説教「御心に適う者として」

2019年1月6日、六浦谷間の集会 
降誕節第2主日」 公現日(栄光祭)

説教・「御心に適う者として」、鈴木伸治牧師
聖書・ヨシュア記3章1-17節
    使徒言行録10章34-48節
     ルカによる福音書3章15-22節
賛美・(説教前)讃美歌21・278「暗き闇に星光り」
    (説教後)讃美歌21・475「あめなるよろこびに」

 今朝の1月6日は公現日、栄光祭です。本来はエピファニーと言われています。エピファニーとはギリシャ語で「出現」という意味です。その意味から、エピファニーは「示す」、「明らかにする」との意味もあり、この日によってイエス様の出現が明らかにされたということになるのです。この1月6日に占星術の学者たちがイエス様にお会いしたのです。そして、占星術の学者たちはお会いした救い主イエス様について、世の人々に告げたのでした。外国では、このエピファニーが盛大に祝われるところが多くあります。口語訳聖書は博士と訳されていましたが、新共同訳聖書は「占星術の学者」と訳すようになります。しかし、キリスト教の国では「賢者」と称する場合が多いようです。スペインではレイジェスと称しています。レイジェスとは「王様」の意味になります。単に学者とか賢者ではなく王様が救い主イエス様を知らせてくれたということになるのです。私たちは公現日としていますが、外国では顕現祭と称しています。その顕現祭をスペインでは「レイジェスの日」としています。
その顕現祭をスペイン・バルセロナで体験しました。私どもの娘がスペイン・バルセロナにいますので、2014年の10月より約三ヶ月滞在しました。クリスマスを体験し、そして顕現祭、レイジェスの日を体験することができました。レイジェスの日、すなわち1月6日に三人のレイジェス、王様が船に乗ってバルセロナに来るのです。その三人はいろいろな人です。必ず一人は黒人とされているようです。三人の王様は大勢のお供を連れて広場にやってきます。広場にはレイジェスが座る場所があり、そこに座して人々を見つめているのです。お供の人たちが押しかけた群衆にお菓子のプレゼントをふるまっています。その群衆たるや、それはそれは大勢の人々が広場に集まるのでした。本当は私達もレイジェスを見たかったのですが、大勢の群衆で危険であるからと娘が言うものですから、家でテレビによりその模様を見たのでした。本当に現場に行かなくて良かったと思うほどの人出でした。この顕現祭には子供たちは、クリスマスのようにプレゼントがもらえるということでした。
エス様がお生まれになられたクリスマスは、もちろん大切であります。しかし、お祭り騒ぎをするのはレイジェスの日であり、クリスマスはイエス様のご降誕としても信仰を持って受け止める日なのであります。外国でもクリスマスが近づけば、それなりに飾ってクリスマスの備えをします。クリスマス物語である馬小屋に、ヨセフさんとマリアさんが飼葉桶を見つめています。そこにはまた羊飼いや博士たちも飼い葉桶を見つめているお人形さんを飾っています。教会の中にも飾られているのです。しかし、12月25日前は、飼葉桶にはイエス様がいないのです。そして25日はクリスマスのミサが行われますが、聖壇には赤ちゃんイエス様のお人形が置かれています。飼い葉桶にもイエス様がいるのです。いよいよイエス様がご降誕になられたという喜びのミサなのです。ミサが終わると、神父さんが抱くイエス様のお人形にキスをしては、喜びつつ帰って行くのでした。ですからクリスマスにはパーティーとかプレゼントはあまり前面に出てこないのです。そして、顕現祭になると、大騒ぎしてお祝いするのでした。印象では、もはやイエス様のご降誕が知らされるということより、王様の出現で大騒ぎしているようでした。
今朝は公現日、イエス様の出現が世界の人々に知らされたという日として、この日の意義を示されたいのであります。イエス様の出現は、私達が神様のお心によって歩むことを導いているのです。イエス様ご自身が「御心に適う者」として歩まれたということです。

