説教「束縛から解かれる」

2019年9月1日、六浦谷間の集会
聖霊降臨節第13主日



説教・「束縛から解かれる」、鈴木伸治牧師
聖書・ アモス書5章21-27節

   ヤコブの手紙1章19-27節
   ルカによる福音書13章10-17節
賛美・(説教前)讃美歌21・430「とびらの外に」
   (説教後)讃美歌21・448「お招きに応えました」



 世界のいろいろな動きがあり、心を痛めることが多くありますが、最近、横浜で第7回アフリカ開発会議が開かれたということでした。アフリカにある30以上の国々の代表者が横浜に集まり、今後の開発、歩みを協議したということです。日本はアフリカの国々に支援をしており、アフリカ諸国は日本の協力を求めてもいるのです。そのアフリカに対してはいろいろな国々が関係を持ち、自国の有利を計ってもいます。指摘されたのは中国がアフリカの諸国に融資を行っていますが、その融資によって苦しむ諸国があることで警鐘が鳴らされています。そのアフリカの現状に対して、ユニセフとか国際飢餓機構等が、特に幼児や子供たちの救済活動を行っています。人間はみな喜びつつ平安の日々を歩まなければならないのです。
 古今東西、人間は平和に暮らすこと、食べるものがあること、それにより安心して生きることが出来ますし、自分たちの政治家がそのように動くことで安心するのです。ヨーロッパの歴史を読むとき、ローマは名もなき少民族でした。それが次第に力を得て行き、ヨーロッパの世界の覇者になっていくわけです。世界の覇者になるローマでありますが、最初から非常に民主的な国でした。最初から共和制であり、元老院の組織のもとに国の繁栄が導かれてきたのです。そういう中で、多くの地域を支配するようになり、ユリウス・カエサルは共和制ではなく帝国へと移行させようとして行くのであります。カエサルはその下準備をしましたが、ついに第一代皇帝になるのはアウグストゥスでした。この初代皇帝の時、主イエス・キリストが出現したのであります。ローマの人々、またローマに支配される人々も、このアウグストゥスを「平和の王」とか「救い主としての王」と称するのですが、聖書は同時代に現れた真の「救い主」を人々に示しているのです。
 皇帝はアウグストゥスティベリウスと続いて行きますが、平和が続きます。その後の皇帝の中には1年ももたない皇帝、在位4ヶ月の皇帝もいました。これらの皇帝は権力を弄び、人民の平和を考えなかったのであります。人民を楽しませることは、自分も楽しみたいから、競技場を作らせて、いろいろな競技をして楽しみました。しかし、人々の願いは社会の平和、食べることが保障されることでありました。悪い皇帝は食べることには力を注がなかったのです。そのため元老院が立ち上がり、人々が立ちあがって皇帝を殺したり、失脚させたりするのです。人々にとって皇帝は誰でも良い。しかし、食べることが保障されなければ、自分たちの中心とは思わないのであります。
 今、世界は、独裁の国は人々の目が開け、みんなが自由に、食べることに不自由することなく生きて行く国を求めているのです。これは日本の国でも同じです。放射能を心配することなく、食べることに事欠かない社会を求めているのであります。独裁による束縛からの解放、思想や人間関係からの束縛の解放が求められています。この時、神様が人間に求めておられることを示され、御心を実践することにより、束縛から解かれる導きを与えられたいのです。

 「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」と預言者アモスは神様の御心を示しています。旧約聖書アモス書5章21節からですが、「祭りにまさる正義」について教えています。「わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りを喜ばない」とは神様の御心でした。アモスは紀元前8世紀の預言者であり、生まれはユダの国テコアで農民でありました。そのアモスが御心を示され、北イスラエルの国に行き、当時の宗教的、社会的堕落を厳しく攻撃し、神様の正義に立ち帰るよう諭したのであります。
 祭りを好むのは人間の素朴な姿です。日本でも7月は各地域のお祭りがあり、8月になると大きなお祭りが各地で開催されていました。祭りは神社が中心なのですが、むしろ宗教的には考えないで、みんなで楽しく行事に参加することなのです。昔、綾瀬に住んでいる頃、町内会の回覧板に、この町には神輿が無いから導入したいという内容でした。それについての意見を求めていましたので、有志が導入するのであれば意義はないが、町内会として導入するのは反対です、と意見を述べたのでした。ほかにも反対意見が多くあり、結局、町内の神輿づくりは中止になりました。しかし、町内のお祭りには、なるべく協力しています。近所の班長の当番になり、一年間務めました。やはりお祭りがあり、神輿がやってきたり、山車がやってきたりすれば接待をしなければなりません。、キリスト教だから協力できませんというわけにもいかず、班長の役目としてかかわったのでした。
 お祭りを楽しむことは聖書の世界でもありました。その時には、穀物、動物の献げ物があり、祭壇では犠牲の動物を焼き殺すのです。聖書の世界には、礼拝として播祭というものがあります。動物を焼き殺すのですが、焼肉の香ばしい匂いを神様に献げるというものです。また、酬恩祭があります。この礼拝は「和解の献げ物」をするのですが、献げ物により神様と和解するということになるのです。御心に従うということです。この時は焼き肉はそこで食べ、和解に与るのです。もう一つは罪祭があります。これも動物犠牲ですが、この動物は罪を犯した自分として、自分の身代わりとして焼き殺すということなのです。このような祭りは、人々は喜び、好んでしていました。しかし、そのような祭りより、神様が求めておられるのは、「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」ということなのであります。祭りではなく、日々の歩みにおける御言葉の実践こそ大切なことであると示しています。
 お祭り騒ぎは日本ばかりではなく、世界の人々がお祭りをしては喜んでいます。2011年4月5月にスペイン・バルセロナで滞在した時にもお祭りがありました。お祭りであるから、何か宗教的なことなのかと思うのですが、どうも宗教的なものとは関係ないようで、みんなで楽しんでいたのでした。人間の塔として、4段くらいの人間の塔を作ります。一番上は幼稚園くらいの子がよじ登り、手を広げて完成をアピールするのでした。バルセロナサグラダ・ファミリアには毎日のように外国人の多くの観光客が来ており、拍手喝采でお祝いしてあげるのでした。そうかと思うと、ステージの上では少年少女が楽器と共に歌を披露したり、フォークダンスをしたりしていました。また、婦人たちが刺繍のようなことをしていました。大勢の婦人たちが集まり刺繍、レース編みのようなことをするのです。時間になると皆さん引き上げて行くのですが、何の意味か分かりませんでした。一つのお祭りということです。人々が喜びあうことは必要なことですが、旧約聖書は毎日の生活で神様の御心を実践しつつ歩むことの大切さを示しているのです。

