説教「主をみつつの人生」

2014年4月20日、六浦谷間の集会
「復活祭」(イースター

説教・「主を見つつの人生」 鈴木伸治牧師
聖書・イザヤ書42章10-17節
    コリントの信徒への手紙(一)15章1-11節
    ヨハネによる福音書20章1-18節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・146「ハレルヤ、ハレルヤ」、
    (説教後)讃美歌54年版・151「よろずの民」 


 今朝は主イエス・キリストのご復活日であります。イースターおめでとうございます。イエス様のご復活は新しい歩み出しであります。毎年、イースターを春に迎えることができるのは、本当にお恵みであります。3月は年度の終わりの時であり、4月は始まりであります。イースターを3月に迎える場合もありますが、終わりと始まりを示されながら、イエス様のご復活のお導きを示されるのです。今まで苦しく歩んでいた人は、もはや新しい歩みが始まったことを知らなければなりません。今まで悲しみを持ちつつ日々の歩みをされていた人は、もはやイエス様の福音の喜びを知らなければなりません。今まで喜びを持っていた人は、イエス様の新しい喜びを持って歩み出さなければなりません。主イエス・キリストのご復活は私達に新しい命、新しい歩みを与えてくださるのであります。
 今年はスペイン・バルセロナでピアノの演奏活動をしている娘の羊子が一時帰国していますので、この六浦谷間の集会でイースター礼拝をともにささげています。羊子とは、このところ毎年イースター礼拝をともにささげることができる恵みをいただいています。昨年は3月13日から6月4日までマレーシア・クアラルンプール日本語キリスト者集会のボランティア牧師として赴いていました。その時、羊子が10日間まいりまして、チャペルコンサートでピアノの演奏をしました。多くの皆さんが来られて、皆さんに喜ばれた次第です。それがちょうど受難週、イースターの時でした。それが2013年であり、その前年の2012年は羊子が一時帰国している時でした。その時のイースター礼拝には知人も来られて10名の皆さんで礼拝をささげています。そして、2011年は連れ合いのスミさんと娘の星子と三人でバルセロナの羊子を訪れていましたので、カトリック教会の受難週礼拝、イースター礼拝を体験したのでした。
 カトリック教会は棕櫚の主日に重きが置かれているようです。子ども達が棕櫚の枝を手にもって教会に集まるほどです。いつもは、子供たちは教会には来ませんが、棕櫚の主日には出席するのですから、重い意味があるようです。それに対してイースター礼拝は棕櫚の主日ほどではないようです。ご復活の喜びがありますが、やはり十字架の救いこそ信仰の中心であり、原点であるのです。昨年のマレーシアでは、棕櫚の主日礼拝の後にチャペルコンサートが開催されるので、棕櫚の主日礼拝ですが、礼拝も短縮してささげられ、気持ちはchapelコンサートにありました。しかし、イースター礼拝は聖歌隊が賛美をささげるほどであり、その聖歌隊に応援の合唱団の人たちも加わるほどでした。聖歌隊が講壇の前に並ぶと、会衆席ががらがらになるほどであり、それだけに皆さんがイースターの喜びを聖歌隊によりいただいていることを示されたのでした。
イースターと言えば、やはり大塚平安教会が思い出されます。イースター礼拝にはお祝いのイースターエッグが配られ、それを教会に来られない皆さんにお届けしたりしていました。そして、礼拝後は皆さんが持ち寄りの食事、ポトラックを喜んでいただいていたのです。その祝会では、最近動向のあった皆さんのご挨拶を聞くことになり、共に喜び合ったのでした。このようなイースター礼拝、祝会をしてきましたので、大塚平安教会を退任して、いくつかの教会のイースターの迎え方を示されており、なんとなく物足りない思いであります。しかし、どのように迎え方でありましょうとも、このイースター礼拝に招かれ、皆さんと共に礼拝をささげることができるお恵みを感謝したいと思います。本日のイースター礼拝を基点としまして、主イエス・キリストを見つめつつの人生へと導かれたいのであります。

