説教「暗きに輝くともし火」

2011年12月4日、横須賀上町教会
「降誕前第3主日」 

説教、「暗きに輝くともし火」 鈴木伸治牧師
聖書、列王記上22章10〜17節、
    ペトロの手紙<二>1章16〜21節
   ヨハネによる福音書5章36〜40節
賛美、(説教前)讃美歌21・236「 見張りの人よ」、
   (説教後)448「 お招きに応えました」


降臨節第二週となり、二本のロウソクが点火されました。主イエス・キリストのご降誕の光が近づいてまいりました。前週よりもいっそう明るくなりました。ロウソクでクリスマスの喜びを表すのは現実が暗いからであります。私の暗さの中に主イエス・キリストの光が差し込んできたということであります。
特に今年は東北関東大震災が発生し、地震津波福島原発の事故が重なり、特に原発事故は未だに解決できず、暗い影を与えています。復興しなければなりませんが、原発事故は復興が困難であるということです。大震災に伴って、いろいろな暗い知らせを毎日聞くわけですが、この時、この暗い社会に光がともされていること、主イエス・キリストのご降誕が近づいていることを示されます。約束の救いが実現されるのです。今朝は二本のともし火であり、前週より一層明るくなっていることを示されたいのであります。
私は昨年9月までは現役の牧師として務めましたが、10月からはどこの教会にも所属しない無任所教師となり、第一日曜日にはこちらの横須賀上町教会の講壇に立たせていただいています。教会やその他の職務が無くなりましたので、気の向くままに過ごしています。そういう中で、散歩することが一つの楽しみになっています。毎日、天気が良ければ1時間ほど歩いていますが、先日は自宅から鎌倉まで2時間かけて散歩しました。鎌倉は神社仏閣が多く、また教会もいくつかあったりして宗教の都であることを実感しました。この三浦半島にも心が向けられており、7月には私の子どもたちと観音崎灯台を散策しました。昔、小学生の頃に遠足で訪れたことがありますが、それ以来訪れていません。懐かしく灯台を見学したわけですが、そして風光明媚な環境を楽しんだのですが、戦争の遺跡があちらこちらにあることを知りました。三浦半島はまさに戦争の防御場所であることを改めて知ることになりました。改めてどころか、横須賀には米軍の基地があり、軍港があり、この三浦半島には自衛隊の基地もあるわけです。観光と共に戦争の遺跡と現実があることを示されるのであります。世界は一触即発と思えるような緊張関係を保ちつつ歩んでいるのです。日本の歴史、世界の歴史は戦いによって今日に至っているのです。何故戦争をしてきたのか、平和な社会を作り上げるためです。それにはあちらこちらが好き勝手なことをしていれば、国がまとまらないのであり、誰かが中心になって国をまとめて行かなければならないのです。NHK大河ドラマ「江」が終わりましたが、その中でも、時々の会話の中で「天下を統一して平和な世の中にする」ということでした。主人公の「江」も戦争は嫌であると言いながら、結局は平和な世の中のためなんだと思うようになるわけです。
私は今年の6月頃から塩野七生さんが書いた「ローマ人の物語」を読み始めていましたが、最近ようやく読み終えました。単行本では15巻ですが、私は34巻の文庫本で読み終えました。ローマは小さな存在でしたが、次第に力を帯び、ヨーロッパばかりではなく、オリエント、アジアの世界にまで覇権を伸ばしていくのであります。ローマは共和制の国で、元老院が中心であり、いわば国会のように600人が集まり協議しつつ運営されていました。しかし、それでは一つの意見になるまで時間がかかるので、ユリウス・カエサルは権力者を一人に絞ろうとしたのであります。いわゆる皇帝に権威をもたせるということです。カエサルはその基礎を据えました。そして、初代の皇帝になったのがアウグストゥスでした。このアウグストゥスの時に主イエス・キリストが現れたのです。ローマの人々はアウグストゥスこそ「平和の王」として称賛しました。しかし、ローマ帝国の歴史において、皇帝は次々に就任しては消えて行く状態でした。弱い、頼りない皇帝は兵士によって殺されてしまうのです。そういう中でキリスト教が広まって行き、公認され、国教となっていくのです。皇帝による平和は一時的でありましたが、主イエス・キリストの平和は永遠に与えられているのです。著者の塩野七生さんは、「キリストの勝利」としてその辺りの歴史を記しています。
社会は暗い。しかし、この暗い社会にともし火を与え、世の中を明るくするのは主イエス・キリストであること、今朝も示されるのであります。

