説教「愛の人生へと導かれる」

2018年4月22日、六浦谷間の集会 
「復活節第4主日

説教・「愛の人生へと導かれる」、鈴木伸治牧師  
聖書・レビ記19章9-18節
    ヨハネの手紙<一>4章13-21節
     ヨハネによる福音書13章31-35節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・152「陰府のちからは」
    (説教後)讃美歌54年版・526「主よ、わが主よ」

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 4月より伊勢原幼稚園の園長を担うことになり、再び子供たちと共に過すことを感謝しています。子供たちの園の生活を示されるとき、子供たちは「きらきら、わくわく、のびのびと」の姿であると示されています。お友達との出会い、またいろいろな遊びや経験は、きらきらと目を輝かし、わくわくしながら取り組んでいくのです。そして、それらの経験がのびのびとした歩みへと導かれていくのであります。子供たちのそのような園生活を励ましてあげたいと思います。励まされるのは私達大人でもあります。イエス様は、子供たちを近くに集め、そして子供を抱いては祝福のお祈りをされたのです。そのとき、イエス様は、「子供のように神の国を受け入れるものでなければ、決してそこに入ることはできない」と示されたのです。子供から神の国への導きを与えられなさい、と示されたのでした。
 キリスト教の幼稚園として、愛が育まれる取り組みをしたいと思っています。人は「愛する」姿勢を持っていますが、その愛が自分中心なのか、それとも他の存在を受け止める愛なのか、大きな課題であります。ここで、一つの物語を紹介したいと思います。ヘルマン・ヘッセという小説家が「アウグスッス」という童話を書いています。この本は新潮文庫に「メルヘン」と言う題で納められています。アウグスッスのお母さんは、彼が生まれるとき、不思議な老人と出会います。その老人は、「赤ちゃんが生まれたら、どんな人になってもらいたいか」と尋ねるのです。お母さんは、「この子が生まれたら、すべての人から愛される人になってもらいたいです」と答えるのです。やがて赤ちゃんが生まれました。それはそれは可愛い赤ちゃんでした。この赤ちゃんを見た人々は、一様に「可愛い」と言って愛してくれました。そして、次第に成長していきますが、出会う人々は、アウグスッスを愛してくれるのです。少年になり、青年になりますが、いつの時代でもアウグスッスは人々から愛されるようになりました。そして、多くの女性がアウグスッスとの関係を求めるようになるのです。彼は求められるままに、自由に、好きなことをしつつ過ごしていたのでした。ところが結婚している女性とも関係するようになり、彼は訴えられて刑務所にいれられるようになるのです。刑務所で過ごすうちにも、彼は人から愛されることを心から憎むようになるのです。そして、刑務所を出たとき、かつて彼の母親が不思議な老人と出会いましたが、その老人と出会うのでした。老人は彼に、「今後、どんなことを望んでいるか」と聞くのです。すると彼は、「愛されるより、愛する人間になりたい」と答えるのでした。刑務所から出た彼は誰からも相手にされませんでした。みじめな苦しい生活になります。誰も彼の世話をする人はいないのです。しかし、彼は、誰からも相手にされなくても、何とかして人を愛したいとの思いでいました。人々から暴言を受けようとも、その人を愛そうとしたのです。彼は、愛されるより、愛する生き方が、どんなにか幸せであるかを知るようになるのです。
 私たちが「愛する」と言ったとき、いろいろな愛の姿があります。皆さんがお子さん、家族を愛することです。また、友達同士の愛の姿もあるでしょう。そして、愛は男女の愛があります。愛を分類したとき、これらの愛を「エロス」と称しています。家族の愛は自然の姿でありますが、エロスの愛は自分が中心なのです。自分を喜ばす、自分の思い通りという、自分の思いにあって愛が発生するのです。家族の愛は自然であると言いますが、家族の場合も、自分が中心になって大きな問題を起こすこともあります。親子の断絶とか相続争いとか、家族であっても、愛を失うことになります。自分が中心のエロスだからです。しかし、ここにもう一つの愛があることを聖書は教えてくれるのです。イエス・キリストが教えてくれた愛です。イエス様は、世に現れて教えられたことは「あなたがたは自分を愛するように、隣人を愛しなさい」ということです。自分を愛することは人間の本来の姿です。自分を愛すると同じように隣人を愛するということです。一人の存在がいます。その存在が好きだとか、格好いいとか、という判断で受け止めるのではなく、一人の存在を、ただそこにいるだけで受け止めるということです。そうである時、自分の気持ちを超えなければなりません。好き、嫌いの判断を超えること、自分の思いを超えることなのです。一人の存在がいる。ただそれだけでその存在を受け止めることなのです。この愛を「アガペ」と称しています。私たちはエロスを持ち、そしてまたアガペをもって歩むことが聖書の示しなのです。先ほどのアウグスッスのお話も、愛されることより愛することが人間の歩みなのだと示しているのです。

