説教「神様のご計画」

2019年11月3日、六浦谷間の集会
「降誕前第8主日」、聖徒の日



説教・「神様のご計画」、鈴木伸治牧師
聖書・創世記3章1~7節

   ローマの信徒への手紙7章7~13節
   ヨハネによる福音書3章16~21節
賛美・(説教前)讃美歌21・57「ガリラヤの風かおる丘で」

   (説教後)讃美歌21・303「丘の上の主の十字架」

 


 今朝は、日本基督教団は「聖徒の日」(永眠者記念日)として定められています。今は天におられる方々と地に生きる私たちが共に神様を礼拝しているのであります。そして、今は天にある人々が信仰に力強く生きられて証を残されたように、私達もやがて天に召される者として、信仰の歩みをいよいよ踏みしめたいと願うのであります。
本日は11月3日ですが、10月31日は宗教改革記念日であります。10月31日といえば日本でもハロウィンで大騒ぎしていますが、若い皆さんのお祭り騒ぎでもあります。私たちは宗教改革の意義を深く示されたいのであります。宗教改革記念日と申しますと、この日によってプロテスタント教会が存在するようになったのです。それまでの教会をローマ・カトリック教会と称しています。カトリックと言うのは「公同教会」と言う意味です。カトリック教会を旧教と言い、プロテスタント教会を新教と言うのは間違いです。プロテスタントと言うのは、「プロテスト」、「抗議した」と言うことです。今までのカトリック教会に抗議してできたのがプロテスタント教会と言うことになるのです。16世紀にプロテスタント教会ができたのですが、まだ500年の歴史です。それに対してカトリック教会は紀元313年にキリスト教が公認されてからの歴史だとすると、1300年の歴史を歩んでいたのです。
カトリック教会に対して抗議してできたのがプロテスタント教会なので、今もキリスト教でも仲が悪いのかといえば、そうではありません。今は、お互いの信仰を尊重して歩んでいます。今は新共同訳の聖書を用いている教会が多くなっています。新共同訳聖書はカトリックプロテスタントが共に訳した聖書です。今までは別々に発行された聖書ですが、一つの聖書になったのです。その場合、固有名詞に問題がありました。今まで、カトリック教会は「イエズス・キリスト」でした。それに対してプロテスタントは「イエス・キリスト」と称しています。この固有名詞は他にもありますが、カトリック教会が譲歩したのです。すなわち、社会的にも「イエス・キリスト」が浸透しているので、新共同訳聖書は「イエス・キリスト」にしたのでした。
こうしてカトリック教会、プロテスタント教会はお互いの信仰を尊重しつつ歩んでいます。2014年、10月25日に娘がサグラダ・ファミリアの教会でスペイン人と結婚式を挙げました。その時、神父さんの方で、娘の父親がプロテスタントの牧師であることで、共に結婚式の司式をしましょうと提案してくれたのです。寛大な姿勢であると思いました。また折角バルセロナに滞在しているので、クリスマスを体験することにしました。羊子が親しくしているカトリック教会の神父さんに頼まれて、羊子がクリスマスミサの奏楽をすることになりました。そこの神父さんは、娘と共に来た私を見て、一緒にクリスマスミサを司るよう提案してくれたのです。プロテスタントの牧師がカトリック教会のクリスマスミサを司ること、ありがたい経験であったと思います。このようにカトリック教会の寛大な姿勢を示されています。中心はイエス様の十字架の救いなのです。人間的な都合で宗教的に争うのではなく、十字架の救いに原点を置きたいのであります。

