説教「神の国に生きる喜び」

2012年11月11日、横須賀上町教会
「終末前々主日

説教、「神の国に生きる喜び」 鈴木伸治牧師
聖書、申命記4章5〜14節
   ルカによる福音書17章20〜24節
賛美、(説教前)讃美歌21・358「小羊をばほめたたえよ」
   (説教後)讃美歌21・561「平和を求めて」


 本日は11月の第二主日でありますが、この世的には七五三のお祝いに近い日曜日になります。週日ですと仕事のためお宮参りに行かれないので、今日の日曜日に行くことになります。お宮さんに行ってお参りし、写真を写して記念とし、そのままファミリーレストランに行くと着物を汚しますので、家で着替えをしてから出かける家族が多いようです。前任の教会では11月の第二主日を幼子祝福礼拝としてささげていました。この時期になるとお宮参りで幼稚園を休む子供がありましたので、教会で祝福のお祈りをしますからお集まりください、と幼稚園に呼びかけました。最初のとき、5、60人も園児が祝福を受けたのです。保護者も出席しますから、大変な礼拝になってしまいました。それで、次回からは主日礼拝の中で行うのではなく、金曜日の午後に行うようになりました。教会における祝福は教会員のお子さん、またいつも礼拝に出席されている方のお子さんにしましたので2、3人の希望者に礼拝において祝福のお祈りをするようになったのです。
 前週の第一主日は、日本基督教団では「聖徒の日」(永眠者記念日)としており、それぞれの教会では召天者を記念しつつ礼拝をささげたと思います。その前週11月4日はまだスペイン・バルセロナにおりましたので、家族礼拝でしたが、召天者を覚えつつ「祝福の旅路」として御言葉を示されました。フィリピの信徒への手紙3章20節に「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」と示されています。日本人、スペイン人として国という中に住んでいますが、しかし「本国は天にあります」と示されるように、どこの国の人々も本国、天の国に導かれるのです。そのための人生なのです。すなわち神様から祝福される人生、この世の旅路を歩むことが私達の人生なのです。そのような祝福の人生を歩むよう、幼子を祝福し、神様の御心によって成長する子供たちを祈り、励ましたいのであります。
教会は幼児洗礼式と幼児祝福式を行います。幼児洗礼式は幼児の保護者が信者であり、幼児が成長して自分で信仰の告白ができるまで、祈りつつ信仰の成長を導く保護者の決心として子どもに洗礼を授けます。従って、子どもの意思ではなく、保護者の意思であります。子どもは教会に連なりながら成長し、主イエス・キリストの十字架の救いを自分の救いとして受け止めるとき、信仰告白式をいたします。または堅信礼と言います。大体、中学生や高校生になって堅信礼を受ける場合が多いです。しかし、幼児洗礼を受けているものの、成人しても、または生涯信仰告白をしない人もいます。それに対して幼児祝福式があります。この幼児祝福式は、いわゆる七五三的な祝福ではありません。幼児洗礼を授けないものの、やはり神様のお心にあって成長してほしいという保護者の願いであります。保護者が信者の場合に限らず、信者でなくても幼児祝福式を執行しています。幼児洗礼は子どもに負担をかけるのではないかとの思いで、幼児祝福式に望む保護者もおられるのです。祝福を受けていることが、子どもを励まし、いよいよイエス様のお心に導かれて歩むことを祈る次第であります。
昨年、バルセロナに滞在したとき、ピカソ美術館を見学しました。ピカソの絵というと、なんだか分からない絵を思うのですが、ピカソが晩年になってそのような絵を描くようになりますが、若い頃ははっきりとした絵を描いています。まだ15、6歳のときに描いたという「初聖体」、「慈悲と科学」の作品は賞を取るだけの見事な作品です。「初聖体」とは幼児洗礼を受けた子供が、10〜12歳になると堅信礼をうけ、初めて聖餐を受けることであります。妹ローラの初聖体を描いたものであります。そのときは家族、親族が重大なお祝いとして「初聖体」に臨むのです。実際、私共の娘がカトリック教会で奏楽奉仕をしているので、私達もそのカトリック教会に出席したのですが、ある日曜日の礼拝前に「初聖体」が行われ、終わったところでした。皆さん晴れ姿で、「初聖体」の女の子も花嫁さんのように白いドレスを着ていました。そして、教会の中で記念写真を写していました。子供が神様の御心によって生きる始まりでもあり、一同で喜びお祝いしているのです。
私たちは親として子供の良い成長をお祈りしています。そのため、神様の御心を示し、祝福の人生、旅路が導かれるよう励ます使命があるのです。