 旧約聖書は列王記上22章10節以下を示されています。預言者ミカヤの預言活動について示されています。今、聖書の民・イスラエルの国はアラムの国と戦っています。同盟国のユダの王様がイスラエルの王様に、アラムを攻めるべきか神様の御心を尋ねなさい、と勧めるのです。そこで、イスラエルの王様は預言者400人を集めて、神は何を示しているかと問うたのであります。「わたしは行って戦いを挑むべきか、それとも控えるべきか」と預言者たちに問います。すると預言者たちは「攻め上ってください。主は、王の手にこれをお渡しになります」と口を揃えて答えたのでありました。これは真実の預言ではありません。王様の満足を得るための預言でありました。同盟国のユダの王様は、預言者はこれだけかと聞きます。するとイスラエルの王様は、まだ一人いる、しかし、彼はわたしに幸運を預言することなく、災いばかりを預言するので、わたしは彼を憎んでいます、と答えたのであります。憎んでいる預言者ミカヤと言う預言者でした。そのとき、ユダの王様はイスラエルの王様をいさめ、ミカヤからも神の言葉を聞くように勧めるのです。イスラエルの王様は使いを出してミカヤを呼びに行かせます。その使いの者はミカヤに、「預言者たちは口をそろえて、王に幸運を告げています。どうかあなたも、彼らと同じように語り、幸運を告げてください」と言い含めるのです。ミカヤイスラエルの王様に、使いの者が言い含められたとおりのことを言います。「攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」と言います。すると、イスラエルの王様は、いつも災いばかりを預言するのに、幸運をもたらすというミカヤの言葉が信用できず真実を迫るのです。するとミカヤは神様から示された通りの預言を語るのです。「イスラエル人が皆、羊飼いのいない羊のように山々に散っているのをわたしは見ました。主は『彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に無事に帰らせよ』といわれました」と預言を示します。「羊飼いのいない羊」になるということは王様が敗れることを意味しているのです。王様はミカヤの預言を無視して戦いに出ます。しかし、ミカヤの預言通りに戦いで死んでしまうのです。イスラエルの王様は神様のお心ではなく、常に自分の思いによって生きようとしました。だから、ミカヤの預言はいつも自分には災いなので、聞く耳を持たなかったのでした。
 偽りの預言があります。それを喜んで受止めようとすることは、自分がそのように思っているからであります。神様の御心を聞くとき、私には不都合であることもあり、聞きたくないときもあるのです。真実を聞く姿勢、それは祈りつつ神様に求めることであります。イスラエルの王様は自分の心に適う預言を信じたのであり、心に適わない預言は退けるという生き方であったのです。神様の御心は私たちに必ずしも都合が良いものではありません。それどころか、不都合なこともあり、神様の御心とも思えないこともあるのです。それは極めて自分勝手に生きようとしているからです。イスラエルの王様が、ミカヤと言う預言者は、わたしに幸運を預言することなく、災いばかりを預言するので、わたしは彼を憎んでいますと言ったように、神様はミカヤを通して、あらかじめ御心を示していました。今こそ真実を示されていることとして、御心に従わなければならなかったのです。

