説教「お導きに委ねつつ」

2023年12月31日、六浦谷間の集会

降誕節第1主日

                      

説教・「お導きに委ねつつ」、鈴木伸治牧師

聖書・イザヤ書11章1~10節

   ガラテヤの信徒への手紙3章26-節-4章7節

   マタイによる福音書2章1~12節

賛美・(説教前)讃美歌21・254「小鳥も飛び去る冬のさなか」

   (説教後)讃美歌21・510「主よ終わりまで」

今朝は2023年の最後の礼拝です。歳晩礼拝とも称しています。この一年を振り返って、いろいろなことを思い出しています。今朝は東の国の占星術の学者さんたちがイエス様にお会いし、喜びにあふれたことが示されています。その出会いが「顕現祭」、「公現日」、「栄光祭」とされています。外国では、特にこの顕現祭が大事にされています。

どこの国の人々もお祭り騒ぎが大好きです。日本では、秋には各地でいろいろなお祭りがありますが、10月にはハロウィンのお祭りで賑やかになります。ハロウィンが終わるやクリスマスのお祭りです。そして、お正月を迎えるのです。お正月はお祭り騒ぎと言うより、いろいろな行事があり、それはそれで楽しいのです。そして春を迎えるのですが、キリスト教の国ではカーニバルのお祭りがあります。イエス様が十字架への道を歩む前に、その時はイエス様のご受難を示されます。質素の生活をしますので、その生活が始まる前においしい食べ物を食べましょうということでカーニバルが開かれるのです。それは来年のことですが、まもなくお正月になり、神社仏閣には大勢の人々が出かけるようです。いつもテレビでその模様を見ていますが、混雑することは分かっていながら、皆さんは出かけるのです。大勢の人々との触れ合いが喜びなのでしょう。前週はクリスマス礼拝でした。久しぶりに大塚平安教会の講壇に立たせていただき、メッセージを取り次がせていただきました。礼拝後の祝会では皆さんと共にお祝いしました。皆さんと共に喜びを与えられたのですが、その様な喜びと共に、私たちは本当の喜びを与えられているのです。それはお生まれになられたイエス様にお会いすることです。救い主であるイエス様との出会いが、本当の喜びであるのです。今朝は東の国の占星術の学者たちがイエス様にお会いし、喜びにあふれたと示しています。私達も喜びにあふれる導きをいただきたいのであります。

 旧約聖書イザヤ書11章ですが、「平和の王」について示しています。聖書の国である南ユダは、当時大国として力を振っていたアッシリアの国に支配されるようになっています。その前に、同じ聖書の国であった北イスラエルはこのアッシリアによって滅ぼされてしまっていました。南ユダは滅ぼされないで支配されることになったのです。いわば降伏したからです。アッシリアに支配されていることは、支配されるままに生きることで、もはや戦いの心配もないわけですから、いわば平和の社会にもなっていたということです。そのような力における平和に生きる人々に、イザヤは真の平和を宣べ伝えているのが今朝の聖書であります。

 「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」と示しています。エッサイの子どもがダビデであり、このダビデが成長して名君となりました。神様のお心をもって人々を支配し、導いたのであります。ダビデが油注がれた者として人々に救いを与えたのであります。これは昔のことでありますが、今また、神様はダビデのような救い主、メシアを出現させると言っているのです。そのメシアは、「目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する」存在であることを示しています。メシアを待望して歩むことが大切であると示しているのです。

 さらにメシアが現れると、それこそ力の平和ではなく、真の平和が与えられることを示しているのです。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く」と示しています。これこそ「平和」を示しているのです。小さい子供は攻撃する力はありません。しかし、その姿こそ力であり、神様の平和を示しているのです。インドの聖人とされているガンディーは「非暴力主義」で自由を勝ち取った人でした。戦いではなく、存在そのもので相手の前に立ちはだかったのでした。そして、アメリカのマーチン・ルーサー・キング牧師も、非暴力主義で人種差別撤廃運動に立ちあがったのでした。イザヤ書が「獰猛な野獣を子供が導く」と言っているのは、そのことであります。神様の平和が与えられているからです。「牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛も干し草を食らう」と平和の姿を示しているのです。

