2023年2月19日、六浦谷間の集会

降誕節第9主日

                      

説教・「日毎の導きを与えられ」鈴木伸治牧師

聖書・イザヤ書41章8-16節

   使徒言行録28章1-6節

   ルカによる福音書9章10-17節

賛美・(説教前)讃美歌21・288「恵みにかがやき」

   (説教後)讃美歌21・459「飼い主わが主よ」

 

降誕節の歩みをしておりますが、今週の水曜日2月22日は「灰の水曜日」であり、受難節が始まります。今朝は降誕節最後の日曜日であり、イエス様のお働きを示されるのであります。 

 イエス様の「教え」、「いやし」を復習しておきましょう。「教え」については「種蒔きのたとえ」をもって示されました。種を蒔かれる、御言葉を示される私達でありますが、「善い心で御言葉を聞く」ことを教えられました。ただ蒔かれるということではなく、積極的に御言葉が与えられることを求めるということでした。そして、御言葉を「よく守り」と示されるように、努力して御言葉を守りつつ歩むのであります。さらに、「忍耐して」御言葉による人生を生きるのであります。御言葉を蒔かれても、マタイやマルコが示す「悟り、受け入れ」ても、生活の上で、社会の人間関係においての戦いがあります。ルカによる福音書は、御言葉に対する取り組みを示しているのであります。従って、たとえの説明の中では、「実を結ぶ」と言っているのであり、百倍とか30倍、60倍とは言いません。それぞれの姿において「実を結ぶ」のであります。その人の信仰の人生において実を結ぶことが導かれるのであります。

 イエス様の癒しについては前週示されました。イエス様にお願いして病気をいやしていただく時、そこに十字架の信仰が無ければなりません。十字架によって罪が赦された喜びが、癒しを導くのであります。ただ、病気をいやしてくださいと願うのではなく、十字架の赦しをまずいただくことです。そこには神の国に生きる喜び、永遠の神の国に導かれる喜びが一本の線で結ばれ、希望となって行くのであります。この病気を癒してくださいとお祈りしても、神様は聞いてくれなかったと言い続けるのでしょうか。人間は永遠に死なないで生き続けるのではありません。病気が治ったとしても、いずれは死んでいくのであります。癒しを求めたならば、罪の赦しをいただき、永遠の神の国に生きる喜びを与えられることなのです。そこに力が与えられるのです。ルカによる福音書は「今日、驚くべきことを見た」と人々の言葉を記しています。今日、今、神様の救いを見たということであります。イエス様の「いやし」はまず救いが与えられることなのであります。

 そして、今朝はイエス様の奇跡を示されます。病気の人が癒され、体に痛みのある人が治るということも奇跡でありました。さらにイエス様は人々にとって驚くべき、不思議な奇跡を行われています。その奇跡の意味を示されたいのであります。

 今朝の旧約聖書の示しはイザヤ書41章8節からであります。人々はバビロンに捕われて、異国の空の下で苦しみつつ過ごしているのであります。そもそも聖書の人々がバビロンに滅ぼされたのは何故か。それは人々の不信仰であります。神様の御心に従わなかった審判でもありました。大国エジプトに助けを求め、アッシリアに心を寄せたりしていたのであります。預言者達は人の心ではなく神様の御心に従うよう示すのでありますが、御心を求めることなく、人間の力により頼んだのでありました。こうして神様から見捨てられたようにバビロンに捕われの身になりました。しかし、そのような弱い人々に対し、神様は再び御手を差し伸べておられるのです。

 「わたしはあなたを固くとらえ、地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕、わたしはあなたを選び、決して見捨てない」とイザヤは神様の御心を示しているのであります。この言葉は聖書における神様の人間に対するメッセージでもあります。神様は最初にアブラハムを選び、神様の示す地へと導かれました。「あなたの子孫を天の星のようにする。豊かな大地を与える」との約束を信じて故郷を後にしたアブラハムでした。しかし、現実にはイサクという一人の子であり、土地と言えば妻サラの墓地でしかありませんでした。それでもアブラハムは神様を信じて生きたのであります。その後、イサク、ヤコブと続いて行きますが、「わたしはあなたを選び、決して見捨てない」とは神様の御心でありました。聖書の人々が400年間、エジプトで奴隷として生きるのでありますが、モーセを通して救い出します。それも困難な戦いがあってようやくエジプトを脱出するのであります。モーセの後を継いだヨシュアにしても、約束の土地、乳と蜜の流れる土地に定着するまで、やはり困難な歩みでありました。しかし、神様は「わたしはあなたを選び、決して見捨てない」と励ましながら、導いたのであります。聖書の人々がいつも神様を忘れ、見捨てているのでありますが、神様は決して見捨てません。バビロンに滅ぼされ、捕囚としてバビロンにつれて来られ、苦しく生きることになったのは、人々が神様に従おうとしなかったからであり、むしろ神様の審判として捕われの身になったのであります。その時、神様は再び人々を導くのであります。「わたしはあなたを選び、決して見捨てない」と示すのであります。

