説教「神様のお喜び」

2017年8月6日、六浦谷間の集会
聖霊降臨節第10主日」 平和聖日

説教・「神様のお喜び」、鈴木伸治牧師
聖書・ホセア書6章1-6節
    コリントの信徒への手紙<二>5章14節-6章2節
     マタイによる福音書9章9-13節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・420「世界のおさなる」
    (説教後)531「こころの緒琴に」

 日本基督教団は毎年8月の第一主日を「平和聖日」としています。平和は常に祈っていますが、言うまでもなく8月は戦争に関わる記念の日があるからです。8月6日は広島に原子爆弾が落とされ、9日は長崎に原子爆弾が落とされ、多くの人々が犠牲となりました。核兵器が使われたのは日本が初めてであり、今でも被爆された人たちの苦しい生活が続いているのです。8月15日は敗戦記念日であります。原子爆弾が落とされた日を記念日と称するのは、傷みと悲しみを記念することであり、二度と戦争を起こしてはならない、核兵器を廃絶するという切なる祈りの日であるからです。日本基督教団は平和を心から祈る日として、8月の第一主日を 「平和聖日」としているのであります。
 日本が戦争の負けを受け入れた日が敗戦記念日であります。1945年8月15日でありました。私は1939年生まれですから、敗戦を迎えたのは6歳でありました。横浜のはずれに住んでいましたので、空襲等の戦争体験はありません。しかし、アメリカの爆撃機が到来するたびにサイレンが鳴り、急いで防空壕に非難したことは覚えています。頭の上の空を爆撃飛行機が横浜や東京方面に編隊をなして飛んでいく光景も覚えています。防空壕に非難しても、この辺は大丈夫と思っている人が多く、一度は防空壕に入りますが、出てきて飛行機の数を数えたりするのです。横浜の市街地方面の空が赤くなっていることも忘れることはできません。そのようなことを思い出していますが、今の世界を示されるとき、戦争がいつ始まるか、不安な状況です。北朝鮮による核開発、爆弾の実験が続くとき、世界の人々が不安になっています。アメリカがどう出るのか、場合によっては戦争が起こるかもしれないのです。世界のいろいろな場で戦争が起きており、それによる難民の救済も大きな課題になっています。戦争の恐ろしさ、悲惨さを忘れつつあるのです。
 1967年に「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」が当時の教団議長・鈴木正久牧師の名において発表されました。通称「戦争責任告白」であります。この戦争責任告白を教団の名において公にすることについては、多くの議論があり、結局は教団の名において公にすることができず、鈴木正久教団総会議長の名において発表することになったのです。日本が戦争を激化させていく中で、日本におけるキリスト教の諸教会は戦争に協力させられていくのであります。宮城遥拝と言い、天皇がいる宮城に向かって拝まなければならなかったり、天皇を神様として仰がなければならなかったのです。教会の礼拝には憲兵が入り込んで、牧師の説教をチェックし、天皇制に反する言動を見張っていたのでありました。キリスト教は神様以外の存在に対して、絶対に拝まないことであります。天皇の神格化を受け入れることができないのでありますが、その時代を生き延びるために、不本意でありますが従わざるを得なかったのであります、自分の命、家族を守るためにも、その時代に身をおかざるを得なかったのであります。戦争責任告白は日本のキリスト教が戦争に協力したことに対する懺悔の告白です。教団はアジアの諸教会にも日本の戦争に協力するよう呼びかけましたので、アジアの諸教会にも謝罪し、懺悔しているのであります。しかし、それに対して、戦争協力はやむを得なかったのであると言い、戦争責任告白を喜ばない人もいるのです。しかし、戦争責任告白は私たちがその時代にいなかったとしても、戦争への責任は持たなければならないのです。戦争を起こす体質は私たちも持っているからであります。現代に生きる私達は、過去の日本における戦争は、私達の責任ではないというのではなく、同じ体質を持つ者として、いつでも悔い改めなければならないのです。その悔い改めこそ、「神様のお喜び」なのです。

