説教「救いの成就」

2011年12月25日、六浦谷間の集会
「降誕日・クリスマス」 

説教、「救いの成就」 鈴木伸治牧師
聖書、イザヤ書7章10〜14節、
   ヘブライ人への手紙1章1〜6節
   ルカよる福音書2章1〜20節
賛美、(説教前)讃美歌21・247「今こそ声あげ」、
   (説教後)讃美歌21・356「インマヌエルの主イエスこそ」


 クリスマスおめでとうございます。今年はクリスマスの日にクリスマス礼拝をささげるお恵みをいただいています。昨年10月より教会から離れ、無任所教師となり、今は隠退教師になっていますので、皆さんと共にクリスマスのお祝いを開くのは少なくなりました。大塚平安教会在任中はクリスマスのお祝いを10回もしていました。しかし、今は教会の牧師から離れましたので、そんなにお祝いの時は無くなりました。先週の20日キリスト教シニアホームの「神の庭・サンフォーレ」でクリスマスのお祝いを致しました。入居者、支える会の皆さん等で約40名の皆さんが集いました。今回は礼拝における私の担当はありませんでしたが、入居者の皆さんとクリスマス礼拝およびお祝いを共に出来たことを喜んでおります。2004年のクリスマスの時には私が礼拝を担当しました。その時は大塚平安教会の聖歌隊の皆さんも参加してくださり、礼拝では聖歌合唱を行い、その後は皆さんに合唱を聴いていただいたのでした。その時、連れ合いの鈴木スミさんも聖歌隊のメンバーでしたが、六浦谷間の集会礼拝に御出席くださっている小澤八重子さんも聖歌隊のメンバーで、一緒に歌っておられます。22日のブログに「神の庭・サンフォーレ」クリスマス礼拝について記しておりますが、2004年の聖歌隊による聖歌合唱も紹介しています。
 昨年は横須賀上町教会でクリスマス礼拝をささげ、皆さんとお祝いの会を開きました。小人数でしたが、祝福されたクリスマスの集いでありました。私は教会から離れたとき、いろいろな場で少人数のキリスト者の集いに出会いました。4月5月にスペインに行きましたが、バルセロナ日本語で聖書を読む会の皆さんと礼拝をささげました。二度ほど共に礼拝をささげましたが、いずれも7、8名の皆さんです。さらにマドリッド日本語で聖書を読む会でも礼拝をささげましたが、やはり同じくらいの人数でした。そして、六浦谷間の集会は基本的には二人だけの礼拝ですが、時には数人の皆さんが出席されるので、少人数ながら祝福された礼拝が導かれています。第一日曜日には横須賀上町教会の礼拝を担当しますが、いつも10名以下の出席者です。しかし、少人数ながら心から神様を礼拝できます喜びを与えられているのです。だいたいからして最初のクリスマスは、全くの少人数であったのです。マタイによる福音書ルカによる福音書の合成したクリスマスを考えても、お生まれになったイエス様を礼拝したのはマリアさん、ヨセフさん、三人の博士さん、数人の羊飼い達であったのです。まさに少人数の人々がイエス様を礼拝し、神様のお約束の成就をいただき、感謝し、喜びに包まれたのでした。私達も今、少人数でありますが、ここに神様のお約束の成就が与えられているのです。神様のお約束とは、私たちがイエス様のお導きにより、日々喜びを与えられて生きることへと導かれていることです。クリスマスの喜びは少人数の礼拝から世界の隅々へと広まって行ったのであります。その意味でも、この六浦谷間の集会に神様は豊かなお導きを与えてくださっているのです。神様が共におられて小さな群れでありましょうともお導き下さるのです。本日のクリスマス礼拝を基にして新しい歩みを導かれたいと願うのであります。

