説教「救いの約束」

2011年12月18日、六浦谷間の集会
「降誕前第1主日」 

説教、「救いの約束」 鈴木伸治牧師
聖書、ゼカリヤ書2章5〜17節
   ローマの信徒への手紙4章13〜25節
   ルカよる福音書1章26〜38節
賛美、(説教前)讃美歌21・236「見張りの人よ」、
   (説教後)481「救い主イエスの」


 今朝は四本のロウソクが灯されています。クリスマスは四週間前から始まり、その最初は一本のロウソクが灯され、毎週ロウソクの火が増えて行き、四本のロウソクが灯されるとクリスマスを迎えることになっています。ところが今朝は四本のロウソクが灯されているのに、まだクリスマスではありません。次週の25日がクリスマス礼拝と言うことになります。昨年は19日がクリスマス礼拝となり、もっともはやいクリスマス礼拝でした。今年はもっとも遅いクリスマス礼拝となります。教会の暦に従っての礼拝ですので、教会によっては本日の18日にクリスマス礼拝を捧げているところもあるのです。あるいは25日の後の日曜日にクリスマス礼拝を捧げる教会もあります。昨年は19日がクリスマス礼拝でしたので、それでは早すぎるというわけで、次の日曜日の26日にクリスマス礼拝をささげた教会がありました。教会の暦に関係なく、それぞれの群れがクリスマス礼拝を捧げてよろしいわけです。主イエス・キリストのご降誕を心から喜び、十字架の救いをいただく信仰を深めることが大切なのであります。クリスマスは神様の救いが現実の中にあるということを信じることなのであります。
 今年は今週20日に「神の庭・サンフォーレ」のクリスマス礼拝と祝会が開かれます。そして次週のクリスマス礼拝を迎えるわけですが、大塚平安教会に在任の頃は、何回もクリスマス礼拝を捧げ、むしろ忙しかったことが思い出されます。綾瀬ホームやさがみ野ホームのクリスマス、幼稚園母親クリスマス、婦人会・家庭集会合同クリスマス、子どもの教会クリスマス、幼稚園のクリスマス、神の庭・サンフォーレのクリスマス、そして大塚平安教会の聖夜礼拝、クリスマス礼拝、さらにハイムひまわりでのクリスマスがあり、10回もクリスマス礼拝、祝会をしておりました。何回もクリスマスをお祝いすることができて喜びでしたが、その都度のメッセージを準備するので、むしろクルシミマスになっていたことも事実ですが、それも喜びでありました。皆さんに主イエス・キリストのお生まれになった喜びのメッセージをお伝えするのですから、これほど喜びに満ちた務めはないのであります。
 クリスマスは神様の救いが現実の中にあることを喜ぶことであります。その救いを神様が約束されているのが旧約聖書ということになります。救い主の出現を繰り返し約束し、希望をもってその日を待つように教えているのであります。そして、新約聖書は救いの成就を示しているのであります。いよいよ救いの成就が実現することを今朝の聖書は示しているのであります。

