説教「御告げを信じつつ」

2012年12月2日、六浦谷間の集会
降臨節第1主日

説教、「御告げを信じつつ」 鈴木伸治牧師
聖書、創世記18章9〜15節、
   フィリピの信徒への手紙3章5〜11節
   ルカによる福音書1章26〜38節
賛美、(説教前)讃美歌54年版・94「久しく待ちにし」
   (説教後)讃美歌54年版・285「主よ、み手もて」


 救い主がお生れになった日、すなわちクリスマスは12月25日としてお祝いしています。クリスマスの四週間前から降臨節として、イエス様が世に現れることを待望するのです。今朝は降臨節第一主日として、いよいよその日が迫ったことを喜ぶ日であります。主イエス・キリストは暗黒の世に現れました。それにより暗黒の社会は明るくなったのであります。そのためクリスマスに近づくにつれ、次第に明るくなっていくことをあらわすこととして、ローソクの火の明かりを増やしていくことなのであります。今朝は一本のローソクの明かりで。降臨節第二週は二本のローソクの明かりになります。こうして一本ずつ増やして、四本のローソクに火が点くことにより、明るいクリスマスを迎えるのであります。
クリスマスは主イエス・キリストがこの世に現れ、人々に福音を告げ、十字架の救いを与えて、真に生きる者へと導いてくださいましたことで、喜びの日としているのであります。クリスマスに主イエス・キリストがお生まれになって、すぐに福音を示され、救いが与えられたのか、そうではありません。そのようになるのはクリスマスから30年後になるのであります。しかし、救い主、メシアとして現れたのでありますから、人々は明るい方向へと導かれていることを知るのであります。もはや苦しみはない、悲しみはない、この現実に救い主が現れていることを実感しつつ歩むようになるのであります。
 キリスト教の人々が12月25日にクリスマスとしてお祝いすることに疑問を持つ人々がいます。しかし、主イエス・キリストが現れた日がいつであるかわからない中で、たとえ根拠がないとしても、12月25日に設定し、イエス様がこの世に現れたことを喜ぶことは大きな意味があり、福音のメッセージにもなっているのであります。イエス様が福音を私達に告げてくださったのであります。イエス様が十字架により私たちを救いへと導いてくださったのであります。そのイエス様が現れた日が設定され、喜び祝うことに大きな意義があるのです。イエス様を信じない人々まで、このクリスマスを喜び、お祝いしているのですから、主イエス・キリストの存在そのものが人々に示されていくのであります。
 9月10日から11月6日までスペイン・バルセロナにいる娘のところで過ごしてきました。11月5日にバルセロナを出発し、帰国の途についたのですが、フィンランドヘルシンキ空港で乗り代えて成田飛行場に向かうことになります。そのヘルシンキの飛行場のターミナルビル、ロビーには既にクリスマスツリーが飾られていました。もう二ヶ月前からクリスマスを見つめつつ歩むことになるのです。今では日本の国でも町のにぎわいの中に、必ずクリスマスツリーが飾られており、商売に乗せられているクリスマスであるとしても、世の中がクリスマスを見つめつつ過ごすことは大きな意義があるでしょう。
クリスマスは神様が世をお救いになる約束なのです。その約束を信じて生きることが喜びであり、約束を信じない限り、暗い社会に生きることになるのです。実際、今の社会を思うとき、いろいろな課題に押しつぶされそうです。災害による復興を目指していますが、未だに解決されていません。脱原発と言われていますが、では他の電力にすべて委譲出来るかと言えば困難であります。だから電気料を値上げすると言うことになると、それにも反対することになります。生活が大変になるからです。ではどうしたら良いのか。行き詰っている状況ですが、クリスマスこそ神様の救いの約束を信じて歩むときなのです。

