説教「聖霊の導き」

2012年5月27日、六浦谷間の集会
聖霊降臨祭」(ペンテコステ

説教、「聖霊の導き」 鈴木伸治牧師
聖書、出エジプト記4章10-17節
   使徒言行録2章1-13節
   ヨハネによる福音書14章25-31節
賛美、(説教前)讃美歌(54年版)・181「みたまよ、くだりて」
   (説教後)讃美歌(54年版)・500「みたまなるきよきかみ」


 今朝は聖霊降臨祭、ペンテコステであります。毎年、この時期になると復活祭、昇天日、聖霊降臨祭を迎え、聖書の示しにより神様の御心をいただいています。しかし、今年は数字上のことでありますが、何か意義ある聖霊降臨祭のように思えるのです。5月は10日に私の誕生日を迎えました。73歳になっています。このことから、私が伝道者へと導かれ、神学校に入ったのは23歳の時でした。神学生はまだ伝道者とは言えませんが、しかし、もはやその道に進むのですから、私の伝道者への基点は神学校入学の時としています。そうすると73歳になった現在、その基点から50年を経ているのです。今は、身分的には隠退教師ですが、隠退して何もしていないと言うのではなく、毎週の日曜日には六浦谷間の集会として礼拝をささげていますし、第二日曜日には横須賀上町教会の礼拝説教及び聖餐式を司っています。隠退してもなお、御言葉に向かいつつ歩んでいるのです。そういう意味でも現在も伝道者であり、基点からの現在の年数を数えても良いと思うのです。まさに50年間、御言葉に向かい、聖書を通して神様の御心を求め、メッセージをいただいて人々に取り次いでまいりました。あえて50の数字にこだわっているのは、今朝はペンテコステ、五旬祭の日であるからです。ペンテコステは50と言う意味なのです。
 五旬祭の日が本日でありますが、その基点は過ぎ越しの祭りであります。過ぎ越しの祭りは、聖書の人々がエジプトで奴隷として生きること400年ですが、その苦しみを神様はモーセを立てて救い出されたのです。救い出されたことを記念して過ぎ越しの祭りをお祝いするようになっています。そのいきさつは割愛しますが、出エジプト記によりその救いの出来事が示されています。過ぎ越しの祭りを基点として50日目、ギリシャ語で言えばペンテコステと言いますが、この日に聖霊が与えられたのです。これはユダヤ教の暦になりますが、キリスト教はこの暦と並行して導かれているのです。すなわち、過ぎ越しの祭り、聖書の人々が救いの喜びをいただいているときに、主イエス・キリストの十字架の救いが与えられたのです。そして、五旬祭ユダヤ教では、モーセシナイ山で神様から十戒を与えられた日としています。すなわち、神様から御心を与えられた日とし、神様の御心に従って歩むことを示されるのです。キリスト教では聖霊降臨祭です。聖霊が人々に降り、人々を新しい歩みへと導くのであります。聖霊は神様の御心であり、神様の力であるのです。救いの十字架を基点として50日後、今や聖霊の導きの時代です。
 私自身、50と言う数字にこだわりながら、隠退してもなお御言葉に向かいつつ歩みたいと願っています。今は、特に主日礼拝の備えをしていますが、それと共に、今まで御言葉を示され、説教を取り次いできたのですが、残されている説教を製本して、さらに皆さんにお示しし、主の宣教を深める作業をしているところであります。これも聖霊の導きと信じています。