 「子どもや孫たちにも神様の御心を語り伝えなさい」とモーセは教えています。今朝の旧約聖書申命記4章5節から14節までですが、神様の御心を持って生きるよう示しているのであります。申命記モーセが神様の御心を人々に示す説教であります。400年間、エジプトで奴隷であった聖書の人々を、神様はモーセを立てて救い出しました。そして、「乳と蜜の流れる土地」カナンへと導いて行くのです。その途上、モーセは神様から御心として示された十戒を基にして、人々が生きるべき道を教えたているのが申命記であります。5節に「見よ、わたしがわたしの神、主から命じられたとおり、あなたたちに掟と法を教えたのは、あなたたちがこれから入って行って得る土地でそれを行うためである」と示しています。「掟と法」と言っていますが、「十戒」を中心にした教え、戒めであります。十戒を守ることが祝福の人生であると示しているのです。
 十戒は特別な教えと言うより、人間の基本的な生き方を示しているのであり、普通の生活をしていれば十戒の示しのように生きていることになるのです。第一戒から第四戒までは神様についての戒めです。神様の他には神様はなく、従って他の神を拝む者は偶像礼拝であり、そのようなことがあってはならないと教えているのです。第五戒から第十戒までは人間関係における戒めです。父・母を敬う、殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、嘘偽りを言わない、欲望を持たないと示していますが、普通の生活をしていれば、これらの戒めは守っていることになるのです。それをあえて戒めているのは、この基本的な人間の生き方ができないからなのです。従って、モーセが神様の御心として、十戒を中心にして教えているのは、人間の基本的な生き方を示しているということです。むずかしい神様の御心を教えているのではなく、普通の生き方を教えているのです。
 この基本的な生き方をしている限り、諸外国の人々も称賛すると示しています。十戒を基として生きるならば神様は近くにいまして導いてくださるとも示しています。「いつ、呼び求めても、近くにおられる我々の神」様なのです。だから、この良き人生を子供や孫たちにも伝えなさいと教えているモーセであります。
 11月は幼稚園の入園受付日になっています。あまり早くから次年度の入園受付をしますと、だんだんとエスカレートしますので、神奈川県は10月15日から願書配布、11月1日に入園受付と定めています。願書配布前でも見学者がいますが、あるお母さんは、ひととおり幼稚園を見学してから、子供に「どうする、この幼稚園にする?」と聞いているのです。子供の見た眼で決めるのも一つの選択肢かもしれませんが、親が幼稚園の方針を理解して決めるべきであり、子供に選ばせるというのは、親の責任を放棄しているようです。親は信じた道を子供にも示し、子供もまた同じ道を歩ませることは大切なことであります。聖書の世界も、常に子供達の指導、十戒を大切に守りながら成長させていたのであります。だから十戒を数え唄のように、十本の指を折りながら覚えさせたと言われます。十戒を守ることが祝福の人生であると言うことです。