 旧約聖書イザヤ書の示しであります。イザヤが新しい歩みを示しています。それも「神様の勝利」として人々に神様の御心を示しているのであります。イザヤ書は1章から66章まであります。大変長い御言葉の示しであります。この長い預言の言葉をイザヤさんという一人の人が書いているようでもありますが、実は少なくとも3人の人が書いているのであります。1章から39章までを書いているのは第一イザヤと言われています。40章から55章までは第二イザヤ、56章から66章までは第三イザヤが書いたとされています。それぞれ時代が異なります。今朝の聖書、イザヤ書42章は第二イザヤさんが書いています。この時代は聖書の人々がバビロンの国に捕われている状況であります。
 少し聖書の歴史を顧みておきましょう。聖書の民族が始まるのはアブラハムという人であります。神様はアブラハムを選び、聖書の民族の祝福の基とされました。その後、イサク、ヤコブと続きますが、ヤコブの子ども達12人がそれぞれの部族の中心になります。つまり12部族が神様を中心とした歩みをすることになります。しかし、周辺の国々はみな王国であります。王様を中心にして存立しているのであります。イスラエルの12部族はそれぞれの部族の長がいても、王国には対抗できません。それで自分達も王国になって、周辺の国々に対抗することを考えるのであります。それで最初に王様になったのはサウル王でした。神様のお選びでもありました。しかしサウル王は、最初は神様のお心によって支配しますが、次第に自らの思いで国を治めるようになるのであります。神様のお心から離れてしまったサウルに対し、神様もサウルを見はなし、ダビデを次なる王様にさせます。ダビデは人間的な面もありますが、全体的には神様のお心をもって国を治めたのであります。そのためダビデは後々まで名君とされ、もう一度ダビデのような王様が現れることを願うようになるのであります。それがメシア思想と言うものであります。メシアとは救い主との意味合いであります。そのダビデの後がソロモン王であります。ソロモンは神様の知恵をいただき、神様の知恵をもって国を治めますが、しかしきわめて人間的に生きた王様でもありました。そのため、ダビデのようには慕われなかったのであります。ソロモンの後にお家騒動が起き、イスラエルの国は北イスラエル、南ユダの国として二つに分かれてしまうのであります。その北イスラエルは紀元前721年にアッシリアという大国に滅ぼされてしまいます。そして南ユダは紀元前587年にバビロンの国に滅ぼされてしまうのであります。北イスラエルにしても南ユダにしても預言者イザヤ、エレミヤ等が神様のお心を示し、人間の力に頼るのではなく、ただ神様のお心に従いなさいと繰り返し示すのであります。結局、大国の狭間にある聖書の人々は、とくに国の指導者達はアッシリアに助けを求め、エジプトに心を寄せたりするのであります。神様から離れてしまっている人々に対する審判がバビロンに滅ぼされるという結果になりました。多くの人々がバビロンに連れて行かれたのであります。いわゆる捕虜でありますが、聖書の世界では捕囚と称しています。異国の空の下で故郷や中心のエルサレムの神殿を思いつつ過ごすのであります。
 そこで今朝の聖書になります。第二イザヤは捕囚の人々に神様のお心に立ち帰るよう示しています。神様こそ真にあなた方を導く方であり、慰めを与え、新しい希望を与えてくだると示しているのであります。「新しい歌を主に向かって歌え。地の果てから主の栄誉を歌え」と人々を励ましています。もはや苦しみの歌ではなく、悲しみの歌ではなく、神様があなた方を今の状況から解放してくださるので、立ち上がりなさい、新しい歌を、喜びの歌を歌いなさいと示しています。「主は勇士のように出で立ち、戦士のように熱情をふるい起し、叫びをあげ、鬨の声をあげ、敵を圧倒される」と言うのであります。あなた方はもはや苦しんでいるのではない、悲しんでいる時ではないと示しています。「わたしは決して声を立てず、黙して、自分を抑えてきた」と示していますが、神様は黙りこくっているのではありません。人々が神様から離れてしまったので、あたかも神様が沈黙を保っているように感じるのであります。神様はいつの時代においても御心を示していました。それは預言者という人々であります。預言者は時の社会に神様のお心を示してきました。しかし、神様に心を向けない人々は神様の御心が聞こえないのであります。バビロンの捕囚で苦しみのうちに生きている人々は、今こそ預言者の言葉を聞くようになりました。捕囚の身であるという絶対性に対して、イザヤは「神様の勝利」宣言を示すのであります。人々が神様に心を向けるとき、神様こそ私達をお救いくださり、新しい歩みを導いてくださることを知るのであります。新しい歩みが始まったのであります。新しい歩みは神様のお心にある歩みなのであります。今の私の絶対性を打破されなければならないのであります。