 「娘シオンよ、声をあげて喜べ。わたしは来て、あなたのただ中に住まう、と主は言われる」とゼカリヤ書2章14節に述べられています。シオンすなわち神様の都エルサレムの中に神様がお住まいになると宣言しているのです。「娘シオン」とはエルサレムに住む人々です。神様がお出でになって、あなたがたに救いをくださいますよと励ましているのです。ゼカリヤは1章1節によると、イドの孫でベレクヤの子である預言者と紹介されています。ダレイオスの第二年に現れたと記されていますが、紀元前520年の頃です。ダレイオスはペルシャの王様で、エルサレムの神殿再建を応援した王様でした。ペルシャの初代王はキュロスでしたが、この王様はギリシャイオニア諸都市を征服し、インド境まで征服したりしています。そしてバビロンを滅ぼしました。バビロンに捕われていた聖書の人々ユダヤ人を解放しました。聖書の人々はエルサレムに帰り破壊された神殿を再建しようとします。しかし、再建を妨げる人々がおり、20年間も再建が放置されるのです。ダレイオス王の時代になった時、この王様が神殿の再建を妨害することの禁止令を出すことにより再建が進められたのでした。ゼカリヤは人々に神殿再建を励ましたのであります。
 1章4節、「あなたたちは先祖のようであってはならない。先の預言者たちは彼らに、『万軍の主はこう言われる。悪の道と悪い行いを離れて、立ち帰れ』と呼びかけた。しかし、彼らはわたしに聞き従わず、耳を傾けなかった、と主は言われる」と記されています。「立ち帰る」という言葉が、1章1節から6節までに4回も使われています。そして、その後、 7節から「第一の幻」から「第八の幻」が示されるのであります。今朝の聖書は「第三の幻」でありますが、これらの「幻」の基本が「立ち帰る」ことであります。「先の預言者」とはイザヤ、エレミヤ、エゼキエル等であります。イザヤ書31章6節、「イスラエルの人々よ、あなたたちが背き続けてきた方に立ち帰れ」と示しています。エレミヤは、「『立ち帰れ、イスラエルよ』と主は言われる。『わたしのもとに立ち帰れ。呪うべきものをわたしの前から捨てされ。そうすれば、再び迷い出ることはない』」(エレミヤ書4章1節)と示しています。さらにエゼキエルは、「それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ」(エゼキエル書18章30節)と示しています。「先の預言者」達は繰り返し「立ち帰る」ことを人々に促し、諭したのでした。「立ち帰る」は聖書の言葉は「シューブ」であります。ゼカリヤがシューブと言った時、二つの意味があります。一つは、「先の預言者」達が口をそろえて促し、諭しているように、神様の御心から離れている人々に対して「立ち帰れ」と言っていることです。もう一つは、バビロンから立ち帰って来た人たちですが、神殿再建に取り組むことが真に立ち帰ることであることを示しているのであるのです。
 今朝の聖書は第三の幻です。測り縄を天使が持ってエルサレムを測りに行くところですが、別の天使が出て来て測ることを中止させるのです。エルサレムを測るということは、堅固な城壁を造るためです。しかし、堅固な城壁を造らなくても、神様が町を囲む火の城壁となると示しているのです。そして2章14節で、「娘シオンよ、声をあげて喜べ。わたしは来て、あなたのただ中に住まう、と主は言われる」と示しているのです。救いが訪れる、救いが与えられると示しているのです。バビロンから帰還し、困難な神殿再建を励まし、ついに完成へと導いたのがゼカリヤでした。この喜びの根源は、神様に「立ち帰る」ことであり、神様が救いを与えてくださる希望を与えたからであります。

 さあ、いよいよ旧約聖書で宣言された救い主が現れることになりました。その証言はルカによる福音書であります。マタイによる福音書はヨセフさんを中心に救い主の出現を宣言するのでありますが、ルカによる福音書マリアさんを中心にしてイエス様の出現を宣べ伝えているのであります。1章26節からであります。天使ガブリエルが神様から遣わされて、マリアさんに現れました。そして言われたことは、「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる」と告げるのであります。するとマリアさんは、驚きながらも自分の立場を申し上げるのです。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と言います。つまり、マリアさんダビデの家系のヨセフといいなずけ、婚約の関係であり、まだ結婚してもいないのに、どうして子供が生まれるのですかと言っているのです。天使は、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」というのです。
 婚約中で子供が生まれることは、昔は不自然なことでありました。マタイによる福音書はヨセフさんを中心に記しているのですが、マリアさんから子供が生まれることを知ったヨセフさんは、マリアさんのことが表ざたになるのを望まず、マリアさんとの関係、婚約を破棄しようと決心したと記されています。しかし天使が励まし、「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」と諭したのでありました。「聖霊により宿った」との励ましはヨセフさんにもマリアさんにも与えられています。二人はそれぞれ聖霊の導きを信じたのであります。このことは私たちも聖霊の導きにより、イエス様がおとめマリアさんから出現したことを信じるのであります。そして、それは科学的には証明できません。聖書の証言通り、聖霊により神様の救い主がマリアさんを通して出現したことを信じるのであります。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」とマリアさんは告白致しました。聖書にはヨセフさんの苦悩、マリアさんの恐れがはっきりと記されています。しかし、人間の思いを超えて神様の導きが実現するのであります。神様ご自身がマリアさんを通して地上に現れるということであります。苦しみを救い、貧しさから解放し、悲しみから救われる、その救い主が今こそ現れることを示しているのであります。この後、47節から「マリアの賛歌」が記されています。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」と歌っています。そして「主はその腕で力を振るい、思いあがる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」と歌うのであります。まさに神様は自分のような身分の低い者から救い主を生まれさせ、だから貧しい人々を幸せにしてくださるとの希望、喜びを歌っているのです。クリスマスとは、私の貧しさの中に救い主が現れることです。私の貧しさとは、神様のお導きによってのみ私の歩みがあると信じることなのです。自分の財産とか、名誉とか、富とか、人間的なものに頼るのではなく、ただ神様の御心によって生きること、それが貧しさということであります。イエス様が山上の説教で「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」と教えられたのは、実にそのことであります。私たちは心を貧しくして、神様の御心だけが私達の人生を祝福のうちに導いてくださることを示されているのです。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」とマリアさんは心から告白しました。そして「マリアの賛歌」で歌うように、身分の低い存在を確かな者にしてくださるという信仰を告白しています。神様が目を留めてくださっているから、今の状況を勇気をもって、歩んで行くということです。「救いの約束」が今与えられました。このわたしに「救いの約束」が与えられているのです。