 「神は我々と共におられる」、すなわちインマヌエルと呼ばれる救い主がお産まれになったことをマタイによる福音書は証しています。それはマタイによる福音書1章23節であります。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は『神は我々と共におられる』という意味である」と記されています。この言葉は今朝の旧約聖書イザヤ書7章からの引用です。イザヤ書7章は「インマヌエル預言」と言われています。混乱の状況の中で、今こそ神様が共におられることを示しているのであります。
 紀元前738年の時代です。周辺の国々が戦いのさなかにあるような状況であります。その中で、聖書の人々、ユダの人々はどのように生きていくのか、選択をしなければならない状況でありました。今朝の聖書、イザヤ書7章10節、「主は更にアハズに向かって言われた。『主なるあなたの神にしるしを求めよ。深く陰府(よみ)の方に、あるいは高く天の方に』」。ここで、イザヤはユダの王様アハズに決断を求めているのであります。戦いを始めるにあたり、王として神様に勝利のしるしを求めなければならないのですが、そのしるしを何処に求めるか、決断を迫っているのです。「深く陰府の方に」というのは大国アッシリアの援助を求めることであり、人間の力により頼むということであります。あるいは「高く天の方に」というのは神様の約束を信じて、人の力ではなく、神様の導きに委ねて自力で防衛することなのであります。それに対して、王様のアハズは、アッシリアに援助を求めるとも、神様の導きのもとに自力で防衛する決意も示さないのでした。そのような曖昧な態度でありながら、結果においてはアッシリアに助けを求めることになるのです。そのことで周辺の国々に対しては裏切りの行為となり、それがいかに屈辱であるかを示しているのです。「あなたたちは人間に、もどかしい思いをさせるだけでは足りず、わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか」とイザヤははっきりしない王様の姿勢をたしなめているのです。そこで、神様ははっきりとしるしを与えておられることを宣告するのでありました。それがインマヌエル預言です。
 「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名はインマヌエルと呼ぶ」。イザヤ書にはインマヌエルの意味が記されていませんが、マタイがその意味を示しています。「神様が共におられる」という意味であります。神様があなた方と共におられて、この混乱の世の中を、あなたがたの現実を導いておられます、とのメッセージは紀元前700年代に示されたのでした。その後、聖書の人々は大国アッシリアに支配されるようになり、後にバビロンの捕囚、捕われ人になります。その後、解放されるものの、荒廃した都の中で苦しい生活を強いられるのですが、根底にあるのは「神様が共におられる」との信仰でありました。困難な状況に生きるとき、共におられる神様の導きを信じたのでした。
 「神様が共におられる」信仰は聖書の最初の人、アブラハムからすでに始まっていました。まだ見ぬ国に旅立ったときにも、共におられる神様を信じて一歩を踏み出して行ったのです。その子どもイサク、その子どもヤコブ、そして12人の子ども達において、共におられる神様の導きをいただきながら、イスラエルという国が与えられたのでありました。400年の奴隷の時代があったとしても、共におられ神様の導きを信じて歴史が導かれてきたのでありました。奴隷の国から人々を解放したモーセに対してはもちろんですが、その後継者ヨシュアに対しても神様は言われます。「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ」。この神様の励ましをいただきながら、若きヨシュアは聖書の人々をカナンの土地へと導きました。そのような歴史を持つ聖書の人々です。改めてインマヌエルの導きを示したのが今朝の旧約聖書イザヤ書の「インマヌエル預言」の示しであります。

