説教「お恵みが見えるので」

2023年1月22日、三崎教会

降誕節第5主日

                      

説教・「お恵みが見えるので」鈴木伸治牧師

聖書・民数記9章15-23節

   ルカによる福音書4章16-21節

賛美・(説教前)讃美歌21・287「ナザレの村里」

   (説教後)讃美歌21・403「聞けよ、愛と真理の」

 毎年、「新しい年が始まり、希望を持って歩みましょう」という挨拶を以前はしていましたが、最近は、今年も不安や心配が強まってきている状況です。いつまでも戦争が続いており、日本の国も軍備を強めている状況です。コロナ感染もまだまだ続いています。毎日のニュースは殺人と言う暗い報道が多く、食事時にテレビを見るものなら、暗いニュースばかりなので見ないことにしています。詐欺に気を付けましょうと言われていますが、最近は「私たちは騙されない」としていますが、以前は「私は騙されない」でした。みんなで気を付けましょうと言ことなのでしょう。戦争にしても詐欺にしても、言葉を信用する、しないことから始まっていくのであります。人間として、お互いに言葉を信用しつつ歩みたいのであります。詐欺ということでは、私が若い頃、私の母が詐欺にあったことが思い出されます。ある日、私を訪ねてきた若い男が母に「お兄さんいますか」と言いました。母は「伸治(のぶはる)のことですか。今は出かけています」と言うと、その男はそれからは「伸ちゃん」というようになり、母はすっかり信用してしまうわけです。結局、幾らかのお金を渡したのでした。もちろんそのような男は知りませんので、交番に母と共に出かけて行き、詐欺にあったことを届けたのでした。いつの時代でも、人をだましてお金を巻き上げることがありますが、今の時代は気が遠くなるようなお金が巻き上げられているのです。人の言葉は信用できないのです。まして知らない人の誘いの言葉は信用できないということです。しかし、人間の中に生きているのですから、基本的には人間を信用しなければならないのです。信じるの「信」は人偏に「言う」と書きますから、人の言葉は信じるに値する、ということから「信」の言葉ができているのです。人間の言葉を信用する基となるのは、私達にとって神様の御言葉であるということです。神様の御言葉が基となって、人間の言葉を信用し、共に生きる者へと導かれたいのであります。今朝の聖書もイエス様のみ言葉を信じる人々、信じない人々を示しています。イエス様のみ言葉を信じて歩むことで、神様のお恵みが見えますよと今朝は示されています。

 何事も神様のお言葉を信じ、お導きに委ねて歩んだのは旧約聖書の人々、モーセに導かれて荒れ野の旅をしている人々でありました。民数記9章が今朝の示しであります。民数記は奴隷の国エジプトから神様の約束の土地カナンに向かう途上のことが記されています。大勢の人が荒れ野を旅してカナンに向かっているのです。モーセが指導者ですから、何事もモーセに相談しているのです。しかし、モーセ一人では到底治めきれない状況でした。それでモーセの奥さんの父・エテロの勧めで、それぞれの責任者を立てることになったのであります。これは当然なことでありますが、多くの民族が一つになること、それはモーセを中心にそれぞれの責任者の導きでありますが、しかし、やはり神様の御心をいただいての歩みでした。

 聖書の人々は常に幕屋を中心にしていました。幕屋の中には神様がくださった十戒が箱に収められているのです。そして、旅する時はいつも十戒の箱を先頭にして進んでいたのです。幕屋とはテントのことですが、いわば移動式お宮さんと言うことになります。旅をしてきて宿営をする時、まず幕屋を建てます。そこに十戒を安置し、そして自分たちのテントを張るのでした。今朝の9章15節は幕屋を建てた日としています。旅を進めてきましたが宿営することになり、早速幕屋を建てました。すると雲が天幕を覆ったのであります。幕屋の上にあり、朝まで燃える火のようであったと言います。この雲が天幕を離れて天に昇ると聖書の人々は旅立ち、雲が一つ場所にとどまると、そこに宿営するのです。雲が幕屋の上にとどまっている間、人々はそこに宿営していました。その雲が一ヶ月でも何日でも幕屋の上にとどまっている間は宿営を続けていました。しかし、昨日宿営したばかりなのに、朝になったら雲が離れたので、すぐに旅立つのでした。雲の動きが神様の御心であったのです。いわば雲の動きこそ神様のご命令であり、自分たちの判断では動かなかったことを示しているのであります。何事も神様のお導きに委ねていたことを示しているのであります。

