説教「救いを確信する喜び」

2012年12月9日、横須賀上町教会
降臨節第2主日

説教、「救いを確信する喜び」 鈴木伸治牧師
聖書、イザヤ書11章1〜10節、
   ルカによる福音書1章39〜56節
賛美、(説教前)讃美歌21・241「来たりたまえわれらの主よ」
   (説教後)讃美歌21・463「わが行くみち」


 降臨節待降節アドベント第二週になりました。二本のローソクの火は、前週の一本より明るくなっているのです。主イエス・キリストがお生れになることが、この世を照らす真の光ですから、いよいよ明るさが増し加わって来ているのです。主イエス・キリストが出現する時代、それは2000年の昔でありますが、世の中は決して平和ではありませんでした。その頃はローマがヨーロッパ各地に進出し、ローマ帝国の基礎を固めている時代です。ローマのカエサルがヨーロッパの地域を征服しつつ帝国を築き、カエサルローマ皇帝にはなりませんでしたが、その後のアウグストゥスが皇帝になり、その時代に主イエス・キリストが世に現れたのでした。従って、その時代はユダヤの王様もローマに忠誠を誓い、ローマの従属国家として仕えていたのであります。人々はユダヤの王様の支配があり、ローマ皇帝支配下であり、苦しい生活を強いられていたのであります。
 アウグストゥスが初代皇帝になったとき、人々は「平和の王」「救いを下さる方」と称え、大いに喜んだのであります。その時代に、主イエス・キリストが「平和の王」、「救い主」として現れたのですから、聖書は両者を示しながら、真の「救い主」を証ししているのであります。やがてローマ帝国は滅び、主イエス・キリストの福音は現代に及びましても、人々に喜びと希望を与えているのであります。今こそ、主イエス・キリストを中心に歩まなければならないのです。しかし、多くの場合、この世の人々は強き存在、力ある指導者を求めています。いろいろな国々が新しい指導者を求めて、模索している状況です。日本の国も中心になる人々の選任のときとなっています。政治家を選ぶということですが、政治家はマニフェストを掲げ、日本をこのような国にすると言い、人々の希望を取りまとめようとしているのです。しかし、人間の掲げる将来像は、簡単に実現するものではありません。民主党が掲げたマニフェスト東北関東大震災でもろくも崩れ去って行ったのであります。「脱原発」、「増税反対」を叫ぶことで人々の心をつかもうとしていますが、それならそれで新しい取組みを明確に示しているのかと言えばそうではありません。
 ここで選挙についてお話しするのは、説教の趣旨から外れますが、人間が真に平和に生きることの社会、それは国造りでありますが、心の平安こそが何よりも必要なことなのです。ブータンの国の幸福度は世界一と報道されていますが、それは自分達だけの民族になったからであります。ブータンは2006 年にネパール系ブータン人の市民権を没収し、国から追放したようです。国民の1/6がネパール系だったようです。それで100,000 人を超える難民がネパールの難民キャンプに溢れたということです。自分たちとは人種が違うということで、排除し、それで幸福度が世界一というには、やはり問題であると示されています。人々が一人残らず平和に生きることが私達の願いです。私達はその平和の実現は神様の導きであり、そのために主イエス・キリストを世に出現されたと信じています。その救い主を今年も新たな思いで出現を待望しているのです。