 神様の御告げを信じて生きるのか、信じないのか、これはいつも聖書で求められていることです。今朝の旧約聖書は、当初、神様の御告げを信じない姿を指摘しています。もちろん、後に信じて生きるようになります。新約聖書は、神様の御告げを戸惑いながらも、しっかりと受け止めた姿が証しされているのです。その両者を示されながら、私達も神様の御告げを受け止めて歩みたいのであります。
 旧約聖書は創世記18章に記される「イサク誕生の予告」です。アブラハムとサラは神様の導きを受け、故郷を後にして、神様の示す新しい土地へと出て行きます。そのとき神様は、「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」と約束してくださいました。この神様の約束を信じて故郷を後にしたのですが、その約束が現実に見えてこないのです。それでアブラハムは神様に抗議しています。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです」と言うのでした。エリエゼルはアブラハムに仕える者です。それに対して神様は、「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ」と約束されています。そのような約束をいただきながらも、サラは自分には子供が生まれないと思い、彼女に仕えるハガルという女奴隷により子供を産むことになるのです。そのような人間的な計画によって歩んでいる彼らに対し、神様は驚くべき御告げを示すのであります。もはや彼らは高齢になっていました。
 そこで今朝の聖書になりますが、今朝は創世記18章9節以下です。アブラハムが天幕の入口に座っていると、三人の人がそこに立つのです。この三人の人は、この後に記される悪徳栄えるソドムを滅ぼすために来たのです。そうとは知らず、アブラハムはこの三人の旅の人をもてなします。料理をしてご馳走を振舞ったのでした。そのとき、彼らは「あなたの妻のサラはどこにいるか」と尋ねました。そして、言われたことは、「わたしは来年の今ごろ、必ずここに来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」と言うのです。その言葉を後ろの天幕で聞いていたサラは密かに笑ったのでした。二人とも老人であり、自分たちから子供が生まれるなんてありえないと思っているからです。そのとき神の人は言いました。「なぜ、サラは笑ったのか。なぜ年を取った自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能名ことがあろうか」と言い渡すのでした。そして御告げの通りサラから男の子イサクが生まれたのでした。アブラハムが百歳、サラが90歳のときでした。彼らはもはや高齢であり、子供が出来ることなど考えも及びませんでした。神様の御告げを信じて故郷を後にしたのです。しかし、御告げを信じたものの、現実は高齢の夫婦でした。この先、何が起きるのか、何も起こらないと思っている彼らなのです。そのとき神様の御告げが、もはや何もかも諦めている彼らに与えられるのです。「あなたがたに子供が生まれる」と言われても、自分達の現実は不可能であると思わざるをえません。神様の御告げを自分の現実の中で受け止めるには、自分の判断では不可能なのです。不可能の現実に御心が現れる、そんなことはあり得ないというわけで笑ってしまったのでした。しかし、御告げは実現したのでした。不可能と思いましたが、神様の御告げなのです。やはり彼らもこの御告げを信じて歩むことになるのです。「主に不可能なことがあろうか」と言われています。

