説教「良い業へと導かれる」

2022年9月25日、三崎教会

聖霊降臨節第17主日

                      

説教・「良い業へと導かれる」、鈴木伸治牧師

聖書・申命記15章1-11節

   マルコによる福音書14章1-9節

賛美・(説教前)讃美歌21・405「すべての人に」

   (説教後)讃美歌21・567「ナルドの香油」

前週の19日は敬老の日でした。昔は、敬老の日は9月15日と決められていたのですが、祝日法ができて、祝日は日曜日と関わせることにして連休となるようにしています。幼稚園の職務をしている頃、敬老の日を迎えると、近くの老人ホームを訪問していました。お年寄りの皆さんに歌のプレゼントや一緒に手遊びをして過ごすのです。そして、帰る時には老人ホームの方でお土産を用意してくれるので、こども達は喜んでいたのです。お年寄に喜んでいただくために、準備して訪問するのですが、それに対する見返りがある、子どもたちも喜ぶのでありますが、何となく割り切れない思いが残ります。6月のことですが、「子どもの日・花の日」の行事があり、美しいお花を咲かせてくださる神様は、私たちにもたくさんのお恵みをくださっている感謝をささげます。そして、持ち寄った花を、日ごろお世話になっている皆さんにお届けしたのでした。警察署と消防署を訪問させていただきました。警察署を訪れ、迎えた警察官の皆さんに子供たちがお花を贈呈しました。署長さんがご挨拶下さり、そして一人一人に感謝状までくださるのでした。そしてパトカーや白バイのオートバイに載せてくれるのです。子どもたちは大喜びで白バイに乗って手を振ったりしていました。そして、今度は消防署を訪問しました。そこでも消防官の皆さんが子供たちのお花を喜んで受け取ってくれました。そして、消防車や救急車に乗せてくれたりしました。通常では経験できないことなので、子どもたちは大変喜んだのでした。お世話になっている皆さんにお花を贈ることは良い業であります。しかし、それに対して、子どもたちが大喜びするようなことで報いてくださること、なんとなく心に残りました。

 良い業をする、それに対して見返りがある、そういう構図を無くしたいのです。良い業を受けた皆さんにとっては、大変うれしいことなので、お返しをしたいとの思いがあるのですが、良い業が、お返しが目的になる場合もあるということです。今朝は「良い業へと導かれる」と題しての説教ですが、聖書を通して良い業を示されたいのです。

 旧約聖書は「負債の免除」が主題になっています。負債と言っていますが、借金をしたり、何かのことで借りがあることですが、それを免除することを「良き業」としています。「良い業」を別の言葉で言えば「慈しみ」であり、聖書は繰り返し「慈しみ」を持ちなさいと教えているのです。今朝の旧約聖書申命記15章1節から11節までであります。「負債の免除」の示しなのであります。借金を帳消しにしなさいとの教えであります。「7年目ごとに負債を免除しなさい」との教えは、まさに聖書の人道的な教えであります。人道的な教えとして、よく示される聖書は「落ち穂」の教えであります。麦刈をするとき、落ち穂を拾い集めてはならないし、むしろ落ち穂が出るような麦刈をしなさいとも教えているのであります。落ち穂は貧しい人々が、麦刈の後に畑に入り、落ち穂を集めて生活の糧にするのであります。こうした人道的な教えが他にも多くありますが、「負債の免除」もその一つであります。人にお金なり、物なりを貸した場合、6年経っても返すことができない。そして7年目には免除してあげなさい、との教えです。「だれでも隣人に貸した者は皆、負債を免除しなければならない。」と示しています。聖書の民族は小さな民族であり、歴史において400年間も奴隷の苦しみを味わいました。苦しみを味わったあなたがたは、人に対して苦しみを与えてはならない、ということが神様の「慈しみ」であります。神様のあわれみ、慈しみによって奴隷から解放されたのであります。慈しみを多く与えられているあなたがたは、神様の慈しみを実践しなさいとの教えであります。「あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい」と示しています。

 やはり人間ですから、基本的には自分が損をしたくないのであります。神様の教えであっても、どこかですり抜けることを考えています。そのことも、ちゃんと示されています。「7年目の負債免除の年が近づいた」とよこしまな考えを持って、「貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい」と示されるのであります。そして、最後に言われたことは、「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」と示されています。

