説教「主が約束されたこと」

2012年5月20日、六浦谷間の集会
「昇天後主日

説教、「主が約束されたこと」 鈴木伸治牧師
聖書、創世記28章10-22節
   エフェソの信徒への手紙3章14-19節
   ヨハネによる福音書15章26節-16章4節a
賛美、(説教前)讃美歌(54年版)・158「あめには御使い」
   (説教後)讃美歌(54年版)・239「さまよう人々」


 今朝は主イエス・キリストの昇天の意義を示されます。今年の教会の暦は4月8日に主イエス・キリストは復活され、その後40日間、復活のお姿を人々に示されました。そして5月17日に天に昇られました。ヨハネによる福音書はイエス様の昇天については記していませんので、使徒言行録1章8節以下の昇天についての証を示されましょう。「イエスは言われた。『あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤサマリアの全土まで、また、地の果てに至るまで、私の証人となる。』こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。』」。この主イエス・キリストの昇天の意義を示しているのが今朝の聖書であります。
 クリスマスが終わり、その後はイエス様の洗礼や荒れ野の試練、そして世の人々に「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣言されて宣教を開始されました。そして、町や村で福音を示し、神様の御心と御業を現されたのです。その後は受難節となり、イエス様が十字架への道を進まれる示しをいただいてまいりました。そして、十字架にかけられ、死んで葬られ、しかし三日目にご復活され、40日間人々に現れました。こうしたイエス様の福音宣教を示されながら、私達はイエス様を実際に示されながら導かれてきたのです。イエス様の写真があるわけではなく、その後に描かれた絵等を思いうかべながら、イエス様の足跡を示されるのです。
 西洋の古典的絵画は聖書とイエス様に関する題材が圧倒的に多いのです。今、横浜市立大学のエックステンション講座に出席しています。「ヴェネツィアルネサンス絵画の巨匠たち」がテーマです。この時代の絵画についての講義ですが、ほとんど聖書の絵画です。そして、マリアさんピエタとイエス様の十字架に関する絵画がほとんどであるのです。ルーブル美術館を鑑賞したときにも、イエス様の十字架に関する絵画が、これでもかこれでもかと言わんばかりに展示されているのでした。十字架にかけられている主イエス・キリストの絵を「エッケ・ホモ」との題にして絵が結構あるのです。「この人を見よ」と言う意味です。
 今までは具体的にイエス様のお姿を心に示されながら導かれてきましたが、イエス様のご昇天と共に、これからはイエス様が約束されている聖霊の導きに委ねつつ歩むのです。もちろん、これからも福音書の示しをいただきながら歩みますので、イエス様の宣教を心に示されるのでありますが、今朝のヨハネによる福音書に示されるように、「弁護者」、「真理の霊」の導きに委ねて歩むのです。そのイエス様の約束を示されるのであります。

