説教「主に喜ばれる者」

2012年11月18日、六浦谷間の集会
「終末前主日

説教、「主に喜ばれる者」 鈴木伸治牧師
聖書、エゼキエル書34章17〜22節、
   コリントの信徒への手紙<二>5章1〜10節
   マタイによる福音書16章24〜28節
賛美、(説教前)讃美歌54年版・171「なおしばしの」
   (説教後)讃美歌54年版・324「主イエスはすくいの」


 教会の暦は、今年は5月27日が聖霊降臨祭、ペンテコステでありました。そして、次の週が三位一体祭であり、その後は三位一体主日が続くのであります。三位一体主日は11月4日まで続きました。そして、その三位一体主日が終わり、前週の11月11日は終末前々主日であり、今朝は終末前主日であります。そして、次週の11月25日は終末主日となります。ここで教会の一年の暦が終わり、12月2日は降臨節第一主日となりまして、新しい教会の暦になるのであります。教会の暦はクリスマスから始まり、終末主日を持って終わります。教会の暦は、この世のカレンダーのように一年を12ヶ月にわけ、一ヶ月を30日、31日にして歩むのではなく、信仰の励ましとして定められているのであります。クリスマスになれば降臨節であります。イースターであれば、その前はイースターに向かう受難節であり、イースター後は復活節になります。そして、ペンテコステを迎え、三位一体主日が続くのです。主イエス・キリストのご降誕の恵みを示され、イエス様の十字架の贖いと復活の喜びを与えられ、更に聖霊の導きを与えられて信仰の歩みを導くのが教会の暦と言うものです。その教会の暦の中で、終末主日を迎えると言うことは、信仰の総括であり、私達の信仰の歩みを顧みるときなのであります。
 終末とは世の終わりを意味します。世が終わるなどとは考えられないことでありますが、しかし、世の始まりがあったのですから、このまま永遠に世の中が続くことはないということでもあります。終末については科学的にも考えられています。科学的に考えたとき、地球温暖化が指摘され、だんだんと地球が弱くなって、このままでは滅びてしまうと考えられるのです。あるいは宇宙から大きな星が地球と衝突すると言う、あっという間の消滅と言うことも考えられているのです。科学的にも言われていますが、そういう中で聖書ははっきりと終末について示しているのであります。前週の説教の中で、マタイによる福音書25章31節以下の「すべての民族を裁く」と言う示しは主イエス・キリスト御自身が終末について教えているところです。終末に向けて、この世においてどのように生きたか、人の間に生きて、神様の御心を持って生きることを教えておられました。さらに、その前の25章1節以下では、「十人のおとめ」のたとえ話をされています。賢いおとめは、常に終末の備えをしていたこと、愚かなおとめは何の備えを持つことなく、そしてその日が来たとき、祝福から除外されたことを示されていました。その次の14節以下は、「タラントン」のたとえ話です。人にはみな賜物が与えられており、この人生で賜物を大切に、そして十分に与えられた賜物を用いて生きるとき、神様の豊かな祝福が与えられることを教えておられるのです。いずれも終末にあたり、信仰の総括が求められているのです。
 終末前主日を迎えていますが、改めて私の信仰を問い、主の御心に生きて、主に喜ばれる者へと導かれたいのであります。