 新約聖書で言えば、祝福の人生は「神の国に生きる喜び」なのです。神の国と言えば、なんとなく彼方の世界、天国を心に示されます。実際、神様が支配する国が神の国と言うものです。その神の支配の国は、終末によって実現するとされています。その時には主イエス・キリストが再びお出でになられて、この世を支配するとされています。しかし、主イエス・キリストは現実を神の国として生きる者へと導いてくださったのです。ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねました。イエス様がしばしば神の国についてお話しているからです。イエス様がお話されている神の国はいつ来るのかと言うことです。それに対してイエス様はお答えになりました。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言われました。「あなたがたの間」すなわち「人と人との間」にあると言うのです。
 「人と人との間」とは、人間関係と言うことです。そもそも「人間」と言っていますが、「人の間」と書いています。この自分はこの人にどのように対処しているかと言うことになります。それが十戒が示す基本的な人間の生き方なのです。第五戒から第十戒までは人間関係における戒めです。「殺すな」「盗むな」との教えは、そこに私の他に人がいるからです。人がいなければ十戒は必要はないのです。人がいるから、十戒が必要になるのです。主イエス・キリスト十戒を二つの戒めにまとめました。「神様を愛し、隣人を愛する」と言う教えです。この教えをいただきながら、人と共に生きるとき、その間に神の国が実現できるのです。「神の国はあなたがたの間にある」とイエス様は教えておられます。「自分を愛するように、隣人を愛する」とき、そこに神の国が実現されているのです。
 パウロはローマの信徒への手紙14章17節で、「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」と示しています。美味しいものを食べたり、良い思いをしたりすると「天国にいるみたい」と言いますが、それは自分の満足にすぎません。自分の満足における神の国ではなく、人と人との間における神の国の実現が大切なのです。マタイによる福音書の教えになりますが、25章31節以下の示しが神の国の生き方なのです。王様が右側にいる人々に、「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」と言い、「お前たちは、わたしが飢えているときに食べさせ、のどが渇いているときに飲ませ、旅をしているときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」と言うのでした。すると右側の人たちは、「王様、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか」と疑問を投げかけます。実際、王様にはこのようなことをした覚えがないのです。そこで王様は言われました。「はっきり言っておく。この社会の中で、わたしの兄弟である最も小さい者のひとりにしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言われたのです。つまり、あなたがたは人と人との間に生きて、十戒を実践しつつ生きている。神の国を実現していると言っているのです。この社会に生きているので人と人との間に生きることになるのです。その人と人との間に何ができるのか。憎しみであるのか、排除しているのか。それは自分中心に生きているからです。自分を超えて、隣人を受け止めて生きる、そこに神の国の実現があるのです。「神の国に生きる喜び」が与えられるのです。
 この右側の人たちに対して左側の人たちにも王様は言っております。つまり、「お前たちはわたしに何ひとつしてくれなかった」と言うのです。すると、左側の人たちは、いつも王様のおそばに仕えて、王様のために尽くしていると言い張ります。しかし、王様に仕えても人と人との間には生きていなかったのです。ルカによる福音書6章46節に、「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」とイエス様が戒めています。主イエス・キリストの十字架の贖いを信じ、救われた者は人と人の間に生きるのです。その間にはいつも神の国が実現されていくのです。「神の国に生きる喜び」をいつも与えられているのです。

 9月10日から約二ヶ月間、スペイン・バルセロナで過ごしてきました。娘がピアノの演奏活動していますので、昨年も行ったのですが、この先、年齢を増し加えて、行かれなくなりますので、行かれる今のうちに行くことにしたのです。日本人が欧米に行くと、戸惑うのは挨拶です。人と人とが出会いますと、ハグをして、頬をすりよせ合って挨拶するのです。私の場合は男性なので握手で済ますこともできますが、わたしに対しても頬をすりよせて来られる方もあります。最初は戸惑っていましが、いつもそのような挨拶をしていると、自然に抱擁するようになります。また、あちらの人たちは良くお話しをします。何をお話ししているのか、大きな声で話しているのです。日本人は多くの場合、挨拶は会釈であり、お話もあまりしないと言うデータがあります。それはそれでよろしいのですが、人と人との間は祝福された関係を作りたいのです。
 人間の基本的な生き方、「十戒」を示されて生きることが「神の国を生きる喜び」が与えられるのですが、「はい、分かりました」と言って、そのように生きることができるのか。出来ないのです。人間は常に自己満足、他者排除に生きているからです。そのために主イエス・キリストは十字架にお架りになって、私達の自己満足、他者排除を滅ぼし、「神の国に生きる喜び」へと導いてくださっているのです。
<祈祷>
聖なる御神様。神の国へのお導きを感謝致します。世界の人々がこの神の国に生きる喜びを得させてください。主イエス・キリストの御名によりおささげ致します。アーメン。