 このように雲の動きが神様の導きであるとは旧約聖書の示しでありますが、新約聖書は、私達が主イエス・キリストの導きに委ねることが示されているのです。旧約聖書は雲の導きなのですが、聖書の人々が神様の導きに委ねていることがメッセージなのであります。私たちにとって神様の導きは主イエス・キリストの示しであります。

 今朝の聖書は、イエス様が神様の御心を人々に示し始めたことが記されています。しかし、イエス様の教えを受け入れなかった人々をも記しているのです。イエス様はベツレヘムで生まれましたが、その後、ヨセフさんとマリアさんは自分たちの町ガリラヤのナザレで住むことになります。イエス様はそこで成長します。その成長の過程は割愛されていますが、今朝の聖書はいよいよイエス様のお働きの開始なのであります。まず、イエス様は育ったナザレで神様の御心を示されたのでした。会堂で教えを始めるとき、預言者イザヤの巻物が渡されたと記しています。ユダヤ教におきまして会堂で礼拝をささげますが、まずモーセの律法書が読まれ、次に預言書が読まれることになっています。イエス様はイザヤ書を渡されると、その中の言葉を読まれました。「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」との言葉を読まれました。これらはイザヤ書に記されているのではなく、他の場所からも合わせて読んでいるのです。このイザヤの言葉を読み、まさにイエス様ご自身の使命をお話されたのでした。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とはっきりと述べるでありました。

エス様の福音とは何なのか。貧しい人に福音を告げ知らせるためであると申します。ルカによる福音書はイエス様が「貧しい人への福音」を述べるとき、そこにはいつも「飢えている人」、「泣いている人」、「迫害される人々」を示し、貧しい人の意味が示されています。イエス様より先に現れて神様の御心を人々に示したバプテスマのヨハネですが、改めてイエス様に尋ねています。「来るべき方は、あなたでしょうか」と尋ねたので、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、耳の聞こえない人は聞こえ、病の人は良くなり、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」とお応えになっています。従って、人々は自分が「貧しい者」であることを受け止めなければならないのです。私たちは「貧しい者」であることより、いつも「豊かな者」になろうとしているのです。私達はイエス様の示される「貧しい人」にならなければならないのです。イエス様は示されています。私たちが「見える」と言っているとき、「本当に見えているのか」と言うことです。自分の好みしか見ていない私達なのです。

 私達は自分が「貧しい人」であることを知らなければなりません。目が見えないで真実を見失っている自分を知らなければならないのです。病気であるのに、その痛さを隠そうとしているのです。泣いているのに、人に分からないように笑っているのです。自分の弱い姿、それが貧しい姿なのですが、その貧しさを隠すことなく、主イエス・キリストの前に差し出すことが必要なことなのです。イエス様はそのために現れたと言われているのであります。神様の御心をしっかりと受け止めることは、自分が貧しい者であることを知ることであります。人と比較して、どうして自分の弱い姿を悲しむのでしょうか。人より遅れているということで、どうして自分を嘆くのでしょうか。この世に生かされているのは私なのです。神様は私に生きる力を与えてくださっているのです。他者と比較する必要はないのです。人は皆違う生き方があるのであり、同じように生きる必要はありません。私の貧しさのために、イエス様が十字架によって担ってくださり、私を導いてくださっているのです。

 ヨハネによる福音書9章には「生まれつきの盲人を癒す」イエス様について記されています。生まれつきの青年の盲人がイエス様に出会います。イエス様は青年が見えるようにしてあげるのです。すると人々はこの青年は生まれつき目が見えないことを知っているので、何故見えるようになったのか不思議に思い、本人に聞いたり、両親に聞いたりします。青年がイエス様によって見えるようになったと言っても人々は信じないのです。ついに社会の指導者たちがイエス様に、青年が見えるようになった理由を聞くのです。その時イエス様は、「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」と言われたのであります。すると指導者たちは、「我々も見えないと言うのか」と反論します。「あなたがたが見えると言っていることで罪は残る」とイエス様は言われたのでした。つまり、見えると言いながら、自分の好みしか見ていないことを指摘されているのです。ここでの聖書は、イエス様との出会いによって、お恵みが見えるようになることを示しているのであります。イエス様の救いのお言葉をしっかりといただき、信じて歩むことを示されたのであります。

<祈祷>

聖なる御神様。貧しい私達をお招きくださり感謝致します。イエス様のお恵みを見つめ歩ませてください。キリストの御名により。アーメン。

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