説教「再び生きる者となる」

2016年6月26日、六浦谷間の集会 
聖霊降臨節第7主日

説教、「再び生きる者となる」 鈴木伸治牧師
聖書、ホセア書14章2-8節
    使徒言行録9章36-43節 
     ヨハネによる福音書4章43-54節
讃美、(説教前)讃美歌54年版・235「しゅのみたみよ」
    (説教後)讃美歌54年版・532「ひとたびは死にし身も」

 今は梅雨時で、大雨による被害が各地であり、悲しい結末となっていることに心を痛めています。九州地方でも大雨が続き、熊本地震で被災された人々の避難生活を心配しています。早く雨の季節が終わることを願っています。そういう中で東日本大災害から5年を経ており、少しずつではありますが復興が導かれていることに希望を持っています。自然の中に生きている人間は、どうしても自然災害を被らなければなりません。災害を経験しながら、復興に立ち向かう、人間の力強い姿を示されています。人間は立ち直る姿を持っているのです。互いに励まし合って、この状況を切り抜けて行くことが大切なのであります。今朝は「再び生きる者となる」との説教題であります。聖書には死んだ者が生き返ることが示されていますが、聖書の示しは、力を失くした者が再び現実を踏みしめて行くことの導きなのであります。もうこれで終わりというのではなく、まだ力が与えられていることの導きを示されているのです。
 最近は、教会における牧会がないので、自ずと私自身の証が多くなっていますが、今朝も私自身の証をさせていただきます。今は隠退しており、隠退してから5年を経ております。2011年6月1日付で隠退の届を提出しました。2010年3月に、それまで30年間6ヶ月間、大塚平安教会の牧会をしていましたが退任したのです。しかし、4月からは横浜本牧教会の代務者に就任しました。同教会には10月から後任の牧師が就任しますので、それまでの留守番牧師としての務めです。そして、10月からはその務めが終わりました。今まで担っていた日本基督教団総会書記もこの10月で退任しました、更にドレーパー記念幼稚園の設置母体である学校法人大塚平安学園の理事長もこの10月で退任したのです。これですべての職務が終わりとなりました。これからはどこかの教会に夫婦で出席しながらの生活になります。横浜本牧教会代務者時代も、夫婦で話し合っていたのです。10月からはどこの教会に出席しようかということです。それで、まず私の出身教会の清水ヶ丘教会に出席しました。次に連れ合いのスミさんの出身教会、高輪教会に出席しました。そして、大塚平安教会も横浜本牧教会も後任の牧師を招聘し、就任式を挙行することになったので、就任式は午後からですが礼拝から出席したのです。そのような礼拝出席でしたが、2010年11月28日の日曜日を迎えようとしていたとき、どこの教会に出席するというのではなく、私達の家で、夫婦で礼拝をささげることにしたのでした。実は、退任しても、私は土曜日には説教の用意ができていました。横浜本牧教会を退任する頃から、インターネットで説教を公開していたのです。説教の用意がある、牧師と信徒がいる、礼拝ができるのです。そして11月28日に六浦谷間の集会としての第一回礼拝をささげたのでした。二回目の礼拝には大塚平安教会時代にお交わりのあった二人のご婦人が出席されました。それぞれ高齢になりつつある方で、一人は追浜に住んでおられ、大塚平安教会には出席できない方でした。一人は横浜の瀬谷に住んでおられましたが、私達の退任と共に礼拝には出席されていないという方でした。お二人を迎えて礼拝をささげたのです。それから6年近くになりますが、お一人は北海道に帰られました。お一人は高齢となってなかなか出席できないでおられます。通常は夫婦二人の礼拝ですが、時には我が家の子供達、また知人が出席されたりしています。この礼拝と共に、毎月第二日曜日には横須賀上町教会の礼拝に招かれており、また隔月になりますが、三崎教会の礼拝に招かれています。教会における務めが終わったとき、もうこれで終わりかと思いました。それで隠退したのですが、今では生き返ったような思いでおります。神様はまだ力を与えてくださっている、と思うようになっているのです。大げさな言い方かもしれませんが、私は再び力を与えられているのです。まだお終いということではないと、つくづく示されているのです。今後ともみ言葉に向かい、全国に発信しながら、職務を続けたいと示されているのです。