 ルネッサンスの時代に触れましたが、堕落すること、本来の道から外れること、これは人間が根本的にもっている罪があるからです。その罪とは自己満足であり、他者排除というものです。人間は存在が始まった時から、罪なる姿をもっていたのです。
 聖書の旧約聖書、創世記3章は人間の原罪を示す聖書です。人間の根本的な罪を示しています。神様が天地創造をされたことは創世記1章、2章に記されています。聖書は創世記に、天地は神様によって創造されたと記しています。聖書によりますと、最初は混沌とした状況であり、その混沌に神様が言葉を与えます。「光あれ」と神様が言葉を与えますと、光が現れ、闇と光を分けられたと記します。神様は順次言葉を与え、陸ができ、動植物ができて行くのです。いかにも神話です。これをもって、天地の始まりであるとは、もちろん科学的には言えないわけです。しかし、科学者が天地の始まりを調べれば調べるほど、限りなく言えることは、神様が最初を造られたということです。聖書は天地創造を科学的に証明しようとしているのではありません。天地創造を記すことによって、神様のメッセージを与えているのです。何が何だか分からない状況に神様の言葉が与えられる、すると見えるようになる、形あるものができてくると言うことです。何が何だか分からないこの社会、だからこそ、神様の言葉が与えられていることを受け止めなければならないのです。大雨による洪水や土砂崩れの災害が発生しています。世の中、この地球はどうなっているのか、と思います。だからこそ、創世記のメッセージは現代に示されているのです。
 聖書は人間創造を記しています。創世記2章7節に記されます。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と示しています。ここでは神様が粘土で人の形を造る。しかし、まだ人間ではない。その土の形の顔の鼻に神様の息を吹き入れた。すると人間は生きる者になったと記しているのです。すなわち、人は神様の「命の息」をいただいて生きた者として存在するのですが、その神様の「命の息」から離れ、人の思いに生きるとき、罪が生まれてくることを聖書は示しているのであります。
神様はアダムを造り、そしてエバを造りました。そして、二人をエデンの園に住まわせられるのであります。そして「園のすべての木からとって食べなさい。ただし、善悪の知識の木から取って食べてはならない」と命じたのであります。二人は神様の戒めを守りつつエデンの園で過ごしていました。ある日、最も賢い蛇が現われ、「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と二人を誘惑するのです。二人は今まで神様の戒めだからと、禁断の木には近づかなかったし、忘れてもいたと思われます。しかし、改めて「そうなの?」と聞かれると気になるのでした。そして、改めてその木を見ると「いかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるようにそそのかしていた」のであります。神様の「命の息」をいただいているのに、それはどこかに行ってしまい、今は自分の満足をさせることが優先されているのです。食べること、美しいこと、賢いこと、人間の根本的な願いなのであります。これらの人間の欲望を満たすために、つい人を押しのけてしまうのです。人を切り捨ててしまうのです。これが人間の原罪であると聖書は示しているのです。創世記は神様の「命の息」から離れることにより、原罪におちいることを示しているのです。常に「命の息」を保っていなければならないのです。それができない人間の弱さを創世記は示しています。結局、旧約聖書は神様のお心に生きることができない人間の歴史を記しています。神様の「命の息」を保つために十戒が与えられ、あるいは預言者を通して御心を示されましたが、常に人間は欲望に走ってしまうのでした。