 私達も新しい歩みが始まりました。主イエス・キリストのご復活が私達を新しい歩みへと導いてくださるのであります。今朝はヨハネによる福音書によりイエス様のご復活が示されています。「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」と報告しています。週の初めの日は日曜日であります。ユダヤ教の社会でありますから土曜日は安息日であります。神様が天地を創造され、七日目に休まれたので、土曜日は安息日とされました。安息日は神様の創造を感謝し、そのご栄光をたたえる日であります。そして翌日の日曜日から普通の生活に戻るのであります。週の初めの日になります。社会では週末と言えば、土曜日、日曜日でありますが、キリスト教では日曜日が週の初めの日であります。それは主イエス・キリストが甦られたので、新しく始まる日とされました。日曜日はご復活のイエス様を喜び、讃美する日であります。
 マリアさんが日曜日の朝早く、まだ暗いうちに、イエス様のお墓に行きました。ところがマリアさんがイエス様のお墓に行きますと、墓の前に置かれていた石が取りのけられているのを知るのであります。この時代の埋葬は横穴に遺体を安置するものであり、入口が空いていれば、動物が入ることが考えられるので、石でふさいでいたようです。しかし、マタイによる福音書の報告によりますと、かねてよりイエス様は十字架にかけられ、墓に納められて三日目に復活することを示していましたので、それを聞いている時の社会の指導者達は、イエス様の弟子達が死体を盗んで、どこかに隠し、イエス様は復活したと言いふらすと思いました。ですからお墓の入り口を大きな石でふさぎ、番兵をつけて死体を盗まれないようにしたと報告しています。しかし埋葬されてから三日目の朝、その大きな石はもろくも動かされたのであります。ヨハネによる福音書はその辺りは詳しく報告していません。お墓参りに行ったマリアさんも、当然のことながら入口は石でふさがれていると思って行ったのであります。ところが石は取りのけられていました。そこですぐにお弟子さん達に知らせに行くのでありました。知らせを聞いたペトロさんと「イエス様が愛しておられたもう一人のお弟子さん」が、墓に走って行きました。彼らもお墓の入り口は石でふさがれていると思っていたのであります。そして、お墓について、確かにイエス様のご遺体がないことを確認したのであります。
 今朝の聖書の示しはそれで終えています。つまり、彼らはイエス様がご復活になられたことには思いが及ばなかったのであります。この時点では、かねてよりイエス様がご復活することを示していたにしても、復活されたということには思いが及ばなかったということであります。しかし、彼らの確固たる思い、イエス様はお墓の中に安置されているという事実が否定されたのであります。イエス様のご復活を確信する第一の段階であります。すなわち、私達は自分が絶対と思っていることが、イエス様のご復活によって打ち破られるということであります。今までこのようであったから、このように展開していくだろうとは私達の思いであります。しかし、私達の思いは打ち破られるのであります。まず、十字架にかけられ、死んで葬られ、三日目にご復活されたということは、本当は信じられないのであります。ところが今は、私達は信じています。主イエス・キリストは十字架におかかりになりました。それは時の社会の指導者達の妬みでありました。しかし、神様は人間がどうしても克服できない姿、内面的な悪の姿、自己満足、他者排除の根本的な姿をイエス様の十字架の死と共に滅ぼされたのであります。私達は十字架を仰ぎ見ることによって、私の内なる悪の姿が滅ぼされたと信じるのであります。救いであります。自分ではどうすることもできない自分自身をイエス様がお救いくださったのであります。イエス様のお弟子さん達はイエス様のご復活を信じる第一関門を通過したことになります。絶対と思っていたことが打破されることです。そして、この後、ご復活のイエス様が現れ、ご復活を示されたのであります。もはや第一関門を破られているお弟子さん達は、そのままご復活のイエス様を信じたのであります。私達も第一関門である絶対性を打破されなければなりません。そして、そこにこそご復活のイエス様が現れ、力を与え、導きを与え、新しい歩みへと導いてくださるのであります。主イエス・キリストのご復活は新しい歩みを導いてくださるということであります。

 大塚平安教会時代、一人の青年がいました。教会付属の幼稚園を卒業し、その後は教会学校に出席しつつ成長したのです。だから、ずっと教会で成長しているのですから、イエス様の救いを信じて歩んでいると思っていました。もはや成人となり、教会学校の子供たちと共に歩んでいるのです。だから彼も洗礼を受けて、イエス様の十字架を見つめつつ歩んで欲しいと思っていました。そしてある日、洗礼を受けることを勧めたのです。すると彼は、今は教会に出席しているが、来年はどうなっているのかわからないというのです。自分はこうなると思っていたのです。自分を見つめたとき、自分はこうなるのだと思っていたのです。自分の絶対性を信じていました。洗礼を勧めたとき、来年の今頃はどうなっているか分からないから受けないと言っているのは、明日の自分が見えるのです。絶対的な自分の姿なのです。自分の性格がわかっていて、このような自分が洗礼を受けても変わるわけがないと思っているのです。私たちも自分の生活設計をすることがあります。自分の性格、姿から、自分はこうなると思い込んでしまうのです。人間はそんなに不動の存在ではないのです。その時、私は、来年はあなたの絶対ではないと示し、むしろ来年はイエス様と共に歩んでいるという希望を持つことではないかと勧めたのであります。自分の明日はこのようだと断定している私たちではありませんか。自分はこのようであるからと決めているのではないですか。私の絶対性を打ち破られたのが主イエス・キリストのご復活であります。ご復活のイエス様をしっかり受け止め、新しい一歩を歩みましょう。
<祈祷>
聖なる御神様。主のご復活により、新しい一歩を歩みだすお恵みを感謝いたします。どうか新しい歩みが祝福となりますようお願いいたします。主の名によって。アーメン。