 実のない悔い改め厳しく問われたのは聖書の人々であります。今朝の旧約聖書ホセア書6章は「偽りの悔い改め」について示しています。ホセアという預言者は自分の体験を通して、神様のお心を示され、人々に語ったのでありました。それも自分の夫婦の関係であり、その夫婦の関係が破れる経験を持つのであります。そういうことは人には言いたくないのですが、ホセアから離れ、他の男性のもとへ行ってしまった妻の姿から、人々の姿を示されるのでした。すなわち神様に養われ、導かれている聖書の人々と神様との関係は夫と妻、夫婦のような関係なのです。聖書では神様と聖書の人々との関係を花婿、花嫁の関係として示しているところもあります。それほど密接な関係であるというのです。ところが神様から離れ、他の神、すなわち人間が造った神に心を向けるようになります。密接な関係を破ってしまう人間の姿を示すのは、旧約聖書預言者の働きでした。神様を仰ぎ見つつ生きることが求められています。しかし、人間は神様ではない存在、すなわち偶像の神に心を寄せ、あるいは力のある国に助けを求めるのでした。
 「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる」と告白しています。「我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる」と告白するのであります。いかにも信仰的であります。神様の救いの御手を深く受け止め、救われる喜びを告白しているようであります。しかし、この信仰は極めて自己満足的であります。「主のもとに帰ろう」と言い、「主を知ろう」と言うのですが、何処から帰るのかであります。本来、歴史を導く神様に養われていた人々なのです。それが、こういう関係は面白くないと言い、神様のもとから離れていったのであります。偶像の神々のもとへ心を寄せたのであります。他の神に心を寄せる姿を姦淫としています。それは預言者ホセアとその妻ゴメルの関係でありました。ホセアは自分の体験を聖書の人々の中に見ているのです。勝手に「主のもとに帰ろう」という人々には悔い改めがありません。心を砕いて神様の前に跪く姿がないのです。神様のもとに帰って何をしようとするのか。結局、自分の思い通りに生きるだけなのです。これは信仰告白ではないのです。自分の思いとおりにならないので、結局はまた勝手に離れていくのです。
 旧約聖書において、人々の信仰告白とは、歴史を導く神様の恵みを告白するということなのです。申命記6章21節以下に示されている信仰告白を見ておきましょう。「我々はエジプトでファラオの奴隷であったが、主は力ある御手をもって我々をエジプトから導き出された。主は我々の目の前で、エジプトとファラオとその宮廷全体に対して大きな恐ろしいしるしと奇跡を行い、我々をそこから導き出し、我々の先祖に誓われたこの土地に導きいれ、それを我々に与えられた。主は我々にこれらの掟をすべて行うように命じ、我々の神、主を畏れるようにし、今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった。我々が命じられたとおり、我々の神、主の御前で、この戒めをすべて忠実に行うよう注意するならば、我々は報いを受ける」と告白するのであります。聖書の人々の信仰告白は、歴史を導く神様への感謝、そして神様がくださった戒めを守り、忠実に行うよう注意することなのであります。この基本的な信仰告白がなく、神様のもとへ帰ろう、主を知ろうということ、むなしい言葉なのであります。歴史を導く神様を投げ出し、自分の思いが満足されるような偶像の神に心を傾けた、その生き方の懺悔もなく、悔い改めもない、いわば偽りの悔い改めを神様は気がつかないはずはないのです。
 「エフライムよ、わたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか。お前たちの愛は朝の霧、すぐに消えうせる露のようだ」と神様は言われます。「わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くすささげ物ではない」と言われます。表面的な信仰は受け止めないといわれているのであります。勝手に出て行って、勝手に帰ってくることができるか、心からなる悔い改め、信仰の告白が求められているのであります。