 最近は塩野七生さんが書いた「ローマ人の物語」を読み、もう一度世界史をおさらいする意味で「世界史のおさらい」を読みました。これは中学生向きの世界史の教科書を大人向きに「おさらい」として発行されたものです。世界の歴史をさらりと読むことができました。読み終えたとき、最後の頁に著者が巻末コラムとして「歴史を動かすバーバリアニズム」として記していたことが心に残りました。バーバリアニズムは直訳すれば「野蛮主義」、「野蛮人的行動原理」と言うような言葉になるそうです。このバーバリアニズムがあるから世界の歴史が塗り替えられてきたということです。例えば、大帝国となったローマは、ギリシャから見れば「辺境の蛮族」でした。そのローマがいかにしてギリシャを征服するに至ったのか。それは初期のローマが低劣な環境にたえる力をもっていたからでありました。貧乏や危険にさらされても平気であったわけです。「覇権をかけた戦いというのは、好むと好まざるとにかかわらず、両勢力の総力戦となります。そこで競われるのは、物資や技術力に支えられた攻撃力だけではなく、社会全体の窮乏に堪え忍ぶ力もまた、重要な要素になっています」と述べ、著者は一つのたとえを用います。物資が豊富にある時から、下級の兵卒まで靴を履かせてもらえる文明的な軍隊の方が、そもそも靴を履くことを知らないバーバリアンの軍隊より有利になる。ところが、逆に物資が不足した状態だと、靴を履かなくても平気なバーバリアンの方が、靴を履きたいのに履けない文明国に対して優位に立つことになる。結局、文明の利器に頼り、甘んじているあまり、文明に頼れなくなると戦いは負けてしまうということになる。文明がなくても即戦力があるバーバリアンの力が上になり、覇権の交代になる。ところがバーバリアンが覇権をもつことによって、同じように文明の利器に頼ることになり、新しく起こって来たバーバリアンに滅ぼされてしまうのである。覇権を握るということは文明に頼るようになり、富や快楽に頼るようになって行くのである。初期のローマはバーバリアンであったが、1000年の帝国支配が続いたとしても、覇権国家は文明なしでは生きられなくなるのである。大帝国ローマもついに崩壊して行くのである。世界史はバーバリアン精神をよりよく教えてくれるものである、ということをこの本から示されたのでした。
 今、私達は「救いの約束」を信じて待望しています。「救い」とは、私たちが豊かになり、何不自由なく過ごすことではありません。そのような文明に保障される生活が「救い」ということではなく、この私が主イエス・キリストの十字架の贖いをいただき、現実を神の国として生きることが「救い」の人生を歩むことなのです。現実を神の国として生きるとき、他の存在を受け止め、共に生きる者へと導かれ、祝福の歩みが導かれていくことなのです。そしてその歩みが永遠の生命への道なのです。まさに救いの約束が実現するのです。
<祈祷>
聖なる神様。歴史を通して救いの約束をお与えくださり感謝致します。いよいよ救いの約束が実現します。救いをいただく者へと導いてください。主の御名により、アーメン。