説教「永遠の命をいただく」

2022年5月29日、三崎教会

「復活節第7主日

                      

説教・「永遠の命をいただく」、鈴木伸治牧師

聖書・イザヤ書45章1-7節

   エフェソの信徒への手紙1章15-23節

   ヨハネによる福音書17章1-13節

賛美・(説教前)讃美歌21・336「主の昇天こそ」

   (説教後)讃美歌21・493「いつくしみ深い」

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  今朝は主イエス・キリストのご昇天を示されます。主イエス・キリストは十字架による救いの御業を完成され、天に昇られました。そして、私達を神様におとりなしくださっているのであります。私たちが「新しい力」を与えられ、永遠の命へと導かれるためであります。

 イエス様が十字架にかけられ、死んで葬られ、三日目にご復活なさるのは、今年は4月17日でありました。復活されたイエス様は40日間、お弟子さん達をはじめ、多くの人々に復活のお姿をお示しになられたのであります。そして、今年の暦では40日後の5月26日にご昇天になられました。イエス様のご昇天についての聖書をルカによる福音書24章49節以下により示されましょう。「『わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。』イエスは、そこから彼らをベタニアのあたりまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」と証しされています。

 イエス様は天に昇られるにあたり、この後に聖霊が降り、あなたがたに力が与えられることを示しておられるのであります。その力の聖霊が降るのはイエス様の昇天後すぐではありません。昇天から10日後になります。今年は6月5日がペンテコステ聖霊降臨日であります。従って昇天後の10日間は、まだ聖霊が降らず、ご復活のイエス様もおられません。空白の10日間なのであります。使徒言行録によれば、お弟子さん達はエルサレムの泊まっていた家の二階の部屋に上がり、心を合わせて祈っていたのであります。空白の10日間こそ祈りを合わせることであると聖書は示しているのであります。

 今朝の聖書イザヤ書は大国バビロンに滅ぼされた南ユダの人々が、囚われの身となり、バビロンに生きている状況であります。そのような中でメシア待望、救い主の出現を待望していますが、それは人々にとって同じ民族から現れる存在でありました。しかし、神様は人々の思いもよらない救いの道を示されているのであります。イザヤ書45章1節以下、「主が油注がれた人キュロスについて、主はこう言われる。わたしは彼の右の手を固く取り、国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。」と示しています。「主が油注がれた人キュロス」はペルシャの王様であります。バビロンが衰退していくとき、ペルシャの王様キュロスがバビロンを滅ぼし、キュロスによって囚われの身、捕囚が解放されるのであります。まさにキュロスはメシアとなりました。メシアとは「油注がれた者」であります。人々の指導者になるとき、その人には油が注がれるのであります。油注がれた者は、神様のお心をいただきつつ、人々を導くのであります。従って、メシアは救いをもたらす者でありますから、メシアすなわち「救い主」ということになります。今、この旧約聖書は外国の王様を通して救いを与えておられるのであります。もはや人々が身近な救いにしか希望を持つのではなく、神様の大きな救いを示されているのであります。自分たちの民族の誰かがメシアになって、我々を救ってくれるという小さな望みから、神様は世界的規模で救いを与えてくださることを知るようになるのです。

 「日の昇るところから日の沈むところまで、人々は知るようになる。わたしのほかは、むなしいものだ」(イザヤ書45章6-7節)と示されています。天におられる神様こそ、私達を救い、導き、平和を与えてくださるお方であることを人々は知るようになるのです。

 主イエス・キリストは昇天されました。今は天におられて新しい救いの導きをお与えになるのであります。それが聖霊降臨日であります。今は空白の10日間でありますが、天におられる主イエス・キリストに心を向けるときなのであります。

 ヨハネによる福音書17章は主イエス・キリストのお祈りであります。14章から16章まで、イエス様はお弟子さん達に決別説教をいたしました。そしてその後は神様にお祈りをささげているのであります。十字架の道を歩み、死んで葬られ、三日目に復活されます。そして40日間、ご復活を証されますが、天に昇られるのです。いわば弟子たちを残していくにあたり、神様にお願いをしているのであります。「父よ、時が来ました」とお祈りを始めています。「時」とは十字架による救いの時であります。そして、その後の昇天をも示しているのです。イエス様は何をお祈りしているのでしょう。2節「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです」とお祈りされています。イエス様の十字架の救いと昇天は、私達に永遠の命を与えるためなのであります。永遠の生命、それは私達が死んで彼方の国に迎えられることでありますが、イエス様は、この現実において永遠の生命に生きていることを示されているのであります。それは神の国を生きるということであります。イエス様の教えを示されて生きること、それが神の国を生きるということであります。神の国を生きているのでありますから、今の私の状況がどのようなものであれ、体に痛みを持っています、人間関係の問題があります、しかし私は神の国に生きているのですから、喜びへと導かれるのです。その喜びは永遠の命への道なのです。ヨハネによる福音書3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と示されています。ヨハネによる福音書は特に「永遠の命を得る」ことを繰り返し示しているのであります。永遠の命をいただく信仰が「新しい力」の原点なのです。

そして、お祈りで示される第二のことは、11節「わたしは、もはや世にいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください」と祈られているのであります。アブラハムのとりなしの祈りを示されますが、主イエス・キリストが私達をおとりなしくださっているお祈りであります。「御名によって彼らを守ってください」とイエス様はこの私のためにお祈りくださっているのであります。神様のお名前によって、わたしが守られているということであります。

そして13節「今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ち溢れるようになるためであります」とお祈りされています。イエス様の昇天は、私達に永遠の命を与えるため、神様のお守りが与えられるため、イエス様の喜びが私達の内に満ち溢れるためなのであります。新しい力を与えることなのです。イエス様の喜びが私達の内に満ち溢れている、自ずと体の外に現れてくるのであります。イエス様の栄光が私達にも現れるということであります。イエス様を信じる人々からイエス様の栄光が輝いているのであります。イエス様の十字架の救いを与えられた者は、そのまま神の国を生きる者であります。この世に生きている今、すでに永遠の命を与えられて生きているのでありますから、喜びの歩みへと導かれているのです。

 「永遠の命」と言われますと、やはり彼方の国、天国を思います。死んでから彼方の国、天国へと導かれることとして示されています。そうすると今のこの世の国と彼方の国との、なんか堺のようなものを感じてしまいます。仏教的に示されると三途の川を渡るとか、どこかを超えていくような思いになります。そのような思いがあるものですから、永遠の命と言われても、なんかもやもやしていると言われるのであります。改めましてキリスト教の死生観を示されたいと思います。すなわち、人間の死ということですが、仏教的に示されるならば、この世の生が終わったので、文章で言えば句点「。」を付けます。そして、次の文章へと続くのです。次の文章が永遠の命なのです。従って、今までの文章とその後の文章はつながってはいないのです。それに対して、キリスト教は、この世の生が終わったとき、文章で示せば、そこで句点ではなく、読み点「、」をつけるのです。文章はまだ続くのです。続く文章が永遠の命なのです。文章はこの世の生と永遠の命がつながっているということです。従って、今の現実が天国であるということです。天国は改まって行くところではありません。もうすでに天国に生きているのです。イエス・キリストのご昇天は、イエス様がこの世にご不在であるかのようですが、ご不在であっても、私達が天国に導かれていることを示しているのです。実際、今、私達は神の国、天国を生きているのであります。

<祈祷>

聖なる御神様。新しい力をくださり感謝致します。神の国に生きる喜びを持って歩ませてください。イエス・キリストの御名によって、アーメン。

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