 他の存在を大切にしなさいと旧約聖書レビ記において示されています。レビ記は聖書の人々が、生きるに必要な戒め、掟が記されています。いわば六法全書のようなものです。基本はシナイ山モーセに与えられた「十戒」であります。この十戒を中心にして、いろいろな戒めが与えられているのであります。神様に選ばれた民として、聖なる民として生きなければなりません。神様の導きは他の存在と共に生きるということです。
 今朝の聖書は馴染みのないレビ記でありますが、私達にとって大切な教えであります。レビ記19章は「聖なる者となれ」との表題で示されています。1節以下、「主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。父と母を敬いなさい。わたしの安息日を守りなさい」と示されています。ここにも十戒をもって示された戒めが含まれています。聖なる者の生き方は、このようにあるべきですと示しているのは、今朝の聖書9節以下であります。「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈りつくしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽してはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかなければならない。わたしはあなたたちの神、主である」と示しています。
 穀物は刈りつくしてはならない、むしろ隅のほうは残しておきなさいと教えているのです。ここにも示されていますように、残された穀物は貧しい人達、あるいは外国から来ている寄留の人たちの権利であるとしているのです。何よりも聖書の人々がエジプトで400年間、寄留の民でした。しかも奴隷として生きなければならなかったのであります。困難な生活は身を持って経験しているのです。そうであれば、貧しい人々、寄留の人々を顧みるのは当然であります。ミレーという画家が「落ち穂拾い」を絵に描いています。落ち穂を拾っている婦人達はこの畑の人たちではありません。貧しい人達であり、寄留の人たちであります。この人たちは落ち穂を拾い、落ちた実を拾いつつ日々の生活が導かれているのであります。働くときには、いつも他の存在をも心にとめつつ、恵みを分かち合いなさいと教えているのであります。
 前任の教会時代、幼稚園にスリランカ人の子どもが入園しました。しかし、生活が困難であり、入園料を割り引いたり、保育料も半額にするとかで支援してあげました。その家族は滞在のビザがないままに日本に住んでいたのであります。勤めていた会社に入国管理局の立ち入り検査が入り、ビザのない人を働かせてはならないということで、辞めさせられてしまいました。会社の社宅に入っていましたので出なければなりません。仕事はなくなる、住むところもなくなる、教会の有志が支援会を立ち上げ、今でも支援しています。私も関わり上、家族の保証人となりましたので、この家族は仮放免という身分で何とか日本にいることができています。難民申請を出していたのでありますが、スリランカは形の上では紛争がなくなりましたので、難民申請は却下されてしまいました。何とか日本で生活したいとの希望がありますので、支援する会が皆さんに呼びかけて協力していただいています。皆さんが支援金や生活物資で支えているのであります。
困難な状況に生きる人々は多くおります。聖書の教えがあるから、支援しますということではなく、手を差し伸べざるを得ないのであります。そのような中でレビ記を読みます時、神様の御心は人間が共に生きることであることであり、そのために人道上の教えを与えているのであります。聖書で教えられなくても、社会の人々は貧しい人々に心を向けているでしょう。しかし、聖書の根本的な示しは、レビ記19章18節で示されますように、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」との示しであります。自分の気持ちにおいて貧しい人々に心を向けることではなく、神様の示しは、自分を超えて他の存在を受けとめなさいということであります。ここに社会の人々と異なる姿勢が導かれるのであります。