さあ、いよいよ旧約聖書で宣言された救い主が現れることになりました。その証言はルカによる福音書であります。マタイによる福音書はヨセフさんを中心に救い主の出現を宣言するのでありますが、ルカによる福音書マリアさんを中心にしてイエス様の出現を宣べ伝えているのであります。1章26節からであります。天使ガブリエルが神様から遣わされて、マリアさんに現れました。そして言われたことは、「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる」と告げるのでありました。するとマリアさんは、驚きながらも自分の立場を申し上げるのです。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と言います。つまり、マリアさんダビデの家系のヨセフといいなずけ、婚約の関係であり、まだ結婚してもいないのに、どうして子供が生まれるのですかと言っているのです。天使は、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」というのです。
 婚約中で子供が生まれることは、昔は不自然なことでありました。マタイによる福音書はヨセフさんを中心に記しているのですが、マリアさんから子供が生まれることを知ったヨセフさんは、マリアさんのことが表ざたになるのを望まず、マリアさんとの関係、婚約を破棄しようと決心したと記されています。しかし天使が励まし、「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」と諭したのでありました。「聖霊により宿った」との励ましはヨセフさんにもマリアさんにも与えられています。二人はそれぞれ聖霊の導きを信じたのであります。このことは私たちも聖霊の導きにより、イエス様がおとめマリアさんから出現したことを信じるのであります。そして、それは科学的には証明できません。聖書の証言通り、聖霊により神様の救い主がマリアさんを通して出現したことを信じるのであります。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」とマリアさんは告白致しました。聖書にはヨセフさんの苦悩、マリアさんの恐れがはっきりと記されています。しかし、人間の思いを超えて神様の導きが実現するのであります。神様ご自身がマリアさんを通して地上に現れたということであります。苦しみを救い、貧しさから解放し、悲しみから救われる、その救い主が今こそ現れることを示しているのであります。この後、47節から「マリアの賛歌」が記されています。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」と歌っています。そして「主はその腕で力を振るい、思いあがる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」と詠うのであります。まさに神様は自分のような身分の低い者から救い主を生まれさせ、だから貧しい人々を幸せにしてくださるとの希望、喜びを歌っているのであります。クリスマスとは、私の貧しさの中に救い主が現れることであります。私の貧しさとは、神様のお導きによってのみ私の歩みがあると信じることであります。自分の財産とか、名誉とか、富とか、人間的なものに頼るのではなく、ただ神様の御心によって生きること、それが貧しさということであります。イエス様が山上の説教で「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」と教えられたのは、実にそのことなのであります。私たちは心を貧しくして、神様の御心だけが私達の人生を祝福のうちに導いてくださることを示されるのであります。
アブラハムとサラ夫婦は、自分達の限界を知っていましたから、もはやそんなことはあり得ないとして御心を軽く受け止めたのでした。しかし、その御心は軽いものではなく、実に重い御心でありました。ヨセフさんとマリアさんは、神様の御告げをいただいたとき、自分達の限界ではなく、社会的な立場でありました。御告げが実現するようなことがあれば困ると思ったのです。しかし、マリアさんは一度は躊躇しますが、御告げを受け止めました。「お言葉どおり、この身になりますように」と御告げを信じたのであります。そこにマリアさんの偉大な信仰があるのです。
クリスマスは神様の御告げであると最初に示されました。クリスマスの恵みをどのように受け止めるのか、ということです。もう自分としては限界があるというのでしょうか。社会的立場で受け止めにくいのですが、「お言葉どおり、この身になりますように」と御告げを信じることなのです。例えば、自分の限界を知っていて、御言葉に従えないと思ってしまうとき、神様は私達の限界を超えて導いてくださっていることを知ることです。モーセに、エジプトで苦しんでいる奴隷の人々を救い出しなさいとの御告げが与えられた時、モーセは口下手であるので出来ませんと断りました。あるいはエレミヤに御告げが示されたとき、私は若者にすぎませんと断るのです。しかし、断る原因を神様が導いてくださったのです。自分の力で御告げを受け止めようとしている私たちではないでしょうか。

 パウロという人は、当初はイエス様を信じる人を迫害する人でした。しかし、復活のイエス様に出会い、以後熱心に十字架の贖いを信じ、人々に宣べ伝える者に導かれたのです。そのパウロが、今朝の聖書、フィリピの信徒への手紙3章5節以下で告白しています。「わたしは八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身、ヘブライ人の中のヘブライ人、律法に関してはファリサイ派の中の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです」と証ししています。自分の力、社会的立場は御告げをいただくことには、何も関係ないのです。今の自分、ありのままの私に神様の御告げが与えられているということです。私の能力に対して御告げが与えられるのではなく、わたしの存在に神様が御告げをくださっているのです。
 クリスマスは主イエス・キリストがこの世に現れ、十字架の贖いによりお救いくださる御告げなのです。この今のわたしの姿でこの御告げをいただくことなのです。
<祈祷>
聖なる御神様。救いを与えてくださる御告げを感謝致します。お言葉どおり、この身になりますように。主イエス・キリストの御名によりおささげ致します。アーメン。