神様はそのような弱い人間でありますが、人間をあきらめません。罪におちいった人間の世界を嘆き、洪水を持って人間を滅ぼしました。その時、義人ノアに箱舟を造らせ、家族と動物達を箱舟に乗せます。すると雨が続き、洪水となって悪に染まった人間が滅ぼされるのです。しかし、ノアの時代からまた罪の歴史が新しく始まったと言うことなのです。しかし、神様は人間をあきらめてはいません。人間が永遠の神の国に生きることができるように、御子イエス・キリストをこの世に生まれせしめたのでありました。
新約聖書ヨハネによる福音書3章16節以下に記される神様のお心に希望が与えられています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と示されています。神様がイエス・キリストを世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、イエス・キリストによって世が救われるためであります。イエス・キリストによって神様の「命の息」が人々に与えられ、その「命の息」によって永遠の神様の国に生きるものへと導かれるのであります。その命の息を与えるイエス・キリストを、聖書は「光」として示しています。「光が世に来たのに人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ」と示し、闇すなわち人間の原罪に生きる姿を指摘しているのです。こうして原罪を求めて生きてしまう私たちでありますが、光は常に私たちの前にあり、私たちを導いておられるのです。光に導かれた人々が永遠の神様の国に召されるのです。
イエス・キリストが十字架で死ぬのは当時の社会的指導者達のねたみでありました。神の国に人々を導くために現われたイエス様は、十戒として示されていた戒めを改めて教えました。十戒は人間の基本的な生き方を示しています。まず「あなたは、父母を敬いなさい」と戒めています。そして「殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、隣人に対して偽証してはならない、隣人のものを欲してはならない」と戒めを与えているのです。これは戒めと言うより、人間の基本的な生き方であります。しかし、人間はこの基本が守れないと言うことでありました。十の戒をイエス様は二つにまとめます。「神様を愛し、人々を愛する」ことが十戒の基本であると示します。そのイエス様の教えが人々に受け入れられていくとき、指導者たちは人々がイエス様に傾いていくことを恐れ、殺してしまうのでありました。しかし、神様はイエス様の十字架の死を救いの基としたのであります。イエス様の死と共に人間の原罪を滅ぼされたのでした。従って、イエス様が私の自己満足、他者排除を滅ぼされ、神様の「命の息」によって生きるよう導いておられることを信じるのであります。十字架の贖いを信じて生きる者がキリスト者なのです。そのしるしとして洗礼を受けます。洗礼を受けた者は常に十字架に基本を置き、新しい命の息によって導かれるのです。私たちのすべてが十字架なのです。それは原罪からの救いでありますが、苦しみからの解放であり、悲しみへの慰めが十字架であるのです。イエス様が十字架にお架かりになったのは、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」ためでありました。悲しく生きるときも、苦しみを持って生きるときにも十字架を仰ぎ見ることによって平安が与えられ、この状況を、勇気を持って生きる者へと導かれるのです。

 「世が救われるために」聖書の導きをいただいたのでありますが、世界が平和になることは言うまでもありませんが、私たちが永遠の命を得るために主イエス・キリストが十字架の救いを与えてくださいました。私たちがイエス様を信じるのは永遠の命をいただくためです。イエス様によって、「永遠の命」に生きる者へと導かれますが、イエス様は「今」において「神の国」に生きることを導いているのです。死んでから「永遠の命」に導かれる喜びでありますが、今が「神の国」に生きているので「永遠の命」に導かれる喜びが与えられるのです。
 時々、天に召された方のお証を示されますが、召天者記念礼拝にあたり、再び示されたいと思います。前任の大塚平安教会時代、一人の方のお証がいつも心に示されています。
証「77年目のイエス様のお招き」 伊藤雪子
 「私は1915年生まれで、今年10月には83歳になります。私の人生の転機について書きたいと思います。それは今から5年位前のことですが、生まれて初めて教会を訪ねた時のことです。イエス様は、そんな私をそれはそれは長い77年もの間、ずつと待っていて下さったということを知りました。私は自分の希望で教会を訪ね、礼拝に出席しましたが、それは今から考えると私の意志ではない、もっと大きな別の力が働いたのだと思います。それは神様が77年も前から準備してくださり、イエス様のお恵みに導かれたということでした。神様のお心を知るようになってから、私は何だか生まれ変ったような気がしています。でも、どんな年齢になっても神様のお心をいただいて生きていくことは、今までとは違った別の人生が導かれるのではないかということでした。どうか神様のお心を頂いて、新しく生まれる人へ皆様と共に導かれ、力強く歩んで行くことができますようお祈りいたします。いつまでもイエス様の十字架を見上げつつ歩んで行くことができますように。」
 このお証は大塚平安教会の創立50周年記念誌に記されています。幼くしてイエス様の導きを信じて歩んでおられる方がおられましょう。しかし、77歳になってイエス様を信じ、十字架を仰ぎ見つつ歩まれる方もおられます。神様のご計画であります。
十字架の導きが、私達のあらゆる行いを神の国に生きる歩みとしてくださいます。現実を神の国として生きる者へとお導きくださっているのです。
<祈り>
聖なる神様、命の息を与えてくださり感謝致します。永遠の生命に至るまでこの世の神の国を歩ませてください。イエス様の御名によっておささげいたします。アーメン。

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