 「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる」と言われているのは主イエス・キリストであります。むしろ今、しなければならないことを示されているのがイエス様なのです。マルコによる福音書14章3節以下は、イエス様がベタニアのシモンの家で食事をしているときのことです。一人の女性が食事をしているイエス様の頭に、非常に高価なナルドの香油を注いだのであります。この当時の食事は、横になって食事をすることがあります。女性のしたことを見ていた何人かの人達が憤慨します。「なぜ、香油を無駄使いしたのか。この香油は300デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」と言うのです。申命記に示されていますように、聖書の世界では、貧しい人々を顧みることは神様の示しなのであり、社会的にも奨励されていることであります。女性のした行為は、批判し怒った人々の言う通りなのであります。300デナリオンもするナルドの香油は一年分の生活を支えるに相当するお金になります。このように批判した人々にイエス様は、「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」と言われました。確かにイエス様にとっては高価なナルドの香油を注がれたのですから、うれしいことでありますが、そのような人間的な感情ではなく、今の状況の中で言われているのです。もはや時が迫っているということであります。

 なぜ、この女性の行為、高価な香油をイエス様にささげたのか。この行為と、マルコ福音書12章41節以下に記される「やもめの献金」を共に示される必要があります。大勢の人々が神殿でお賽銭を入れている姿をイエス様は見ておられます。人々はたくさんのお金を賽銭としてささげていました。しかし、ここに一人の女性がいました。この人は当時もっとも低いお金を賽銭としてささげたのです。イエス様は、この女性が一番多くささげたと言われたのでした。この女性にとって全財産をささげたと言われたのでした。今、ナルドの香油をイエス様にささげている女性にとって、全財産なのです。一年分もするお金をささげているのです。全てをささげる姿勢でもあるのです。まさにこれをささげては「痛い」と言う思いもあるのです。旧約聖書で示されている「負債の免除」も返してもらえないと「痛い」と言うことなのです。他者と共に歩むとき、「ちょっと痛いことがある」ということ、そこに「良い業」が導かれてくるのです。

 ナルドの香油は神様の「慈しみ、愛」そのものであります。神様はイエス様に十字架への道を歩ませること、まさに「痛い」のであります。この世的に考えれば、香油を売って300デナリオンにし、貧しい人々に施してあげることです。貧しい人々は喜びますが、それと共に私自身の誇りが高くなるでしょう。「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」とイエス様は教えておられます。地の塩・世の光として生きるとき、まさに人々は喜びへと導かれるのであります。その時、イエス様は「地の塩・世の光」を教えつつ、「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタイ5章13節以下)と教えておられるのです。今、わたしがしていることは人々に喜ばれることでありますが、神様が称えられることなのか、と言うことであります。

 人間の他者への関わりは、自分がしたことに対して見返りがあるということです。たとえば教会は災害の援助を惜しみなく行いました。そして、惜しみない援助が、援助を受けた人が教会に来るようになり、教会の人たちは自分たちの行為が報われたと思うのです。これだけ援助をしても、援助をした人たちは別に教会に来るわけでもないので、援助した人たちは空しく思うのでしょうか。神様の愛、慈しみは、見返りのない援助ということです。「ちょっと痛い」けれども他者と共に歩むことなのです。

 聖書に示される「やもめの献金」、貧しいながら自分の全財産をささげた女性、高価な「ナルドの香油」をすべてイエス様にささげた女性は、「ちょっと痛い」どころではなく、それこそ「死活」の問題でもありましょう。聖書はある意味では極端な示しを与えていますが、私達の生活として、他者と共に歩むとき「ちょっと痛い」姿勢が、「良い業へと導かれ」てくることなのです。ボランティアをしているときにも、この時間は自分にとって「ちょっと痛い」のですが、やはりしなければならないこととして取り組むことです。「ちょっと痛い」ことは自分を犠牲にしているからです。その姿勢が神様に祝福されることであり、良い業へと導かれてくるのです。

これから献金をささげますが、ささげる献金が私にとって「ちょっと痛い」お金なのでしょうか。

<祈祷>

聖なる御神様。神様の御慈しみをいただき、十字架の救いを与えられ感謝致します。世の人々に証しさせてください。主の御名により。アーメン。

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