 まず旧約聖書における神様の救いのお約束を示されます。今朝の聖書はイザヤ書11章1節以下です。10節に、「その日が来れば、エッサイの根はすべての民の旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く」と宣言しています。この11章は「平和の王」の出現を預言しているのです。1節に「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」と示されていますが、救い主が出現することを述べているのです。「エッサイの株から芽が萌えいでる」とは、ダビデの存在でありますが、救い主はダビデの子孫として出現すると示しているのであります。従って、イエス様の母になるマリアさんダビデの子孫であるヨセフといいなずけになるのであり、聖霊によって身ごもったのでありますが、ダビデの子孫として、世に現れてくるのであります。「エッサイの株から芽が萌えいで」て出現する存在に、「知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊」が与えられるのであります。その救い主は、「弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する」として人々に希望を与えています。
 イザヤが預言活動する背景は、紀元前701年以降、ユダの国はアッシリアという国の従属国でした。アッシリアの支配が確立し、人々は「アッシリアの平和」とまで言うようになっていたのです。そういう中でイザヤは軍事力の平和ではなく、神様の平和を人々に示しているのです。6節以下では動物達との共存を示すことにより神様の平和を示しています。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の住に手を入れる」と示していますが、神の平和の実現であります。動物との共存を示しているのですが、人間の世の姿をたとえているのです。自分に襲いかかる存在はないということです。
 日曜日の夜にNHKで「ダーウィンが来た」という番組を放映しています。動物達の育みを紹介しているのですが、子育ての動物達は楽しく見ますが、弱い動物を強い動物が食べるシーンは、見たくないと思います。動物の世界で生き伸びる手段ですが、人間の世界も動物にたとえれば同じようであるのです。だからイザヤ書も動物との共存を示しながら、人間の世界の平和、神様によって与えられる平和を示しているのです。「その日が来れば」と言われていますが、救い主が現れる日であります。「エッサイの根は、すべての民の旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く」と示しています。それがクリスマスなのです。主イエス・キリストの出現によって真の平和が与えられるのです。2000年の昔から、この平和の宣言は変わることなく世に発信されています。今こそ救い主イエス・キリストの平和に人々が集まらなければなりません。「この指とまれ」と言いつつ、平和な社会の実現を呼びかけていますが、人間の言葉だけの幸福未来は実現しないのです。主イエス・キリストは十字架の贖いにより、人々の平和を実現させてくださったのです。ご自分を犠牲にして人々の真の平和への道を導かれているのです。平和の基があるということです。この十字架の贖いという基が真の救いとなって行くのです。これが私達の救いの確信なのです。そのような救いの確信を与えられている私達は、まさに喜びが与えられているのです。

 今朝は新約聖書で「マリアの賛歌」を示されています。聖書はルカによる福音書1章39節から56節です。ラテン語聖書では「マグニフィカート」とも呼ばれています。
 「わたしの魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます」とマリアさんは賛歌を歌うのですが、マリアさんをとおして救い主が生まれることを示されたからでした。そのことについては前の段落、ルカによる福音書1章26節以下に示されています。天使ガブリエルがガリラヤのナザレの町にいるマリアさんのもとに参ります。ガブリエルは「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と伝えます。そして、「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」と告げるのです。それを聞いたマリアさんは天使に言います。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と言うのです。マリアさんダビデの家系であるヨセフと言う人のいいなずけでありました。しかし、まだ結婚はしていません。従って、結婚していないマリアさんですから、「どうして、そのようなことがありえましょうか」と疑問をはっきり述べるのであります。天使は、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」とマリアさんに言うのです。結婚していませんが、それなのに自分から男の子が生まれる、それは聖霊が自分に降り、いと高き方の力が働くと言われたことをマリアさんは信じたのであります。「神にはできないことは何一つない」と言われ、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」とマリアさんはお告げを受け止めたのであります。ここにマリアさんの偉大な信仰があるのです。
 今のこの私の現実に、神様の御業、導きが与えられるのは不都合である、と考えるのは私達の姿でもあります。マリアさんにとっても、今のマリアさんの現実に神様の御業が与えられるのは不都合なのです。しかし、マリアさんは神様の御業を受け止めたのです。そのマリアさんの信仰を称えたのは親類でもあるエリサベトでした。天使ガブリエルのお告げをいただき、その後、マリアさんはエリサベトのもとに行きました。その時、エリサベトは「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう」とマリアさんを称えています。このエリサベトの称賛には、エリサベト自身の体験があります。エリサベトの夫ザカリアは祭司であり、二人ともすでに高齢になっていました。そのザカリアに天使が現れ、「あなたの妻エリサベトは男の子を産む」と告げ、「彼は偉大な人になり、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる」と示すのでした。その時、ザカリアは「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年を取っています」と言うのです。この言葉は天使のお告げを信じない姿勢でもあるのです。「そんなことがあるはずがない」と言う思いです。天使はザカリアの姿勢に対して、「時が来れば実現する神様の言葉を信じなかった」ので、そのことが起きるまでザカリアの口がきけなくさせるのです。エリサベトのマリアに対する称賛は、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた」マリアさんでありました。
 以上のことから示されることは、「マリア賛歌」はマリアさんの信仰を示しています。その信仰は、「時が来れば実現する神様の御言葉」を信じたということです。そして、「このような自分に神様が憐れみをくださった」という喜びなのです。その「憐れみ」は「アブラハムとその子孫に対してとこしえに」と歌っていますように、神様の憐れみによって導かれていくことを歌っているのです。