ヨハネによる福音書は5章31節からですが、主イエス・キリストが、神様の証しにおいて人々の中にいることを示しています。このヨハネによる福音書5章は1節から9節において、主イエス・キリストがベトザタの池で一人の病人を癒したことが記されています。ベトザタの池の周りには病気の人等が大勢横たわっていました。池の水が動いたとき、池の中に入ると病気が癒されるとされていました。池の水が動くというのは、間欠泉であり、温泉のような池であったと思われます。源泉に触れると癒しの効果が働くのでしょう。そこに38年間病気の人がいました。イエス様はその人に「良くなりたいか」と聞くのです。良くなりたいのは当たり前であると思いますが、その後の会話により、イエス様が尋ねた意味が示されます。聞かれた人は、「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、他の人が先に降りていくのです」と言うのでした。つまり、この人は誰かが自分を池の中に入れてくれないから、だからこの病気が直らないと思っているのです。人任せになっているということなのです。「良くなりたいか」と聞かれたイエス様の意味はここにあるのです。そして、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と促します。自分で、人の力を待つのではなく、自分で起き上がりなさい、と励まされたのでありました。この人は立ち上がりました。歩くようになったのです。
 その日は安息日であり、この日に床を片付けるということは労働行為でありました。安息日は一切の働きを休んで、神様の創造の恵みを感謝する日であります。従って、人々はイエス様を批判します。そこでイエス様と人々の間に論争が繰り広げられるのでありました。今朝の聖書はその流れの中にあるのであります。人々はイエス様の働き、教えを批判するようになり、イエス様の存在すら否定するようになります。それに対してイエス様はご自分の証をされているのがヨハネによる福音書5章31節以下の今朝の聖書であります。
 31節「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている」とイエス様は言われています。自分自身の証しでもなく、人の証しでもない、唯神様が真実を示しているのであり、その真実の証を信じなさい、と示しているのであります。神様は旧約聖書以来、預言者を通してメシア・救い主の出現について示してきました。そして、イエス様も言われるとおり、バプテスマのヨハネが真実の救い主であるイエス・キリストの証をしました。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解くしかくもない。」(ヨハネによる福音書1章26節)と真実を示したのでありました。
 そして、何よりも真実の示しはイエス・キリストの教えであり、力ある業に真実が示されていました。人々はその教えを耳にし、その業を示されては驚き、心に強く示されていたのであります。それでいながら真実を受止めない姿勢は、かたくなな姿勢のなにものでもありません。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところに来ようとしない」とイエス様は言われています。

 また「ローマ人の物語」になりますが、ローマの国は当初はキリスト教を迫害しました。それはキリスト教の人々は国の祭りごとに協力しないからでもありました。同書から引用すると、「ローマ人の考えるキリスト教とは、自分たち全員の『レス・プブリか』(国家)であるローマ帝国に対する考えや義務を、彼らとは共有しない人々のことであった。(中略)これは、ローマ帝国全体を一大家族としてとらえ、その内部に住む人々全員の運命共同体と考えていた歴代のローマ皇帝にとっては、明らかに反国家的行為になる」(同書文庫版第34巻175頁)ということで迫害がありました。しかし、その後キリスト教が公認され、やがて国教になるのは、皇帝にとって都合が良かったからでありました。すなわち皇帝が自分の思いで、指令を出し、事を成し遂げようとする場合、必ず反対する者がいます。それでは皇帝としてもやりにくいということになります。そこで、これは自分の思いではなく神意、神様の御心なのだと示すことでした。神意であるから絶対的になるということです。国教になっていくのは皇帝にとって都合が良いということであったのです。
 神意であり、御心であるということでは、今日も神意論争がたえないのです。日本基督教団の総会にしても、教区の総会にしても、そこにはいろいろな議論がありますが、意見を述べる人々は神意と信じで意見を述べています。しかし、神意と信じているにしても、ローマ皇帝のように自分の思いを神意に投影して述べる場合もあります。旧約聖書イスラエルの王様のように、自分の意に適う預言者の言葉が神意であると信じた事と同じです。
 私達は主イエス・キリストがお示しになっているように、私達が教会に導かれて神様を礼拝し、イエス様の御心をいただくのは「命を得る」ためであります。イエス様も示されているように、聖書は全体的に主イエス・キリストの救いを証ししているのです。イエス様の十字架の救いをいただく私達は、この暗き社会にともし火を与えられているのです。そのともし火は、私達を現実の生活の中で「神の国」に生きる者へと導いてくださっているのです。イエス様のともし火に導かれて「命を得る」者へと導かれているのです。
イエス・キリストがこの暗い社会に現れて、ともし火を与え、まことの救いをお与えになるということは聖書の預言であります。聖霊に導かれた人々が証言しているからです。この救いの言葉を信じて主イエス・キリストのご降誕を待望致しましょう。
<祈祷>
聖なる御神様。聖書の証言の通り、主のともし火は私達の希望であります。感謝致します。このともし火を人々に与え、暗い社会の中に明るく輝くともし火を喜ぶことができますようお導きください。主イエス・キリストの御名よりおささげいたします。アーメン。