 私達が今、どのように生きているのか、しっかりと見極めなさいと聖書は示しています。旧約聖書エゼキエル書34章17節から22節の示しです。エゼキエル書は34章1節から「イスラエルの牧者」と言う表題で示されていますが、牧者については1節から16節に示されています。ここでは羊飼いとしての指導者達が職務をないがしろにしていることを指摘しているのです。「牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いもの強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われるものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、過酷に群れを支配した」と指摘しています。聖書の人々の上に立って指導する人々が、自分の欲望に生きて、人々を顧みない姿を神様は痛んでおられるのです。だから、神様は言われます。「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」と言われ、「わたしは良い牧草地で彼らを養う。わたしがわたしの群れを養い、憩わせる」と神様は言われるのです。さらに、「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」と示しています。神様自らが人々を導いてくださることを示しているのです。人間の牧者は、真の牧者になれないのです。
 牧者について示した後は今朝の聖書になりますが、牧者に養われる群れ、人々の生き方を示しています。「お前たち、わたしの群れよ。主なる神はこう言われる。わたしは羊と羊、雄羊と雄山羊との間を裁く」と言われています。ここで「間を裁く」と言われていますが、このことについては前週の説教でも示されています。ルカによる福音書17章20節以下の示しでした。ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねました。イエス様がしばしば神の国についてお話しているからです。イエス様がお話されている神の国はいつ来るのかと言うことです。それに対してイエス様はお答えになりました。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言われました。「あなたがたの間」すなわち「人と人との間」にあると言うのです。「人と人との間」とは、人間関係と言うことです。そもそも「人間」と言っていますが、「人の間」と書いています。この自分はこの人にどのように対処しているかと言うことになります。
 従って、今朝の聖書で「羊と羊の間」と言われているのは、主に養われている羊、すなわち人間関係と言うことになります。「雄羊と雄山羊」と言われていますが、これは異なる羊と山羊の関係でもありますが、群れにおける権力的な存在の関係とも考えられます。人間関係がおろそかにされていることを示しているのです。その姿を具体的に示しています。「お前たちは良い牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒らし、自分たちは澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回すことは、小さいことだろうか。わたしの群れは、お前たちが足で踏み荒らした草を食べ、足でかき回した水を飲んでいる」と人間関係をおろそかにしている姿を指摘しているのです。「間を裁く」と主は言われていますが、人と人との間に喜びがあるのか、しっかりと見極めることを示しているのです。
 無責任な牧者を指摘し、関係を築けない羊を示しながら、人間の生き方を示すのがエゼキエル書です。それなら、どうすれば良いのか。人間はそのような姿を指摘されていますが、救いようのない人間に対して、神様が救いを与えることを示しているのです。人間の牧者ではなく、神様が牧者になることを示していましたが、具体的には一人の存在によって人間を導くと示しているのです。このエゼキエル書では「それは、わが僕ダビデである」と宣言しています。しかし、ダビデは過去の人です。昔現れた名君でありますが、再びダビデを呼び戻すと言うのではなく、今後現れる存在がダビデ的存在として示しているのです。すなわち真の救い主、ダビデのような存在が現れて、人々を導くと教えているのであります。この示しは救い主待望になっていき、メシアの出現を待ち望むようになるのです。