 新約聖書ルカによる福音書9章10節から17節が今朝の示しであります。主イエス・キリストの奇跡が示されています。私たちは聖書を読むとき、旧約聖書にしても新約聖書にしても、誠に不思議な奇跡物語を示されます。神様の御業として示されるのであります。

今朝はイエス様が「五千人に食べ物を与える」ことが示されています。イエス様のお話、神のみ国についてのお話を聞いている人々であります。また、ここでは治療の必要な人々を癒しておられました。ところが、日が傾きかけたので、お弟子さん達は「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。私たちはこんな人里離れたところにいるのです」とイエス様に言うのでした。するとイエス様は、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われました。そんなことを言われてもとお弟子さん達は思います。「わたしたちはパン五つと魚二匹しかありません。このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」と言うのです。「あなたがたの手で食べ物を与えなさい」と言われても、そんなことができるはずがないと思っています。「わたしたちはこんな人里離れた所にいる」のであり、「パン五つと魚二匹しかない」とお弟子さん達は思っています。しかし、反省しなければなりません。この9章のはじめのところで、お弟子さん達はイエス様から病気をいやす力と権能を授けられているのです。そして町や村を周り、実際に病人をいやし、神の国を力強く教えたのであります。そのような力を与えられて、その報告をしたばかりなのです。「こんなところ」であり、「これしかない」と言うお弟子さん達の考え方なのです。

 イエス様はそこにいる五千人の人々を座らせ、「これしかない」と言った弟子たちに対して、五つのパンと魚二匹を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡して人々に配らせたのであります。「パン五つしかない」と言ったことに対して「パン五つもある」とイエス様は示されているのであります。また、「こんなところ」とお弟子さん達はイエス様に言いましたが、こんなところではなく、祝福のところでありました。ここは祝福の与えられるところであり、パン五つもあることが人々の喜びとなったのであります。ここに主イエス・キリストの祝福の奇跡があるのです。イエス様にあっては「こんなところ」ではないのです。「ここは祝福の与えられるところ」なのです。「これしかない」と言いますが、「こんなにも」あるということです。お弟子さん達はイエス様から力をいただいたばかりです。その力を信じて実践したのであります。しかし、現実を人間的にとらえてしまいますので、人間の理解では不可能と言う結論になるのです。人里離れた「こんなところ」であり、たったの「パン五つしか」ないということになります。五千人と言う群衆に対して、何ができるのかと言うことです。しかし、イエス様から頂いた力と権能はどこに行ってしまったのでしょう。神様の力、神様の導きを信じることもできなくなっているのです。イエス様はそのようなお弟子さん達を哀れに思いつつ、「パン五つも」に思いを変え、「こんなところ」との思いを「祝福のところ」へと導かれたのであります。人間の思いではなく、神様の御心に委ねる時、そこに奇跡が現れるのであります。

 私たちも「こんなところ」、「これしかない」との人間的な考えを放棄しなければなりません。神様のお力に委ねることであります。

 宮城県の陸前古川教会の牧師をしていた頃、もう一つの教会の牧師にもなりました。人口の少ない町であり、教会と幼稚園が存在していたのであります。教会のためにも、幼稚園のためにも、幼稚園を学校法人にすることでした。それで町の人たちと協力して準備していたのです。ところが町の人たちとの話し合いは、やはり目的が異なりますので、なかなか折り合いがつきませんでした。それで教会は町の人との話し合いは取りやめ、教会が主体的に取り組むことにしたのでした。教会員は10名くらいです。しかも高齢者がほとんどです。ですから、教会が独自に進めることにしたとき、こんな小さな教会、わずかしかない資金でした。しかし、神様が祝福へと導いてくださったのであります。「こんなにあるお恵み」、「こんな祝福の場が与えられている」ということ、そのように導かれることが奇跡なのです。神様は豊かなお恵み、お導きをくださるのであります。

<祈祷>

聖なる御神様。あなたのお導きを感謝致します。奇跡を喜びつつ歩ませてください。主イエス・キリストの御名によりささげます。アーメン。