説教「賢い者へと導かれる」

2012年11月25日、六浦谷間の集会
「終末主日」「収穫感謝日」「謝恩日」

説教、「賢い者へと導かれる」 鈴木伸治牧師
聖書、イザヤ書26章7〜15節、
   コリントの信徒への手紙<一>1章18〜25節
   マタイによる福音書25章1〜13節
賛美、(説教前)讃美歌54年版・514「よわきものよ」
   (説教後)讃美歌54年版・174「起きよ、夜は明けぬ」


 今朝はいろいろなことを覚える主日です。まず私達の生活の中で「収穫感謝日」であり、長年牧師として働き、今は隠退している牧師への「謝恩日」であります。また、教会の暦では「終末主日」であり、これらのことを覚えながら礼拝をささげています。
まず、本日は「収穫感謝日」であります。ユダヤ教では麦の収穫感謝としての五旬祭、ぶどうの収穫感謝としての仮庵祭があり、その他の国でも収穫祭がおこなわれています。日本では昔、新嘗祭というものがありました。これは皇室の行事であり、今では「勤労感謝の日」とされています。日本の教会が「収穫感謝日」としているのは、アメリカの国が第四木曜日に「収穫感謝祭」を行っているので、11月の第三、または第四日曜日を「収穫感謝日」として礼拝をささげています。神様が私達にお恵みを下さっているので、私たちが日々の歩みを導かれているのです。使徒言行録14章16節以下には、「神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです」と示されています。まさに神様は自然の恵みを通して、私たちを導いてくださっているのです。人間はその恵みを思うことなく、これは自らが植え、育て、収穫したと思っています。しかし、あの小さな種粒から、どうして芽が出てくるのか、その自然の神秘を探ることはできないのです。神様が自然の神秘を導いてくださっているのです。教会在任中、収穫感謝日には子どもの教会も大人の教会も、皆さんが果物、野菜等を持ちより、前方に飾り、神様のお恵みであることを感謝しつつ礼拝をささげました。持ち寄った神様のお恵みは、前任の幼稚園では社会福祉法人の施設にお届けしていました。施設の皆さんにも、神様のお恵みをお分けするという意味があるのです。
 本日はまた「謝恩日」とされています。謝恩とは、長年牧師として歩まれた皆さんが、隠退されて過ごされていますが、隠退された牧師、また遺族への感謝をあらわす日にもなっています。私自身、隠退牧師であり、謝恩日にささげられる献金が年金資金に繰り入れられ、その年金を支給されている現状です。牧師はもともと信徒でありました。神様に召されて教師、牧師になりますと死ぬまで教師の身分になります。隠退しても隠退教師なのです。私も42年間、牧師として歩んでまいりました。まだまだ働かれるではありませんか、と言われますが、そうだとしてもお手伝い程度の働きはできるでしょう。日本基督教団は年金制度を設けています。隠退教師に年金を支給しています。年金の財源は牧師と教会の掛金がありますが、教会の献金で支えることになります。「謝恩日」には謝恩日献金をささげ、年金の財源としています。また、「隠退教師を支える100円献金運動」があります。全国の教会の信徒の皆さんが、毎月100円をささげる運動です。この運動からも年金局に繰り入れ、年金の財源にしているのであります。長年、牧師として働かれた隠退教師を覚えてお祈り致しましょう、と今まで皆さんに呼びかけていましたが、今は受給者であり、この謝恩日を感謝しているのです。
 さらに、本日は「終末主日」であります。来週からは早くもアドベントになります。主イエス・キリストがこの世に到来するのを心から待望するのです。今年のクリスマス礼拝は12月23日であります。アドベントはクリスマスの4週間前から始まるのです。キリスト教の暦はクリスマスをもって新しい歩みが始まります。昨年の新しい歩みは本日の終末主日をもって終わります。そして、来週から新たなる歩みとなるのです。終末主日におきまして、終末を深く受け止めなければなりません。天地宇宙の始まりがあったのですから、天地宇宙の終わりもあるということです。聖書は終末を教えていますが、その時には主イエス・キリストが再び現れて、正しい者と悪いものを選別すると示しています。マタイによる福音書24章43節以下に、「家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」とイエス様がお示しになっています。
 今朝はこのようないくつかの意義を示されながら、「賢い者へと導かれる」のであります。賢い者へと導かれ、神様の祝福をいただきたいのであります。