 エゼキエル書ではメシアの出現を示し、そのメシアが祝福へと導くことを示しています。その待望のメシアが新約聖書において出現しています。人々は救い主はダビデ的な名君であり、世の中を平和にしてくれるという希望を持っていました。この時代はローマ帝国の時代です。ローマはカエサルによってヨーロッパ世界を征服し、パレスチナ地方をも支配下においていたのです。ユダヤヘロデ王はローマに対して従順であり、ローマ帝国の権力を背景に安泰を保っていたのです。従って、ローマに税金を納めなければならない、エルサレムの神殿にも献金をしなければならないと言う二重の負担がありました。ローマから派遣されている総督の管理下にあり、一方ユダヤ国家の管理下にあり、権力者たちの要求のままに苦しい生活をしなければならなかったのです。そういう中で、希望は救い主が現れると言うことでした。ダビデのような人が再び現れるという希望を持っていました。マタイによる福音書2章には、イエス様がお生れになったとき、東の国の占星術の学者たちが、「ユダヤ人の王としてお生れになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と言いつつ都エルサレムにやって来たのです。これを聞いたヘロデ王をはじめエルサレムの人々も皆不安を抱いた、と記されています。現実にヘロデ王という存在がいるのです。「ユダヤ人の王」として生まれた存在は、人々にとってダビデ的な存在でありました。しかし、現実の王様がいるのですから、戦いが始まるのではないかと不安になります。
 人々が救い主の出現を待望するとき、それはどうしても王様のような存在なのです。権力のある、世を治めることのできる、そのような強い王様として出現することでした。その思いはイエス様のお弟子さん達も持っていたのです。今朝の新約聖書はマタイによる福音書16章24節以下の示しです。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と主イエス・キリストは教えておられます。その教えの発端は、お弟子さん達の救い主待望を修正するためでした。今朝の聖書の前の部分、21節以下にイエス様が今後起こるべきことを示されています。「ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」のであります。すると、それを聞いたペトロは、イエス様をわきへお連れして、いさめ始めたのです。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言うのでした。するとイエス様は、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と言って叱ったのであります。ペトロはイエス様の召しをいただき、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われて、イエス様のお弟子さんになりましたが、イエス様がダビデ的王様になっていくことに希望を持っていたのです。だからイエス様は「サタン、引き下がれ」と言われたのです。この言葉は、イエス様が荒れ野でサタンから誘惑を受けたときに言われた言葉です。食べることの誘惑、権力の誘惑、支配者の誘惑でした。これらは人間が持つ欲望なのです。ペトロもこの欲望の中にいるわけで、そのため「サタン、引き下がれ」と言われたのです。
 そして、ここでメシアを待望する者の生き方を示しておられるのです。メシアが到来して、世の中を平和に導くと言う受け身的な生き方ではなく、メシアによって積極的な生活が導かれ、真の命、永遠の生命に至る現実の生き方を教えられるのです。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」と示しています。「自分を捨てる」とは、イエス様の御心に生きることです。「自分を愛するように、隣人を愛する」ことです。自分の思いを超えて、人と人との間を生きる、そこに祝福の関係が築かれ、「主に喜ばれる者」として導かれるのです。

 「主に喜ばれる者」との主題で御言葉を示されていますが、イエス様が具体的な例をお話ししています。ルカによる福音書16章には「不正な管理人」のイエス様によるたとえ話が記されています。ある金持ちに一人の管理人がいました。この管理人が主人の財産を無駄使いしているとの告げ口があり、主人は管理人に会計報告を求めるのです。すると管理人は、出入りの業者を呼び、業者が主人から借りているものの証文を書き変えてあげるのです。油100バトス借りている人には50バトスにしてあげます。小麦100コロス借りている人には80コロスに書き換えてあげるのです。これを知った主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめたと記されています。この聖書の理解はなかなか困難で、どうして不正な管理人のやり方を主人がほめたのでしょうか。前任の大塚平安教会時代、一人の方がこの聖書の解釈をめぐって、いろいろと説明するのですが、やはり不正な管理人の振る舞いについては理解できないと言われるのです。どうして主人は褒めたのか。しかし、主人はそのように証文を書き変えても、主人は損をしていないのです。管理人は主人に対して決まった財産収入額を渡しているのです。業者は借金を少なくしてもらったので徳をしています。誰かが損をしている訳ですが、それは管理人自身が損をしているのです。自分の収入を減らして主人に義務を果たし、業者に便宜を計っているからです。主人はその点をほめているのです。すなわち、この不正な管理人は「人と人との間」を大切にしていると言うことなのです。そのためには自分が損をすることもあるのです。「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と教えておられる具体的な例が「不正な管理人」のたとえ話なのです。
 主イエス・キリストの十字架の贖いは、人と人との間が常に平和であるということです。自分の思いを超えて、他の存在を受け入れることです。いよいよイエス様の十字架に励まされ、導かれて「主に喜ばれる者」の歩みを続けてまいりましょう。
<祈祷>
聖なる御神様。私達を十字架によって歩ませてくださり感謝致します。主の御教えを実践しつつ歩ませてください。主イエス・キリストの御名によっておささげします。アーメン。