 神様のお導きが大いなる救いを与えてくださることは、聖書が報告している通りです。まず旧約聖書ヨシュア記に示される神様の導きを示されています。ヨシュア記は、エジプトで奴隷であった人々が神様によって立てられたモーセにより脱出し、一路カナンを目指して歩んでいるのでありますが、今はモーセの後継者ヨシュアを指導者としています。モーセの後の指導者として、若きヨシュアは不安を覚えながらも神様のお導きに委ねて歩んでいるのです。今朝はヨルダン川を渡る聖書の人々です。ヨルダン川を渡ることは約束の土地カナンに進入することになるのです。今、そのヨルダン川を前にして宿営しています。春の刈り入れの時期で、ヨルダン川の水は堤を超えんばかりの水嵩であったと言われます。従って、ヨシュアの悩みは、このヨルダン川をどのようにして渡るかということでした。しかし、ヨシュアは神様の導きを信じていたのであります。まだ、神様の導きが与えられていませんが、必ず導きがあることを信じて、人々に命令するのであります。ヨシュアは、「あなたたちは、あなたたちの神、主の契約の箱をレビ人の祭司たちが担ぐのを見たなら、今いる所をたって、その後に続け。契約の箱との間には約2千アンマ(900メートル)の距離を取り、それ以上近寄ってはならない。そうすれば、これまで一度も通ったことのない道であるが、あなたたちの行くべき道は分かる」と人々に示したのであります。神様がどのように導いてくださるか分かりません。ヨルダン川を前にして、もう三日も経っています。神様の導きを信じて歩み始めたのであります。前方は水嵩があふれるほどのヨルダン川なのです。さあ、どのようにしてヨルダン川を越えてカナンに入って行くのでしょうか。いつまでも考えているのではなく、神様の導きを信じて動き始めることなのです。
ヨシュアが動き始めた時、神様はヨシュアに言いました。「今日から、全イスラエルの見ている前であなたを大いなるものにする。そして、わたしがモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたは、契約の箱を担ぐ祭司たちに、ヨルダン川の水際に着いたら、ヨルダン川の中に立ち止まれと命じなさい」と言われたのであります。神様を信じて腰を上げたヨシュアに対する祝福であります。箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると、川上から流れてくる水は、遥か遠くの方で壁のようになったというのです。川床は干上がりました。それにより聖書の人々はヨルダン川を渡って行ったのであります。まさに水からの救いでありました。この経験は二度目ということができるでしょう。それはモーセの時代でした。奴隷から解放されて、神様の約束の土地へと旅を始めたとき、後ろからエジプトの軍隊が追ってきたのです。しかし、前は紅海という海でした。どうすることもできません。その時、神様は海の水を分けました。干上がった海底を人々は歩き、ついに向こう岸に達したのです。渡り終えると、エジプトの軍隊も後を追って海底を渡ってきますが、神様は水を元に戻したので、軍隊はおぼれてしまうのです。水からの救いを既に与えられているのです。今、ヨシュアは人々を促して、行くてはヨルダン川ですが、神様の導きを信じて歩み始めたのでした。大いなる神様の導きを与えられたのであります。またもや水からの救いを与えられたのでした。
聖書において、水の救いは意味深く示されています。まず創世記においてエデンの園から流れ出る四つの川があります。それらの川により人間は命をはぐくむのであります。そして、創世記には悪を滅ぼすノアの洪水物語が示されています。エゼキエル書にも神の都から流れる命の水が示されているのです。詩編にも黙示録にも、命の川のほとりに植えられている木について示しています。水は悪を滅ぼし、命を与え、水の中を通ることにより救いが与えられることを示しているのであります。