 旧約聖書ホセア書の示しをいただきましょう。「イスラエルよ、立ち帰れ。あなたの神、主のもとへ」と冒頭の呼びかけがあります。聖書の人々が神様のお心から離れてしまい、自分勝手に生きるようになってしまいました。それで、人々は自分達がどのように生きてよいか分からなくなってしまうのです。そのような人々に神様のお心を示しているのか今朝のホセア書であります。「あなたは咎につまずき、悪の中にいる。誓いの言葉を携え、主に立ち帰って言え。『すべての悪を取り去り、恵みをお与えください。この唇をもって誓ったことを果たします。アッシリアはわたしたちの救いではありません。わたしたちはもはや軍馬に乗りません。自分の手で造ったものを、再びわたしたちの神とは呼びません。親を失った者は、あなたにこそ憐れみを見出します』」とホセアは人々に言います。神様から 離れ、神様ではなく偶像により頼み、また神様ではなく人間的な力により頼んでいた人々でありました。しかし、偶像は何の助けにもなりません。他の力は限りがあり、真に人々の力にはならないのです。そのことに気づき始めた人々に、ホセアは、今こそ神様のもとに立ち帰ることを示しているのです。アッシリアは強力な国であります。その強さに頼ることを求めたのです。しかし、他の国は自分の国の繁栄のみを意図しますので、聖書の人々の力にはならないのでありました。「イスラエルよ、立ち帰れ。あなたの神、主のもとへ」とホセアは叫んでいます。
 ホセアが人々に神様のもとへ立ち帰ることを示したとき、ホセアは自分の体験において言っているのであります。ホセアは他の預言者、イザヤとかエレミヤのように特別な召命体験をもってはいません。召命とは神様の御用へと導かれるとき、神様の呼び出しの声であります。イザヤもエレミヤも呼び出しの体験をもっています。ところが、ホセアはその体験はありません。ホセアはむしろ自分の体験の中で、神様の御心を示されるのです。彼は結婚しますが、その後、彼の妻は心を翻して他の男性のもとへと行ってしまうのです。この悲劇的な体験をしたとき、これはまさに神様の示しだと悟ります。彼の妻ゴメルはホセアの愛を裏切って彼を捨て、他の男性のもとへ走ったのですが、ホセアはこの妻を捨てず、忍耐して待ち、彼女を再び迎え入れたのでありました。このことは神様と聖書の人々との関係でありました。神様と人々とは密接な関係でありました。聖書にはこの関係を花婿と花嫁としています。その人々が神様から離れ、偶像の神に心を向けるようになったのです。ホセアの体験は神様と人々との関係であることを示されたのであります。「イスラエルよ、立ち帰れ。あなたの神、主のもとへ」と声を大にして人々に示すのでありました。神様のお心に帰るならば、回復と祝福が戻ってきますと示します。再び神様の愛が注がれることを示しているのです。神様のお心に生きるならば生命の回復、再び生きる者へと導かれるのです。