新約聖書ルカによる福音書13章6節以下が今朝の示しですが、二つの標題で示されていますが、一つのことを示しているのです。6節以下は、「実のならないいちじくの木」のたとえとしています。いちじくの木が3年も実を結ばないということで、持ち主の主人が切り倒すように言うのですが、園丁は「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかも知れません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」とお願いするのでした。このたとえ話は、神様が忍耐して私達の御言葉の実践をお待ちになっていることを示されます。そのために主イエス・キリストのお導きがあるということです。ぶどう園にいちじくの木を植えるということ、これは聖書の世界では良くあるということです。土地が空いていれば、ぶどう園であろうと、他の木を植えるということは、普通のことで特別な意味が無いのです。しかし、ぶどう園にいちじくの木を植えるということは、異なる存在を育てようとしていることとして示されるのです。つまり、ぶどう園は本来の聖書の人々ですが、いちじくの木は外国人、異邦人ではないかと思われます。外国人が神様の御心に養われるには、時間がかかります。それに対して園丁が肥料を施し、面倒を見てくれるのです。実のなるように手を加えてくださるということです。主イエス・キリストのすべての人々への福音を示していると思われるのです。従って、私たちが「いちじくの木」であるということです。なかなか実がならないいちじくの木に、変わらずに導きを与えてくださるイエス様なのです。
13章10節以下の段落では、「安息日に、腰の曲がった婦人をいやす」として記されています。18年間も病であり、腰が曲がって生きている人をイエス様が癒してあげるのです。その日は安息日でありました。ユダヤ教では安息日は、何もしないで神様の創造の業を感謝する日なのです。だから、イエス様が婦人を癒したことは安息日違反になります。そこでユダヤ教の会堂長がイエス様に抗議するのです。それに対して、「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか」と答えるのでした。「18年間もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」とイエス様は言われました。主の御心は今、実践しなければならないことを教えておられるのです。今は安息日あるから、御言葉の実践は明日にしましょうというのではなく、今実践すること。御言葉の実践は、何の制約もないということなのです。束縛から解かれること、御心を実践することなのです。

 神様の御言葉を実践することの教えは、新約聖書ヤコブ書は強く示しています。今朝の聖書も「神の言葉を聞いて実践する」との標題で示しています。22節、「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わるものになってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまうのです」と記していますが、面白いたとえを示していると思います。まさにその通りで、私達は自分の顔をはっきりと覚えられないのです。鏡を見ているときだけは自分の顔を見るのですが、鏡から離れると自分の顔を思い出せないのです。御言葉を示されているときは、頷き、はい分かりましたという訳ですが、現実の生活に戻るとすぐに忘れてしまうのです。何が御言葉であり、実践することなのか、判断が難しいでしょう。しかし、主イエス・キリストの十字架の救いを見つめ、受け止めること、それが御言葉を実践する歩みへと導かれるのです。
 大塚平安教会在任中、少年院の篤志面接委員をしていました。服役している少年たちと社会復帰のためにお話しをするのです。少年たちも、少年院は二度目だという例もありました。更生して社会に復帰しますが、再び同じことを繰り返してしまうということです。刑務所や少年院の仕事をする前は保護司をしていました。刑務所や少年院から出所した人たちが、生活を保護司に報告しつつ歩むのです。この人たちも、元の姿に戻りそうな自分を見つめつつ歩むのでした。自分の中に土台、あるいは柱がないからなのです。土台とか柱が信仰というものです。自分の中心はイエス・キリストを信じる信仰なのです。その時、その信仰の果実が生まれてくるのです。もはや昔の自分ではないのです。新しい自分、自分の中に据えられている土台、信仰により祝福の人生へと導かれるのです。自分にあるいろいろな束縛から解かれるのは、主イエス・キリストの十字架の救いを信じて歩むということです。束縛から解かれて、自由に平安の日々へと導かれるのです。
<祈祷>
聖なる御神様。十字架の救いを与えてくださり感謝します。御言葉を実践しつつ歩ませてください。主イエス・キリストの御名により。アーメン。

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