 私の御言葉に向かう姿勢は、まず旧約聖書から神様の普遍的示しをいただき、そして新約聖書において、主イエス・キリストが神様の普遍的示しを実証し、その導きをいただくのです。新約聖書の書簡は、イエス様の導きを証しするものです。そのような御言葉に向かう姿勢ですが、今朝は聖霊降臨祭でありますから、聖霊をいただく示しを与えられたいのです。
今朝の使徒言行録により示されます。使徒言行録2章1節以下はお弟子さん達に聖霊が降った状況が示されています。
 「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と記されています。聖霊が降った証しです。この使徒言行録は1章6節以下で、主イエス・キリストが天に昇られたことが記されています。そして、その後は、イエス様の示しにより常に祈りを合わせていたのです。聖霊が降ったのは五旬祭の日でありました。聖霊は「激しい風のような」、「炎のような舌」と示されています。これはそのようにたとえているのでありまして、「〜のような」としています。聖霊が風であることはエゼキエル書において示されました。風、ルアッハが枯れた骨に吹き込まれます。ルアッハは「神様の息、霊」であり、風とも訳されます。散らばっていた骨が相つらなり、筋ができ、皮で覆われ、生きた者へと導かれたのでした。死んだように力をなくしている人々に神さまのルアッハが与えられ、力を得るのです。立ち上がることができたのです。この使徒言行録においても、力をなくしているお弟子さん達にルアッハが与えられたのです。「激しい風のような音」を聞いたのです。聞いたばかりでなく、一人ひとりに聖霊が降ったということです。
 そして、炎のような舌が弟子達の上に留まりました。舌、べろは味わう部分です。それと共に舌は言葉を作る部分であります。炎のような舌が留まるとは、力強い神さまのお言葉がお弟子さん達に与えられたことを示しているのです。それはまた、主イエス・キリストのお心であり、お導きなのであります。イエス様はこの聖霊を弁護者と言われ、真理の霊とも言われました。イエス様御自身が私たちの弁護者となり、真理の霊を与えてくださるのです。お弟子さん達は聖霊をいただき、もはや家の中に引きこもっていませんでした。五旬祭でにぎわう人々の中に出て行きました。聖霊の導きであり、力が働いて、今まで考えも及ばない歩みが始まったのであります。
 「すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」と証しされています。聖書の民、ユダヤ人は歴史を通して各地に散らされた民族でした。離散の民、ディアスポラと称しています。その散らされた人々が祭りになると故郷へ帰ってくるのです。旧約聖書詩編の中には「都もうでの歌」というものがあります。遠くから都に集まってくるのでありますが、道々何があるか分かりません。不安を持ち、危険をおかしながらも都に帰って来るのは、祭りを共に喜び、神様の救いの喜びを分かち合いたいからであります。こうして外国に住むうちに言葉も外国語になっているのです。ところが、自分の国の言葉で「神さまの偉大な業を語っているのを聞こうとは」と驚きつつお弟子さん達の証しに耳を傾けたのです。聖霊の導きは人と人とを分かり合わせるのです。言葉が異なっても、聖霊の導きにより、出会いが与えられるのです。このことは、聖霊をいただいて語り合うとき、言葉と心が通じ合うことを示しているのであります。聖霊は人と人とを結びつけるのであり、一つの心へと導かれるのです。
 今朝の旧約聖書モーセの召命です。エジプトの国で奴隷として苦しんでいる人々を救い出すため、神様はモーセを選びました。その使命を神様がモーセに与えているのが今朝の聖書です。ところが、モーセは躊躇して、なかなか神様の言うことを聞かない姿を今朝は示しています。モーセの召命は出エジプト記3章に記されています。神様はモーセに、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫びを聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地へ彼らを導き上る。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」と使命を与えています。その時、モーセは神様を奴隷の人々に、どのように紹介したら良いのかと尋ねます。神様は、「わたしはある、わたしはあるという者だ」と答え、共におられ神様であることを示しています。それでもモーセは躊躇するのです。モーセは逆らって、「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」と言うのでした。そのように躊躇するモーセに、神様の導きの業を示して励ましています。
 このように躊躇するモーセですが、そこで今朝の聖書になるのですが、まだモーセは躊躇しているのです。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重いものなのです」と逃げているのです。すると、出エジプト記4章14節に記されるように、「主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた」のであります。神様はモーセが口が重ければ、モーセの兄弟アロンが言葉を伝えるので、モーセは神様の存在を示す者になりなさいと導くのです。モーセの使命を導くのは神様であり、モーセの力ではないということを示しています。すべては神様の導きなのであり、その導きに委ねなさいと示し、諭しているのです。これにより、モーセは奴隷の人々を解放するのは、自分の働きではなく、神様の導きであることを知り、神様のお導きに委ねたのでした。
 このモーセの姿は私たちと重なるのではないでしょうか。神様の御心を示されながら、いろいろと口実をつけては御心に従わない姿が私たちにもあるのです。

新約聖書ヨハネによる福音書14章15節以下が示されています。ここでは主イエス・キリストが弟子達に聖霊を与える約束をしています。ヨハネによる福音書は14章から16章まではイエス様のお弟子さん達への決別説教であることは示されています。決別説教では、イエス様はやがて天に昇られることを示しながら、残されるお弟子さん達を繰り返し励まされておられるのです。その約束が聖霊を与えるというものでした。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることはできない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたのうちにいるからである」と示しているのであります。
このことは前週の御言葉でも示されています。「弁護者」、「真理の霊」があなたがたに神様が与えてくださると約束されているのです。前週も示されましたように、弁護者、真理の霊はギリシャ語でパラクレートスであるということです。本来、パラクレートスの意味は「傍らに呼ぶ」と言う意味です。「側に助けのために呼び寄せられて来ている者」の意味から、「力強い味方」、「同情をもって弁明してくれる人」、「弁護人」と言う意味になります。従って、パラクレートスは私の傍らにいて、私を執り成し、弁護してくれる存在なのです。それは「真理の霊」であると説明されています。
先ほども聖霊降臨の状況を示されました。主イエス・キリストが十字架にかけられ、死んで葬られますが復活されました。それでお弟子さん達は力を得て、喜ぶのです。しかし、40日後にはイエス様が昇天されますので、お弟子さん達は再び力を弱くしてしまいます。お弟子さん達は、イエス様が最後の晩餐をされた二階の部屋に集まり、祈りつつ過ごしていたのです。その彼らに聖霊が降ったのでした。約束のパラクレートスです。彼らを弁護する存在、彼らを導く真理の霊が彼らに与えられたのです。彼らは、もはや家の中にいるのではなく、立ちあがり外へと出て行ったのです。そして、主イエス・キリストの十字架の救いを人々に証しする者へと導かれたのでした。

 聖霊をいただいて生きるということ、この社会を力強く歩むことです。しかし、この人生、心配や不安はつきものです。信じて歩みつつも、「もしものことがあるかもしれない」との思いを持っているのです。以前にも紹介したのですが、新聞のコラム欄にLifeについて記していました。書いている人も、ある人の言葉として引用しているのです。Lifeは人生、生活という意味になりますが、日本語でも人生とか生活といえば、人間が活力を持って生きることになります。ところが、Lifeのスペルの中に「if」が含まれているというのです。「もしかしたら」という不安、「もしも」という恐れを持ちつつLife生命があることを意味しているのであります。まさに確信を持ちながらも、「もしかしたら」の思いがあることは事実です。
この時、今朝の聖霊降臨を深くいただきましょう。聖霊をいただいている者として、もはや自分の弱さを嘆くことは辞めましょう。聖霊を悲しませることであります。聖霊をいただいている者として、新しい一歩を踏み出しましょう。躊躇することは聖霊を悲しませることであります。聖霊は私の思いではなく、神様の御心を与えてくださるのです。自分の思いでは決断ができません。しかし、神様の御心が与えられる時、決断ができるのです。私の人生は聖霊の導きがありますから、いろいろな苦難や諸問題がありますが、聖霊が私の歩みを支えてくださるのです。もはや悲しみは消えなければなりません。聖霊が悲しみを乗り越えさせてくれるのです。人間関係で苦しむ必要はありません。聖霊が十字架の救いへと導いてくれるのです。「if」を超える私たちの歩みへと導かれているのです。聖霊は私を立ち上がられてくださり、新しい私へと創造してくださるのです。聖霊の導きに委ねて歩むことを示されました。
<祈祷>
聖なる御神様。聖霊のお導きを感謝致します。常に持っている不安を超えて、力強く歩ませてください。主イエス・キリストの御名によりおささげいたします。アーメン。