐみたまえ」とはじめて讃美歌らしい言葉で歌われるのです。イエス様のお名前は出てきませんが、主イエス・キリストと重ねながら歌うとき、やはり讃美歌であるのです。讃美歌は神様にささげるお祈りです。
「わたしの名によって祈りなさい」とイエス様は私たちの祈りを励ましておられます。「そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」とお導きくださっています。私たちの何もかも、すべてを引き受けて十字架にお架りになった主イエス・キリストが、私たちの祈りをすべて神様におとりなしくださっているのです。だから、私達は「喜びで満たされる」歩みが与えられているのです。
<祈祷>
聖なる御神様。神様のお名前が置かれ、十字架の救いが置かれている教会に導いてくださり感謝致します。常に祈ることを導いてください。主の名によりささげます。アーメン。