 今朝の旧約聖書ヤコブに対して、神様が約束を与えて導いておられます。創世記28章10節以下が今朝の示しです。ヤコブはイサクの子供ですが、生まれたときエサウと共に生まれた双子でした。エサウが父の後を継ぐことになり、ヤコブはそれが面白くなく、エサウから家督の権利を奪ってしまうのです。細かいいきさつは割愛しますが、怒るエサウから逃れて母の兄、伯父さんのもとへ逃れて行く途上の出来事が今朝の聖書になります。
 旅の途上、日が沈んだので野宿することになります。「ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横になった」と記されています。寝ていると彼は夢をみます。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、その階段を神様の御使いたちが上ったり下ったりしているのです。すると神様がヤコブの傍らに立たれ、次のように言われたのでした。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしはあなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」と言われたのです。この励ましの言葉は、ヤコブが新しい世界に向けての旅立ちなのですが、大きな力になります。まず夢の中で、天に達する階段を神様の御使いたちが上り下りしている様を見せられます。神様の御心が地上に与えられている示しでした。そして、実際に神様の御声を聞くのです。「あなたたと共にいる」、「あなたを決して見捨てない」との約束の言葉は、今後のヤコブの原動力となるのです。
 大塚平安教会の聖壇は、このヤコブの階段を模倣して造られています。新共同訳聖書は「階段」としていますが、口語訳聖書は「はしご」と訳しています。階段であると、階段は斜めに上って行くわけですから、斜めの先ははるかかなたの天に達することになります。しかし、「はしご」であると、そこに立てられたはしごは、その位置で天に達するのです。その意味でも「はしご」と訳されている方が理解しやすいのです。大塚平安教会の40周年事業で礼拝堂の改修をしました。その時、聖壇も改修したのですが、聖壇の正面に「はしご」を立て、その中心に十字架を掲げています。そして、「はしご」の両端に6本ずつの柱を立てました。12本の柱は、聖書の12部族の民であり、主の12人のお弟子さんであります。さらに、この柱の意味はヨハネの黙示録3章12節に示されています。「勝利を得るものを、わたしの神の聖所における柱にしよう。そして、彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名とを、書きつけよう」との御言葉を示されて柱を立てたのでした。
 「はしご」は私達が永遠の命へと導かれる象徴です。「あなたと共にいる」、「あなたを決して見捨てない」とヤコブに約束した神様は、ヤコブを再び生まれ育った場所に導き、12人の子供達を与えます。さらに飢饉に陥ったときには、先に子供のヨセフをエジプトに遣わしておき、エジプトにおいてヤコブとその一族を救済するのです。ヤコブと共にいて、決して見捨てることはなかった神様は、その約束を主イエス・キリストにより私たちに与えてくださっているのです。神様は常に共におられて、私たちを永遠の命に至るまで、見捨てることなく導いてくださると言う約束をくださっているのです。

 今朝の新約聖書ヨハネによる福音書15章26節以下ですが、この部分は前週に続いてイエス様の決別説教として示されています。イエス様は、この後、十字架への道を進まれるのですが、お弟子さんたちを励まし強めるために、別れの説教を致します。お弟子さん達が「心を騒がせ、心配している」からです。今日の示しは、心配しているお弟子さん達に力が与えられる約束を与えています。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」とお話されています。このお話については、既に14章15節以下でも同じようにお話され、励ましているのです。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別に弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である」とお話されています。「弁護者」はギリシャ語ではパラクレートスという言葉です。本来、パラクレートスの意味は「傍らに呼ぶ」と言う意味です。「側に助けのために呼び寄せられて来ている者」の意味から、「力強い味方」、「同情をもって弁明してくれる人」、「弁護人」と言う意味になります。従って、パラクレートスは私の傍らにいて、私を執り成し、弁護してくれる存在なのです。それは「真理の霊」であると説明されています。パラクレートスはイエス様と思いますが、その通りですが、今、イエス様がおられる段階でパラクレートスが示されているのですから、別の存在になります。実際、今朝の聖書は、イエス様がパラクレートスをあなたがたに遣わすと約束しているのです。そうなるとイエス様ではなくなります。しかし、これはイエス様が昇天前に約束されたことであるのです。昇天から10日後、すなわちペンテコステの日に聖霊が降りますが、まさに真理の霊、弁護者でありました。そして、その聖霊は主イエス・キリストご自身であるのです。イエス様が昇天された後は、聖霊の時代になるのです。パラクレートスの時代になるのです。この時代は、パラクレートスがいつも傍らに、というより常に共におられて永遠の命への道を導いてくださるのです。これがお弟子さん達に与えられた主イエス・キリストのお約束です。
 次の日曜日、27日がペンテコステ聖霊降臨祭です。イエス様が昇天されたのは前週の17日です。昇天まではお弟子さん達にご復活の姿を現されていました。しかし、昇天後はイエス様の存在がなくなってしまうのです。ペンテコステ聖霊が降り、パラクレートスとしてのイエス様が共に歩んでお導きくださるのですが、今は空白の10日間と言うことになります。今朝の聖書の最後で、ヨハネによる福音書16章4節、「これらのことをは話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである」とイエス様が言われました。「その時が来たとき」と言うのは、イエス様の十字架の救いの時ですが、イエス様の昇天後の空白の10日間でもあるのです。イエス様もおられない、真理の霊もまだ来ない、そういう状況の中で、イエス様の約束を思い起こすことが示されているのです。
 今は空白の時です。しかし、主イエス・キリストは「あなたがたに弁護者を遣わす」と約束し、「真理の霊がイエス様を証しする」と約束されているのです。私達はこの約束を信じて歩むことです。パラクレートスは私たちを力強く導き、喜びと希望を持って歩む者へと導いてくれる、そういう約束を信じて歩むとき、明日への一歩を踏み出していけるのです。主イエス・キリストのお約束を信じて生きると言うことが私達の信仰なのです。私たちの信仰は、イエス様のお約束である永遠の生命へと導かれることです。今生きている現実の中で、永遠の命をいただく喜びを持って生きることが、私たちの信仰なのです。