旧約聖書のインマヌエル預言を受止めて示しているのはマタイによる福音書であります。しかし、今朝の新約聖書のメッセージはルカによる福音書であります。神様が共におられる現実をルカによる福音書は真実受止め、証ししているのです。マタイによる福音書のクリスマス物語は、イエス様のお産まれになった場所は馬小屋ではありません。むしろ、普通の家のようです。ご降誕を知って駆けつけたのは占星術の学者達であり、黄金・乳香・没薬の宝物をささげたのでありました。もちろん、そこに救いのメッセージが示されているのでありますが、インマヌエル預言を受止めるのは、むしろルカによる福音書なのであります。神様が共におられますとの預言、そして共におられることの喜び、そして喜びが発展していくことを証しているのがルカによる福音書であります。そのことはルカによる福音書1章において、ザカリアとエルサベトにガブリエルが現われ、神様のお告げを示し、「時が来れば実現する神様の言葉」として示されています。マリアにガブリエルが現われて、「あなたから男の子が産まれる」とお告げを示したとき、マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と告白したことにも示されているのであります。神様のお告げ、それが喜びへと導かれていくこと、そして発展へと導かれていくのであります。それは神様が共におられ、お導き下さるという信仰なのです。ルカによる福音書イエス・キリストのご降誕の証から示されましょう。
 「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」ので、ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤベツレヘムというダビデの町へ上って行きました。身ごもっていたいいなずけのマリアと一緒に登録するためでありました。ベツレヘムの町は住民登録をするために各地から集まっていたので、宿屋さんは何処も満員であったということです。そこで、ある宿屋さんの馬小屋で過ごすことになります。そして、その馬小屋でマリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせたのでありました。ここにルカによる福音書のメッセージがあります。イエス・キリストが産まれたのは、立派な御殿ではもちろんありません。普通の家でもありません。人間の住むところではない場所、馬小屋という場所でした。そこは馬の出し入れ以外は人が行き来しない場所であります。しかし、だれもがいける場所でもあるのです。しかも、飼い葉桶に寝かされたということにも、ルカの深いメッセージがありました。飼い葉桶のメッセージはすでに示されています。すなわち、飼い葉桶は動物の食べる器であります。そこにイエス様がおられるということは、イエス様が神様の糧を私たちに与えるということでした。事実、イエス様は神様のお心、そして命のパンを人々に与えられたのであります。ルカによる福音書は馬小屋物語を通してインマヌエルの喜びを示しているのであります。今こそ、ここに神様が共におられるのですよと示しているのです。
 ルカによる福音書は、お告げを羊飼い達に示したのでありました。野宿する羊飼い達は、家に帰ることができません。羊を養っての人生であり、人々からは忘れられているような存在でありました。暖かい温もりのある生活は望めないような状況でもあります。だからこそ、そこにインマヌエルの福音が示されていることをルカは証ししているのです。あなたは悲哀に生きているのですか、苦しんで日々歩んでいるのですか、孤独にさいなまされているのですか、そのあなたにインマヌエルの福音が与えられているのですよ、とルカによる福音書は、昔から預言されている祝福の喜びを示し、さらに喜びが発展していくことを示しているのです。
 ルカによる福音書は、他の福音書には記されない人間の悲哀を記しています。一つはルカによる福音書7章11節以下の「やもめの息子を生き返らせる」出来事です。ナインの町で、一人息子を亡くした母親が、悲しみつつ棺と共に歩いています。イエス様は哀れに思われ、「もう泣かなくても良いですよ」と言い、息子を生き返らせるのであります。そのとき人々は、「神はその民を心にかけてくださった」と言い、神様を賛美したのでした。さらに、「善いサマリア人」のたとえ話、「放蕩息子」のたとえ話、「不正な管理人」のたとえ話、「金持ちとラザロ」のたとえ話、「徴税人ザアカイとイエス様との出会い」等、悲哀に生き、悲しみつつ生きていた人々がお告げを示され、喜びへと導かれることをルカによる福音書は証言しているのです。
 私の現実に神様のお告げがある。そのお告げは大きな喜びへと導いてくださるのであります。それは旧約聖書以来示されているインマヌエル、神様が私たちと共におられるからであります。神様が私と共におられるのです。インマヌエルにこの身をおきながら歩むことを示されているのであります。

大塚平安教会に赴任する前は宮城県の陸前古川教会に6年半在任しました。その古川から電車でも車でも1時間くらい離れた所が鳴子の町です。その鳴子教会に郄橋萬三郎さんと言う方がおられました。お連れ合いが鳴子教会の牧師で、萬三郎さんは教会が運営する保育園の園長をしていました。青年の頃には全盲となりましたが、この人は園長を担いながら童謡詩人としても知られていました。私はこの人の証として「鳴子こけしの歌」と題して記しています。これは当時のクリスチャン新聞が証文学賞を募集していましたので、萬三郎さんの証を書いて応募しました。結果は選外佳作と言うことでした。しかし、この証を萬三郎さんの童謡詩集発行記念会の時に出版して皆さんに配布したのでした。その萬三郎さんの童謡の中に、感銘深い詩がありますので紹介しておきます。
 「天使」、日の照る道を歩くとき/いつもついている影法師/足音もなく声もなく。/月夜の道を通るとき/やはり一緒だ影法師/止まれば止まり行けば行く。/あの影法師みたいにね/誰のそばにいつだって/天使がついているそうな。/天使はすがた見せないし/声も聞かせはしないけど/ほんとにいると思うんだ。/わたくしたちにしあわせが/心いっぱいあるように/天使はそっと祈っている。(詩集「流と風と雲と夢」より)
 インマヌエル、神様が共におられる、まさに萬三郎さんが歌うように、影法師みたいに私たちと密着して共に歩んでくださる神様であり、主イエス・キリストなのであります。この私が現実を神の国に生きるよう、共におられて導いてくださっているのです。その主イエス・キリストが世に現れたことをお祝いすることがクリスマスなのです。神様のお約束の実現、成就であるのです。
 私の現実を悲しむ必要はありません。苦しみが続いていると思う必要はありません。インマヌエルの主が、私の現実におられるからです。旧約聖書に登場したアハズ王のように、神様に対してもどかしい思いを与えるのではなく、このクリスマスのしるし、インマヌエルの主と共に新しい歩みが始まったことを喜びたいのであります。
<祈祷>
聖なる全能の神様。クリスマスのお恵みをいただきました。インマヌエルの主と共に新しい歩みを、勇気を持って力強く歩むことを得させてください。アーメン。