 「救いを確信する喜び」は聖書によって与えられます。今朝のイザヤ書の預言、ルカによる福音書のおけるマリアさんの救いの確信は、御言葉をいただいていよいよ強められ、喜びへと導かれたのです。毎日、散歩していますが、時にはブックオフという本屋さんに立ち寄ります。先日、立ち寄りましたら、聖書が置かれていました。ハンディ版の聖書で、続編つきでした。これは3100円で聖書協会から売りだされているものですが、何と1600円の値段でした。ほとんど新しいものでした。どうして聖書を売ってしまうのか。「ばちが当たるよ」なんて思いながら買い求めておきました。私も持っていますが、それは続編がついていないので、良い買い物だと思いました。私の神学生時代、教義学の先生が東京神学大学教授の熊野義孝先生でした。日本聖書神学校にも講師として教鞭をとってくださっていたのです。あるときの授業が忘れられません。教義学の講義なのですが、聖書に対する姿勢を余談のようにしてお話しされました。皆さんは聖書をどのように取り扱っているか、というのです。例えば、聖書を机の上に置くとき、投げるようにして置いてはいないかというのです。聖書は神様の救いを約束してくれているのであり、大事に取り扱わなければなりません、と言われました。机の上に置くときにも丁寧におくべきです、というのです。なんか教義学であるのに、作法を教えられているようでした。しかし、時々、熊野先生の聖書に対する姿勢を思い出しているのです。聖書を右に左に動かす時には、いつも熊野先生の言葉が耳にありました。この聖書は神様の「救いを確信させる」ものであり、聖書を紐解くほどに喜びが与えられるということなのです。だから聖書を古本屋さんに売るということは、「ばちが当たる」というものです。
 以前はキリスト教主義の学校では入学のとき、聖書と讃美歌は買わせていました。しかし、卒業のとき、学生は聖書、讃美歌を置いて行ってしまうということです。それで学校は置いて行った聖書、讃美歌を礼拝の備え付けにしました。学生は入学のときに買わなくても良くなったのです。困ったのは聖書協会であり、日本基督教団出版局です。讃美歌は出版局が発行しているのです。売り上げが減少していることが報告されていました。
 聖書に向かうとき、「時が来れば実現する神様の御言葉」を示され、主イエス・キリストが十字架による贖いによって成就したことが示されているのです。旧約聖書以来、神様は人々を導き、救いを与えていましたが、人々は真に神様の御心に帰ることができないでいたのです。救いの約束は旧約聖書以来の約束でしたが、ついに実現したのです。十字架の贖いによって、人々が真に生きる者へと導かれたのです。マリアさんも自分を通して現れる救い主に、救いを確信し喜んでいるのです。私達は聖書が指し示している十字架による救いを、私達もまた「救いを確信する喜び」として歩みたいのであります。
<祈祷>
聖なる御神様。神様の御言葉は必ず成就致します。救いの喜びをいよいよ確信して歩ませてください。主イエス・キリストの御名によりおささげ致します。アーメン。