 大塚平安教会時代の一人の信仰者を示されます。イエス様のお約束を信じて、永遠の命をしっかりと受け止めて歩まれたのです。伊藤和代さんと言う方ですが、2007年5月12日、62歳で天に召されました。伊藤和代さんは神様に召される日の近いことを知りつつ「教会の愛する人達へ」との手記を書いています。「いよいよ神さまのもとに帰る日が近づきました。今までの皆さまのお祈りとお支えを心から感謝する毎日です。病の最中でも、元気のよい日は、礼拝に出席し、皆様とお目にかかれ、とても嬉しかったです。あまり悲しまないでくださいね。私の命は神さまのものなのですから…。私のこの世での目的が達成させられ、一番ふさわしい時を、神さまが選んで、この日を迎えたのですから…。大塚平安教会の上に、神さまの平安がいつも豊かにあふれますように祈っています。アーメン」。
伊藤和代さんは1966年に洗礼を受けられ、その後1974年に大塚平安教会に転入会されました。 私が大塚平安教会に赴任したのは1979年であり、すでに教会員として歩まれていました。私が教会と幼稚園に赴任した頃、二番目のお子さん百合さん、三番目のお子さん信彦さんを幼稚園に入れ、そして伊藤和代さん自身は母の会会長をされましたので、お話をすることが多くありました。その後は婦人会の会計や心の友係り、財務委員などのご奉仕をされ、聖歌隊の賛美を共にしながらの信仰生活でした。伊藤和代さんが山梨に別荘を建てられたとき、落成のお祈りをささげるため、私もその山梨の別荘に伺いました。近くに白州というウイスキー工場があり、そこにあるレストランで食事をしたことが忘れられない思い出であります。これは個人的なことですが、伊藤和代さんの召天にいたる生涯を思うとき、常に神さまを仰ぎ見つつの歩みでした。従って、もうすぐ神さまのもとに召されるとき、心安らかに、ちょっと行って来ますというような調子であったと思います。「私の命は神さまのものですから」と言われ、「一番ふさわしい時を、神さまが選んで、この日を迎えたのですから」と言いつつ召されて行ったのでした。キリスト教の死生観をそのまま証しされていたと思います。
私たちも主イエス・キリストのお約束が与えられています。神様が私に永遠の命を与えるために、独り子を世にお与えになったのです。悲しいときには、悲しみを受け止めて生きましょう。苦しみがあるときには、その苦しみを受け止めて生きましょう。現実から逃げることが原罪に走ることなのです。この現実を真正面から受止めるとき、主イエス・キリストのお約束、弁護者をくださり、真理の霊をくださり、現実を生きることができるように導いてくださっていることを示されるのです。「わたしはあなたと共にいる」、「わたしはあなたを決して見捨てない」と神様は約束してくださっています。
イエス・キリストのご昇天後の空白の10日間は、まさに不安の日々です。しかし、不安の日々を歩む私たちに約束を与えてくださったのです。私には主イエス・キリストがくださる弁護者がいると言うこと、そして真理の霊が私をお導きくださっているということ、そのお約束により勇気を持って歩むことを示されたのであります。
【祈祷】聖なる御神様。私たちに希望へと導くお約束をくださり感謝致します。永遠の生命にいたるまで、神様のお約束をいただきながら、現実を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン。