説教「新たに生まれる」

2012年6月3日、六浦谷間の集会
「三位一体祭」

説教、「新たに生まれる」 鈴木伸治牧師
聖書、エゼキエル書37章11-14節
   ローマの信徒への手紙12章9-21節
   ヨハネによる福音書3章1-15節
賛美、(説教前)讃美歌(54年版)・66「聖なる、聖なる」
   (説教後)讃美歌(54年版)・239「さまよう人々」


 今朝は「三位一体祭」としての礼拝です。三位一体とは、私達が信じている神様は、父なる神・子なるイエス・キリスト・助け主なる聖霊であり、神様が三人いるというのではなく、三様に言いあらわせる神様であるということです。旧約聖書の時代は紀元前の世界ですが、神様が直接人々に関わり、導いておられました。そのために「神の人」、「預言者」が立てられて神様の御心を示し、人々を導いたのであります。そういう中で、救い主=メシアが現実に現れて、人々を平和に導くことが待望されるようになりました。その待望の中に出現したのが新約聖書の時代であり、主イエス・キリストでありました。人々は、メシアはこの世の王様のように力と権力があり、人々を平和に導いてくださると信じていました。しかし、主イエス・キリストの救いは、人々の心にある救いとは異なり、人々を根本的に救済するものでした。人々はこの主イエス・キリストを十字架にかけ、捨てたことになります。自分達の思いとは異なるからです。十字架の救いは、人間の思いを満足するものではなく、人間が自分の思いを捨てて十字架の救いへと導かれたのであります。その主イエス・キリストが昇天された後は聖霊の時代になるのです。イエス様も約束されたように、聖霊=パラクレートスが人々を導いてくださるのです。聖霊は私たちの助け主、弁護者として導いてくださるのです。聖霊はまた、ルアッハでもあります。神様の霊であり、息であり、風でもあるのです。神様の息をいただいて、人間は初めて人として生きるのです。唯一絶対なる神様、救い主なる主イエス・キリスト、助け主なる聖霊は一人の神様であり、私たちはその三位一体の神様により導かれているのです。前週は聖霊降臨祭であり、今朝は私達の神様が三位一体であられることを示される礼拝なのです。
 こうして「三位一体」と言う表現はキリスト教の根本を示しています。ところが、この「三位一体」と言う言葉を、人間の取組みとして用いたのが日本の政治でした。政治の世界で「三位一体改革」が言われ始めたのは、小泉首相が2002年6月の経済財政諮問会議で「国庫補助負担金、地方交付税、税源の移譲を含む税源配分のあり方を三位一体で検討するとしてからです。これ以降、国と地方の財政関係の改革は三位一体改革と呼ばれ、新聞紙上等で広く使われるようになりました。「三位一体の改革」とは、「地方にできることは地方に」という理念の下、国の関与を縮小し、地方の権限・責任を拡大して、地方分権を一層推進することを目指し、国庫補助負担金改革、税源移譲、地方交付税の見直しの3つを一体として行う改革です。政治の世界で三位一体と言ったのは、政治を分権し、それぞれの使命を推進するということでした。しかし、本来の三位一体は「分ける」のではなく、「一つ」の姿になったということなのです。現し方は異なっても、根本的に唯一なる神様であることなのです。政治の世界で「三位一体」と言う言葉を使ったので、社会においても、何かとこの言葉が使われるようになりました。この言葉を使いながらも、この言葉がキリスト教の根本を示す言葉であることを知らない人もいるのです。
 私たちは、神様のお導きをいただいていますが、ある時には主イエス・キリストの十字架のお導きをいただき、ある時には聖霊の力強いお導きをいただくのです。まさに三位一体の神様のお導きなのです。今朝は私たちの信仰の根源は三位一体の神様であることを、深く示されるのであります。

 旧約聖書はエゼキエルの預言を通して、神様の導きを示されています。エゼキエル書37章は「枯れた骨の復活」として記されています。エゼキエルは幻のうちに、ある谷の真ん中に降ろされます。谷間には多くの人間の骨が散らばっています。しかも、甚だしく枯れていたのです。触れば崩れてしまうほどもろくなっているのです。神様はこれらの枯れた骨に預言しなさいと言われます。言われた通り、「わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった」のであります。その時、神様の御言葉が与えられます。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来たれ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生きる」と言われます。エゼキエルは言われるままに預言しますと、霊が彼らの中に入り、生き返って自分の足で立ったのであります。
 このエゼキエルの預言を理解するために、私たちは改めて創世記2章の人間創造の記録を読まなければなりません。創世記は宇宙万物を神様が造られたことが記されていますが、人間も神様によって創造されたことが記されています。神様は土の塵で人を形づくりました。そして、その鼻に「命の息」を吹きいれられました。「人はこうして生きる者になった」と示しています。「命の息」は聖書の言葉でルアッハです。ルアッハはその他「霊、風」とも訳されます。つまり、エゼキエルが預言して、霊が枯れた骨に風のように吹き付けたのは、この「命の息」であったのです。神様が人の形を造っただけでは人間ではなく、「命の息」をいただいて「生きる者になった」のです。エゼキエル書の場合も、エゼキエルが預言するとカタカタと音を立てて人間の形になるのですが、それらの形に霊が吹きつけられて「生きる者になった」のです。
 これが今朝の聖書の前の部分、37章1節から10節までの示しです。そこで今朝の聖書になりますが、神様は預言の意味を示されました。「これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる」と示されています。「お前たち」とはバビロンの空の下に生きる人々です。聖書の国、ユダの人々はバビロンに滅ぼされ、多くの人々が捕われてバビロンにつれて来られ、いわば奴隷として生きていたのです。希望を無くし、力もなく、ただ生きている彼らでした。死んで、もはや枯れた骨のようになっている人々に「命の息」、ルアッハが吹きまくると示しているのです。そして、捕われから解放されてイスラエルの故郷へと連れ戻すと示しているのです。
 希望を無くしている人々にとって、このエゼキエルの言葉は大きな力になりました。神様の「命の息」が与えられているという喜びです。死んだような自分が、「生きた者となる」のです。自分は生きているのである。もはや今までの自分ではない。新しい人間である。このように導かれたのであります。神様がルアッハを送ってくださり、力強い導きをいただいたのでした。

 創世記に示されるルアッハの導きは人間の根本的な姿なのです。この普遍的な人間の姿に導いておられるのが主イエス・キリストであります。新約聖書ヨハネによる福音書3章に示されるイエス様とニコデモとの対話により、新しい人間を示しています。
 主イエス・キリストは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と示しています。イエス様がニコデモさんに言われた言葉です。ニコデモさんはユダヤ人の議員でありますから、社会的にも指導的な人でした。それで、人々が喜んでイエス様のお話しを聞いているので、自分もイエス様と話したいとの思いをもっていました。しかし、昼間、人々の前でイエス様とお話するには気後れがありました。指導者達はイエス様を批判していたからであります。そのため、夜になってイエス様を訪ねたのです。ニコデモさんは言います。「ラビ(先生)、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」と言いました。それに対してイエス様が言われたのが、新しく生まれるということでした。ニコデモさんはイエス様の言われていることが理解できず、「もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と言うのでした。そこで、イエス様はさらに言われました。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と示されています。「水と霊」と言われていますが、明らかに洗礼であります。救いを信じて水で清められますが、霊の洗礼によって生まれるということです。この霊はエゼキエル書で示された「命の息」「ルアッハ」であります。命の息をいただき、生きた者へと導かれるということなのです。「水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」のであります。
 ここで整理しておきたいのは、聖書は「新しく生まれる」ことを示しているのですが、新しく生まれるのは「神の国」に生きるためなのです。まず、ニコデモさんが「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできません」と言いました。それに対して、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」とイエス様は言われています。ここでイエス様は「神の国」を見ることを示しているのですが、ニコデモさんがイエス様の業を「神の国」と見ていることを肯定しています。しかし、ニコデモさんが「新しく生まれることは、もう一度母の胎から生まれること」と理解したので、「水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と言われたのです。ニコデモさんはイエス様によって「神の国」を見たのです。その「神の国」に入るには「新しく生まれる」ことですが、人間的に新しく生まれるのではなく、ルアッハによって新しく生まれることを示しているのです。従って、今朝の主題は「新たに生まれる」としていますが、「神の国に入る」ことが主題なのです。三位一体の神様からルアッハをいただき、新しく生きる者となり、神の国に入るということなのです。
ヨハネによる福音書が「神の国」として示すのは、今朝の聖書の二箇所だけです。それに対してマタイ、マルコ、ルカによる福音書は、神の国についてのイエス様の教えが多く示されています。もっともマタイによる福音書は「天の国」であります。むしろ、ヨハネは「永遠の生命」を示しているのです。今朝の聖書の後、3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と示しています。さらに、6章40節「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」と示しています。ヨハネによる福音書のイエス様の示しは、私たちが永遠の生命に導かれることなのであります。
15節「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」と示されて今朝の聖書はしめくくられています。「それは」というのは、前の14節で「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」ことの意味です。「モーセが荒れ野で蛇を上げた」というのは、民数記21章4節以下に記されていることです。奴隷の国、エジプトから脱出して荒れ野をさまようとき、聖書の人々は神様の導きと恵みを忘れて常につぶやいていました。そのとき、神様は蛇によりつぶやく人々に審判を与えました。人々はモーセに許しを求めます。モーセは旗竿の先に青銅の蛇を掲げました。人々が蛇にかまれても、旗竿の蛇を仰ぎ見ると命を得たのであります。その出来事は主イエス・キリストの十字架の救いと重なるのです。イエス様は十字架に上げられました。私たちは十字架を仰ぎ見るのです。イエス様の十字架の死と共に、私の中にある罪の姿が滅ぼされたと信じるのです。永遠の生命が与えられるのです。

 このイエス様とニコデモさんとの対話により、新しく生まれることがしめされるのですが、この聖書を開くたびに大塚平安教会の伊藤雪子さんのお証を示されています。今日も再び伊藤雪子さんのお証を示されたいのです。
 「私は1915年生まれで、今年10月には83歳になります。私の人生の転機について書きたいと思います。それは今から5年位前のことですが、生まれて初めて教会を訪ねた時のことです。イエス様は、そんな私をそれはそれは長い77年もの間、ずつと待っていて下さったということを知りました。私は自分の希望で教会を訪ね、礼拝に出席しましたが、それは今から考えると私の意志ではない、もっと大きな別の力が働いたのだと思います。それは神様が77年も前から準備してくださり、イエス様のお恵みに導かれたということでした。神様のお心を知るようになってから、私は何だか生まれ変ったような気がしています。でも、どんな年齢になっても神様のお心をいただいて生きていくことは、今までとは違った別の人生が導かれるのではないかということでした。神様のお心を頂き、新しく生まれる人へ皆様と共に導かれ、力強く歩んで行くことができますようお祈り致します。」
 77歳になって新しく生まれる導きをいただいた伊藤雪子さんは、永遠の命に生きる者へと導かれたのでした。ルアッハをいただき、パラクレートスに導かれたのでした。
<祈祷>
聖なる神様。ルアッハをくださり、新しく生きる者へとお導きくださり感謝致します。この世に生きる人々は皆、新しく生きる導きを与えてください。主の名によって、アーメン。