 今朝の旧約聖書イザヤ書26章は7節からが本日示される聖書ですが、その前の部分1節からは「勝利の歌」として記されています。「その日には、ユダの地でこの歌がうたわれる。我らには、堅固な都がある。救いのために、城壁と堡塁が築かれた」と歌っていますが、これは将来に起こるべきことを預言的に示しているのであり、現実ではありません。このような「勝利の歌」を示されながら、人々の「復活を求める祈り」があるのです。「復活」とは人々の平和の復活と言うことです。人々の祝福の歩みが復活すると言うことなのです。「神に従う者の行く道は平らです。あなたは神に従う者の道をまっすぐにされる。主よ、あなたの裁きによって定められた道を歩み、わたしたちはあなたを待ち望みます」と祈っています。神様の御心に従う歩みは、平坦な道を歩むようだとたとえているのです。イザヤ書40章3節以下に、「主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ」と記されています。新約聖書バプテスマのヨハネがこの言葉を引用して、人々に悔い改めを迫っているのです。「荒れ野で叫ぶ声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」と人々が御心に生きるよう求めているのです。イザヤが「荒れ野」に道を備え、「荒れ地」に広い道を通せと言っているのは、荒廃したような、混乱したような社会にあって、どのような状況であろうとも、御心によって生きる姿勢を促しているのです。そこが荒れ野であっても荒れ地であっても、御心によって力強く生きることを励ましているのです。
 「あなたの御名を呼び、たたえることは、わたしたちの魂の願いです。わたしの魂は夜あなたを捜し、わたしの中で霊はあなたを捜し求めます」と祈っています。現実は荒れ野のような、荒れ地のような状況ですが、その中にあってひたすら御心をもって生きることを求めているのです。「主よ、平和をわたしたちにお授けください。わたしたちのすべての業を、成し遂げてくださるのはあなたです」と確信を持ってお祈りしているのです。荒廃と混乱の社会の中で、主の御心を求めて生きる者こそ「賢い者」であると示しています。

 「賢い者」としての教えを示しているのが今朝の聖書です。マタイによる福音書25章1節以下は主イエス・キリストが終末についての教えとして「十人のおとめの」のたとえによって示しています。「十人のおとめ」のうち五人は「賢いおとめ」、五人は「愚かなおとめ」として示しています。たとえの設定は婚宴の状況です。十人のおとめが花婿さんを迎えるために入口におります。結婚の場合、花婿さんが花嫁さんの家に行き、迎えに行くわけですが、その花嫁さんの家で祝宴が開かれます。そして、花婿さんは花嫁さんを自分の家に連れて行き、そこでもまた祝宴が開かれるのです。十人のおとめは花婿さんを待っています。しかし、なかなか来ませんでした。婚宴は夜に開かれるようで、ともし火を灯して待っています。到着が遅いので、十人のおとめは眠り込んでしまいました。そして真夜中に花婿が到着するという知らせがあります。そこでおとめたちはともし火を整えて迎えるのです。ところが五人の賢いおとめは予備の油を持っていましたが、愚かなおとめは予備の油を持っていませんでした。予備の油を持たないおとめたちは、予備の油を持っている賢いおとめたちに油を分けてくれるよう頼みます。しかし、分けてあげれば、それだけ早く油がなくなってしまうので、店に買いに行くよう勧めるのでした。予備の油を持たない愚かなおとめたちが、油を買いに行っている間に花婿が到着し、門はしっかりと閉められてしまったのです。油を買い求めて帰って来た愚かなおとめたちが「開けてください」と頼んでも開けてもらえなかったというお話です。
「賢いおとめ」は予備の油を持っていたということです。それでは、「予備の油」をどのように考えたらよいのでしょうか。ともし火は油によって明るく輝いているのです。油がなくなれば予備の油を補給するのです。「予備の油」と言いますから、別の存在と理解されますが、油と言うことでは別の存在ではありません。ともし火に使われている油も予備の油も同じものです。ともし火を灯す姿を信仰の人生だとすれば、「予備の油」も信仰の内容になります。ともし火を輝かしている油も「予備の油」も同じ信仰なのです。「予備の油」を持っている5人のおとめは賢い者だとイエス様は示しています。
イエス・キリストは神様の御心をいただき、実践して生きる者こそ「賢い者」であると示しています。マタイによる福音書は5章、6章、7章に主イエス・キリストが集中的に神様の御心を示しています。「山上の説教」とされています。昔の聖書は「山上の垂訓」と称していました。最近の辞書には「垂訓」と言う言葉の解釈はありません。「訓」は教え諭すであり、「垂」は上から下へ下げると言うことですから、御心を教えると言う意味として「山上の垂訓」としたようです。
まず5章の「山上の説教」のはじめは「幸い」について教えています。この幸いは、私達が考える幸福論とは異なり、御心を持って生きるとき、苦しく、悲しみがあり、辛い状況でありましょうとも「幸い」なのですよ、と示します。神様の祝福が基となるからです。その後は、「地の塩、世の光」の教えです。塩のような味のある、腐敗を防ぐ存在となること、そして光のように世を明るくする存在になることを教えています。その後は、旧約聖書以来、律法による生活をしている人々に対して、律法の真の意味を示し、十戒を心に示されながら歩むことを教えています。その他は、「祈り」についての教え、神様のお恵みを知ること等が教えられています。そして、最後のまとめとして、7章24節に、「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである」と述べておられます。御心に生き、実践する人は「賢い者」であるとイエス様も示しているのです。しかし、これらのイエス様の「山上の説教」を聞いて、「はい、わかりました」と言って実践できるのでしょうか。人間はできないのです。そこで諦めるのではなく、できるように導いてくださる原点があるのです。