 新約聖書はイエス様が成人した状況になっています。イエス様が洗礼を受け、そして人々に現れて、神様の救いの御心、福音を宣べ伝えて行くことが始まるのであります。
 まず、バプテスマのヨハネについて示しています。ヨハネはイエス様より先に生まれ、そして先に人々に現れました。神様の御心に生きるよう、人々に悔い改めを迫るのであります。厳しく神様の御心に生きるよう示すので、人々はヨハネに質問するのです。「わたしたちは、どうすればよいのですか」と尋ねた人に、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物をもっている者も同じようにせよ」と諭しています。徴税人に対しては、「規定以上のものは取り立てるな」と示しています。兵士に対しては、「誰からも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と教えるのでした。厳しく神様の御心をもって諭すヨハネに対して、人々は彼がメシアではないかと思うのです。それに対して、ヨハネは救い主、メシアはこの後に現れることを示しています。今は水で洗礼を授けているが、後から来られるメシアは聖霊と火で洗礼を授けて下さるというのです。このように救い主の出現を予告するヨハネでありましたが、彼は悪を悪とはっきりと示しました。時の領主ヘロデがよからぬ生活をしているので、はっきりと悪であることを指摘しました。それで領主ヘロデは彼をとらえて牢に入れてしまうのです。
 洗礼を授けているヨハネのもとにイエス様もやってきました。そしてヨハネからイエス様も洗礼を受けるのです。ヨハネとイエス様のやり取りについては、ルカは割愛しています。マタイによる福音書によりますと、イエス様がヨハネさんから洗礼を受けようとすると、「わたしこそ、あなたから洗礼をうけるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」とヨハネさんは言いました。それに対してイエス様は、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と言われました。
 洗礼は罪の悔い改めであるのに、主イエス・キリストが洗礼を受けるということは、では主イエス・キリストも罪があったのか、との素朴な疑問がもたれます。ヨハネはイエス様に言いました。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」それに対して、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」とイエス様は言われたのであります。つまり、主イエス・キリストがこの世に現れたのは人間として現れたということです。人間であれば、人々が持つ罪の方向は当然持ち合わせているということです。このことはその後のマタイによる福音書4章1節以下でも示されるとおりであります。悪魔との戦いは、人間として持つ欲望との戦いであったのです。この誘惑については後に示されます。人間として通らなければならない道を歩み、悪を退け、神様のお心に従うことであります。主イエス・キリストは常に神様に向かい、御心を仰ぎ、実践してゆく姿勢であります。イエス様が洗礼を受けると、天がイエス様に向かって開き、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえたのでありました。神様が「わたしの心に適う者」と言われたとき、主イエス・キリストは死に至るまで、神様に心を向けて歩まれたのであります。御心を仰ぎ、従う主イエス・キリストは十字架の死に至るまで従順でありました。イエス様はゲッセマネの園で祈りました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られ、すべては御心に委ねたのであります。イエス様の洗礼は人間として必要な道順でありました。新しい命に生きるために、洗礼を受けることが出発点になるのです。
 バプテスマのヨハネが授けた洗礼の意味は、神様の御心に生きる決心のしるしであります。それに対して主イエス・キリストの名による洗礼は、単に決心というのではなく、イエス様の十字架の贖いが、私の罪をぬぐい去ったことを信じるのです。イエス様の十字架の死と共に、私が持つ罪の姿、自己満足、他者排除を滅ぼされたのであります。私達は十字架を仰ぎ見て、救いの確信を与えられるのであります。イエス様が十字架により、私に福音が告げ知らされるのです。

 先ほどもスペインの「レイジェスの日」についてお話ししました。レイジェスは王様であり、本来はその王様がイエス様にお会いしたということで喜びの日なのであります。しかし、そのことはあまり前面に出てこないで、レイジェスがプレゼントを贈ってくれることが中心になっているようです。羊子と結婚した彼はスペイン人ですが、レイジェスの日に友達から電話があり、子供が寝ないので、レイジェスとして電話で話してほしい言うことでした。それで彼はレイジェスとして、プレゼントはみんなが寝ている時に配るので、あなたも早く寝なさいとお話しするのでした。プレゼントを与えてくれるレイジェスは、日本ではサンタクロースです。イエス様のお生まれになったことの喜びよりも、サンタクロースの贈り物が中心になります。幼稚園の園長在任中、いつも考えさせられていたのですが、子供たちにプレゼントをあげすぎるということでした。クリスマスには礼拝をささげ、イエス様がお生まれになったページェントを全員で演じるのですが、その後はサンタクロースの登場となります。幼稚園からのプレゼント、父母の会からのプレゼントがあり、楽しいクリスマスになるのであります。
 私達の本当の喜びは、私たちが救われるということであります。救われるということは、日々十字架を見つめて、喜びの人生へと導かれることなのです。そのために救いの原点であります洗礼をうける者へと導かれたのです。
 洗礼を受けるということ、福音が告げ知らされる始まりです。それは自分の欲望に捕われない生き方へと導かれるからです。聖書には「古い人、新しい人」について示しがあります。古い人とは、聖書で言えば、自分の欲望のままに生きる人です。それに対して、「新しい人」というのは、自分ではなく、自分の思いを超えてイエス様の御心に生きようとすることなのです。「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」との教えをいただいて生きるとき、その時こそ「御心に適う者として」の人生なのです。
<祈祷>
聖なる神様。新しい年を歩み始めました。新しい命をいただいて、多くの人々に証しすることができますよう導いてください。主イエス・キリストの御名により。アーメン。