 主イエス・キリストがこの世に現れた時、神の子として、救い主として現れました。それは今朝のイザヤ書11章で預言されている「平和の王」そのものでした。人々に真の平和を与える存在として現れたのです。しかし、当時の世界はローマが支配者であり、初代皇帝になったアウグストゥスは人々から「平和の王」としてたたえられたのです。その時代に主イエス・キリストが現れた意味を聖書は深く示しているのです。「平和の王」は人間ではなく、メシアこそ真の平和を与えるものであると示しているのです。人間の「平和の王」は消えて行きましたが、メシアの「平和の王」は今日にありましても平和の基を導いておられるのです。その「平和の王」はイザヤが示すように「弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する」のであります。

現実の生活の中に神様の救いの「しるし」を見たのは、マタイによる福音書の証言は東の国の占星術の学者であったということであります。占星術の学者とは、ペルシャの国のゾロアスター教の祭司と言われます。彼らは天文学、薬学、占星術、魔術、夢解釈を行う人たちでした。当時の学問に通じた学者でありました。従って、ユダヤ教には関係ない人たちでしたが、彼らの生活の中で神様の「しるし」なるものを知ったのでありました。祭司の働きをしていますから、何事も神託を求めていたのであります。星を見つめているとき、今まで見たこともない星を見つけます。学者達は毎日、星空を見上げては、今日はどんな星が出ているのか、強い光の星、弱い光の星、大きい星、小さい星を見つめていたのです。不思議な星と思える星を見たとき、彼らはすぐに御神託と示されたのであります。神様が救い主を生まれさせてくださったと理解したのであります。そして、すぐに不思議な星、神様が日常の生活の中に与えた「しるし」の星を目指して旅立ったのであります。

 こうして遠い東の国、ペルシャからユダヤにやってまいりました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と人々に聞いて歩くのです。これを聞いたユダヤの人々は驚きました。今はヘロデという王様がいるのに、また新しく王様が生まれたのかということです。嫌な予感がします。ヘロデ王も学者達の言っていることを耳にします。穏やかなことではありません。早速、学者たちを呼び、「見つかったら知らせてくれ。私も行って拝もう」と学者達を送り出したのでありました。学者達は星に導かれて、ついに幼子のいる場所に来たのでした。学者達は喜びにあふれたと報告しています。いかにも物語でありますが、マタイのメッセージとして示されなければなりません。

 学者達が家に入ってみると、幼子はマリアと共におられたのであります。ルカによる福音書は、イエス様の生まれた場所は馬小屋であったと示していますが、マタイによる福音書は普通の家であります。普通の生活が営まれる家の中に生まれたということであります。学者達はひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげたのでありました。そして、このことを王様に知らせることなく、別の道を通って帰って行ったのでありました。ユダヤの普通の人々の生活の中に救い主がお生まれになったのであります。普通の生活の中に、神様の救いの「しるし」を受け止めなければならないのです。しかしユダヤの普通の人々は、自分達の普通の生活の中に、神様の救いの「しるし」を受け止めることができなかったのであります。神様が世の人々をお救いになるために、御子イエス・キリストをこの世に生まれさせたとき、聖書の人々ではなく、外国の人が最初にイエス様にまみえたと報告しているのであります。

 マタイによる福音書に示されている占星術の学者さん達について示されています。彼らは「お導きに委ねつつ」歩んだとき、ついに救い主とお会いすることができました。しかし、この記録の中に、間違いがあったことも聖書は記しているのです。星の導きは「先立つお導き」でした。彼らが都に入ったとき、その時は星の導きはなかったのです。星の導きに委ねていれば都に入ることはなかったのです。ところが彼らは星の導きではなく自分の思いを優先させたのでした。救い主であるから都に出現したのであろうとの思いです。それは自分の思いなのであり、先立つお導きではありませんでした。従って、彼らが都を出たとき、再び「先立つお導き」の星が現れたと記しています。先立つお導きに委ねて歩むこと、そこに祝福の人生があることを示しているのであります。私達の生活の中に先立つお導きが与えられているのです。お導きに委ねつつ歩まなければなりません。

 今朝の歳晩礼拝において、今年の歩みを振り返っていますが、「お導きに委ねつつ」の歩みであったか、反省しなければなりません。新しい年が始まりますが、自分の生活設計もありますが、いつもお導きに委ねつつ歩みたいのであります。私たちのお導きはイエス様の十字架であります。

<祈祷>

聖なる神様。この一年のお導きを感謝致します。新しい年もお導きに委ねつつ歩ませてください。キリストのみ名によりおささげします。アーメン。

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