 もっと具体的に示されるならば、「予備の油」は主イエス・キリストの十字架の贖い、十字架による救いと言うことです。今朝の聖書、コリントの信徒への手紙<一>1章18節以下に「予備の油」の意味が示されています。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」と示されています。世の人々は、十字架の救いについては、まさに愚かなことであります。十字架によって殺されたとしか考えないのです。しかし、この十字架こそ旧約聖書イザヤ書で祈っている「真の平和」であるのです。「主よ、平和をわたしたちにお授けください。わたしたちのすべての業を、成し遂げてくださるのはあなたです」と祈っていますが、神様が主イエス・キリストの十字架により、真の平和を与えてくださっているのです。エフェソの信徒への手紙2章15節以下に、「キリストは、双方をご自分において一人の新しい人に造りあげて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」と示しています。
 「予備の油」が十字架の救いでありますから、燃え尽きる人生であったとしても、「予備の油」を持っているので、注ぎ足しては新しい命を与えられ、再び信仰の歩みへと導かれていくのです。「十人のおとめ」のたとえは、終末に向かう人生の示しです。私達は「予備の油」を持ち、どのような状況にありましょうとも、イザヤ書で示されたように、「神に従う者の行く道は平らです。あなたは神に従う者の道をまっすぐにされる」と祈りつつ歩むことができるのです。「予備の油」を持っているからです。
9月から約二ヶ月間、スペイン・バルセロナで過ごしました。娘がバルセロナでピアニストとして演奏活動をしているからです。滞在中、いくつかの美術館を見学しましたが、主イエス・キリストの十字架像、絵画をこれでもか、これでもかと見せられるのです。ローマのヴァチカンを見学したときにも、十字架の救いを示されるのでした。それに対して、日本のプロテスタント教会には、十字架のシンボルは掲げられているにしても、イエス様の十字架像、絵画を掲げている教会は少ないということです。私達の人生の土台は十字架の救いです。その十字架が「予備の油」になっているのですから、いよいよイエス様の十字架を仰ぎ見つつ歩みたいのです。それが「賢い者に導かれる」道なのです。
<祈祷>
聖なる御神様。十字架の救いをくださり感謝致します。この「予備の油」により、常に賢い者へと導いてください。主イエス・キリストの御名によりおささげします。アーメン。