 「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とホセアは人々に示しています。その言葉を引用して主イエス・キリストも、人々に信仰告白を示しています。新約聖書はマタイによる福音書9章9節以下であります。マタイを弟子にすることが記されています。マタイによる福音書は5章から7章まで山上の説教が記され、その後8章から山を降りたイエス様の活動が始まっていくのです。従って、9章はイエス様の宣教活動の始まる頃でした。少なくともこの時点では、イエス様のお弟子さんとしてペトロ、アンデレ、ヨハネヤコブの4人が決まっています。今ここで、新たにマタイがお弟子さんに加えられるのであります。マタイは徴税人でありました。聖書の国ユダヤはローマに支配されている状況がありました。ローマのために税金を納めなければならないのであります。しかし、人々は自分達を支配する外国に対して税金を納めたがりません。そのため、税金を集める人たちを面白くない存在と思っています。いつの間にか、そういう人たちを罪人呼ばわりするのでした。従って、これはルカによる福音書に記されるザアカイさんにも通じるのですが、徴税人の人たちは孤独でありました。社会の人たちに相手にされない存在になっていたからです。
そのマタイさんがイエス様の招きを受けたのです。「わたしに従いなさい」と招きのお言葉をいただいたマタイさんは、すぐにイエス様のお弟子さんになり、そしてイエス様をもてなしたのでした。その時、マタイさんの友達の徴税人たちも一緒に食事の席に着きました。聖書には「罪人」も一緒に同席したと記されます。当時の世界では病気の人や体に障害があったりすると罪人と称していたのです。そのように病気であったり、体の障害があるのは、先祖が悪いことをしたからか、本人が悪いことをしたからだという因果的に考える社会であったのです。そのような人々も社会の中でさびしい思いをしていたのです。こうして主イエス・キリストは社会の人々から見放されていた人々と親しく食事をしていたのであります。その様を見たファリサイの人々が批判しました。ファリサイ派とは当時の社会で戒律を厳格に守っている人で、その意味でもエリート的な存在でもあったのです。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言うのです。罪人といわれる人と交わることが禁止されていたからであります。
エス様はそのように批判しているファリサイ派の人々に言いました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われたのであります。ファリサイ派の人たちは模範的な信仰の姿で歩んでいるのです。戒律に定められたとおりの歩みであります。ルカによる福音書18章9節以下にファリサイ派の人の祈りが記されています。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取るもの、不正な者、姦通を犯す者ではなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一をささげています」と祈るのです。戒律に厳格に生きているファリサイ派の人に、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」と示したのであります。形だけの信仰ではなく、心から神様に向かうことであると教えておられるのです。真に神様に向かうならば、神様の深い愛へと導かれるのです。神様の愛に導かれるならば一人の存在を真に受け止めて生きる者へと導かれるのであります。まさに「神様のお喜び」であるのです。

 平和聖日にあたり、示されなければならない御言葉はエフェソの信徒への手紙2章14節以下であります。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうして、キリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者をひとつの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」と示されるのです。旧約聖書では、勝手に神様から離れ、勝手に神様のもとに帰ろうとする、うわべだけの信仰を厳しく戒めていますが、新約聖書は根本的に人間をお救いになられた神様の愛が示されているのであります。主イエス・キリストの十字架の死と共に、人間の奥深くにある自己満足、他者排除を滅ぼされたのであります。十字架を見上げるということは、その救いの業を信じることであります。十字架の救いを与えられるということは、主イエス・キリストの示された「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」との生き方が導かれてくるのです。自分の思いを超えて、一人の存在を受け止めること、それが今朝示されている「神様のお喜び」なのであります。先ほどのエフェソの手紙に示されているように、「両者を一つの体として神と和解させ」るのは十字架の救いです。他者を受け止める時こそ「神様のお喜び」なのです。他の存在を受け止めないならば、「神様のお喜び」がないと示されなければならないのです。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とは、どういう意味なのか、「行って学びなさい」とイエス様は言われています。「行って学ぶ」とは、わたし達の現実の生活の中で学ぶということなのです。社会の中で、人々の中で十字架のイエス様に導かれながら、一人の存在を受け止めて歩むことを今朝は示されているのです。
 相模原で起きた障碍者殺傷事件、いじめによって自殺する事件、悲しい報道をいつも示されています。ひとりの存在を受け止めない人々が後を絶ちません。どうしたらともに生きる人へと導かれるのでしょうか。生まれたときから、共に生きる教育をしなければならないのです。テレビやゲームの世界で、いとも簡単に人が排除されていますが、一人一人が「神様のお喜び」を求めて歩まなければならないのです。
<祈祷>
聖なる神様。平和の根源、十字架を仰ぎ見ることができますことを感謝いたします。一人の存在を受け止め、「神様のお喜び」が導かれますよう。主の名により祈ります。アーメン。