 再び生きる者へと導いてくださるのは主イエス・キリストであります。今朝のヨハネによる福音書には、王の役人の息子の生命の回復、また11章にはラザロの生命の回復が記されています。ルカによる福音書7章にはナインの町で、ある母親の息子の生命の回復が記されています。その他にも病気の人などの回復が記されています。いずれも生命の回復、再び生きる者へと導かれることを示しているのです。
 今朝のヨハネによる福音書4章43節以下は、ガリラヤのカナにおける生命の回復であります。カナはイエス様が結婚式に招かれ、お祝いのぶどう酒が無くなり、裏方では大変になるのですが、イエス様により水がぶどう酒に変えられた場所であります。そのカナにいるとき、王様の役人がイエス様に、息子が死にかかっているので、どうぞおいでいただきたいとお願いいたします。この役人はカファルナウムという町からやってきました。カナから随分と離れています。しかし、イエス様はそのカファルナウムへは行かず、「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と言われました。この役人はイエス様の言葉を信じて帰って行ったのです。ところが、帰っていく途中、家から僕たちが迎えに来ました。息子が治ったので、早く主人に知らせるためでありました。「昨日の午後1時に熱が下がりました」と僕は言いました。その時間は、イエス様が「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と言われた時でした。役人も家族もみなイエス様を信じたと示しています。
 このお話しと似たような聖書がいくつかあります。マタイによる福音書8章には百人隊長の僕が癒されたことが記されています。ここではイエス様に癒しをお願いしますが、この百人隊長は、「ただ、一言イエス様のお言葉をください」とお願いしています。「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるようなものではありません」と言い、ただお言葉をいただければ、わたしの僕は癒されます、というのでした。イエス様は百人隊長の信仰を祝福します。僕は癒されたのです。再び生きる者へと導かれたのです。
 聖書、福音書にはイエス様により再び生きる者へと導かれる出来事がいろいろと示されています。では私たちも再び生きる者へと導かれるのか。導かれているのです。生き返るのか。生き返るのです。しかし、私たちは、実際的に生命が生き返ることを考えます。当然のことであります。大塚平安教会在任時代、まだ若い笠倉正道さんが次第に死期に近づきつつあるとき、一人の青年が、ルルドの泉へ連れて行きましょうと熱心に言ったことがあります。ルルドの泉で生命の回復があることが伝えられていたからです。笠倉正道さんはその後、天国へと導かれました。一年半の闘病生活でありました。しかし、私は、笠倉正道さんは生命の回復が与えられたと信じています。永遠の生命へと導かれたのであります。闘病生活の中から信仰が深められ、イエス様の愛のうちに生きるようになったのであります。そこに生命の回復が与えられていたのであります。
このヨハネによる福音書は私たちが永遠の生命に生きることが主たる目的で書かれています。私たちが永遠の生命に生きるために、神様は独り子なる主イエス・キリストをこの世に与えられたのであります。十字架の贖いにより、人々を神様のお心へと導かれたのであります。十字架の主イエス・キリストを仰ぎ見ること、そこに生命の回復が与えられます。福音書の中で、実際的に生命が回復され、病気が癒されることを記しているのは、私たちが再び生きる者へと導かれること、永遠の生命へと導かれることなのであります。神の国においては、みな祝福のうちに導かれることを聖書は示しているのです。永遠の生命への回復を示しているということです。
 生活の途上におきまして、いろいろな出来事があります。人とのかかわりの中で、社会のさまざまな課題の中に押し流されそうな私たちであります。苦しみ、悲しみ、弱さを覚えるのでありますが、そのとき、主イエス・キリストの十字架が示されるのです。主イエス・キリストが私のために血を流され、死なれたことを示されるのです。そのとき、私の中にある罪の姿をも共に滅ぼされたことを示されます。再び、十字架の贖いを示されたとき、私たちはいつの間にか再び生きる者へと導かれているのです。その回復は永遠の命への導きであります。そうです、社会や自分の生活に埋没されて、永遠の生命への歩みを見失っていたからです。再び生きる者へと導かれるのは、永遠の生命への導きなのです。

 先日、6月14日ですが、「神の庭・サンフォーレ」支える会の礼拝があり、私が礼拝を担当しました。このサンフォーレには、最近、大塚平安教会時代からのお交わりがあった井馬栄一さんが入所するようになりました。それまでは病院生活で、サンフォーレの入所を希望していました。久しぶりに井馬さんとお会いしましたが、支援員の方が言われるには、鈴木牧師先生ご夫妻とお会いして、今日はいつになく喜んでいましたと言われました。本日は、この方のお父さん、井馬栄さんについてお話ししておきたいのです。お父さんは公務員でなかなか礼拝には出席でない方でした。そして、定年になりまして礼拝に出席するようになったのです。役員にまで選ばれました。今までは礼拝には出席できなかったのですが、とても力強く歩まれるようになっていました。礼拝が終わると、突然立ち上がって、最近示された聖書ですと言われ、その聖書を朗々と読まれていました、礼拝が終わって立ちあがろうとしていた皆さんは、再び座って読まれる聖書を聞いていたのです。お宅にお訪ねすると、食堂の間に、ある言葉が掲げられていました。「キリストは我が家の主、食卓の見えざる賓客、あらゆる会話の沈黙せる傾聴者」との言葉です。井馬栄さん自身がお書きになっているようです。良い言葉であると感心しました。井馬さんの言葉かと思っていました。この言葉があるそうで、木彫りにされているので、我が家にも掲げています。この木彫りの言葉を読むたびに井馬栄さんの信仰を示されています。公務員時代は礼拝に出席はできなかったとしても、その後、再び生きる者へと導かれたと示されているのです。
 再び生きる者へと導かれる、それはいつも喜びつつ歩むことであります。主イエス・キリストの十字架の救いが、再び生きる者へと導いてくださるのです。イエス様による生命の回復の奇跡は、現実には信じられないようなことであります。しかし、そのことに思いを巡らすのではなく、生命の回復の奇跡は、私たちが、再び生きる者へとお導きくださっていると示されなければならないのです。喜びの歩みとなるのです。
<祈祷>
聖なる神様。十字架により再び生きる者へとお導きくださり感謝します。地上の人々に生命の回復を与えてください。キリストのみ名によりおささげ致します。アーメン。