 「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と繰り返し示しておられるのは主イエス・キリストであります。ヨハネによる福音書はイエス様の十字架の時が刻一刻と近づいている状況です。13章1節以下では、イエス様がお弟子さん達の足を洗うことが記されています。足を洗うということ、相手の足を自分の目の高さまで持ち上げるならば、相手はひっくりかえってしまいます。足を洗うには相手の足もとに蹲って洗うのです。この行為を通してイエス様は「仕えて生きる」ことを示されたのであります。その後、21節以下ではイエス様を裏切るユダについて記されております。そのユダがいよいよ出て行き、行動を開始した時にお弟子さん達にお話しされたのが今朝の聖書であります。その時、イエス様は「今や、人の子は栄光を受けた」と言われました。「人の子」とはイエス様ご自身であります。「栄光を受けた」とは、神様の御心であります十字架による救いの時が始まったということであります。その十字架への道が始まった時、今までも教えられていましたが、「愛する」ことを示されました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とお示しになっておられるのであります。イエス様は「互いに愛し合う」ことは掟であると示されたのであります。レビ記において、貧しい者、寄留者のために穀物を刈り残すことは掟でありました。そのようにしたほうが良いですよ、と示しているのではなく、掟、戒め、守らなければならない法律なのであります。
 「自分を愛する」ことは人間として当然の姿であります。「自分が嫌い」という人がいます。自分の性格、自分でも嫌であると自覚しているのです。自分の姿が嫌いという人もいます。親はどうしてこんな自分に拵えてしまったのかというわけです。しかし、自分が嫌いと言いながらも、根本的には自分が大切であります。自分が不利になったり、人から悪く言われたりすると、やはり腹立たしく、相手を憎むようにもなります。生きている者は皆、自分が大切であり、自分を愛しているのであります。そういう自分でありますが、同じように、自分を愛するように隣人を愛しなさいと神様は示され、主イエス・キリストも示されているのであります。掟であると示されています。
「自分を愛するように隣人を愛する」との教えは、大変良い教えとして示されるのであります。しかし、もし私達がその掟のように生きるならば、これはなんと難しい教えではないでしょうか。嫌いな人がいます。どうもあの人は私には向かない。話をするのも億劫であるとも思っています。あの人を愛すなんて、考えられないわけです。しかし、私達はイエス様の掟を守らなければならないのであります。「愛する」というから、困難を感じるのです。あの人を受けとめて生きるということです。何とか理解しようとする姿勢です。それが愛でもあるのです。イエス様の掟を守って生きる者へと導かれています。主イエス・キリストの十字架の救いが、愛する者へと導いてくださるのです。私達の根本的な姿は自分中心、他者排除であります。自分中心は悪い姿ではありません。しかし、その姿勢が大きくなっていくと他者排除になり、他者を傷つけることになっていくのであります。人間は、どうしてもその根本的な生き方から脱却できません。克服できないのであります。神様は主イエス・キリストの十字架の死と共に、私達の根本的な自己中心を滅ぼされたのです。それにより私達はイエス様の掟を守ることができるように導かれているのであります。

 「フーテンの寅さん」という映画がありました。テレビでも毎週放映していましたので、楽しく見ていました。この寅さんの物語を大変好んでいる牧師がいます。教会を退任するとき、記念品として「寅さんシリーズ」をいただいたということです。この牧師が言われるには、寅さんと寅屋の家族は教会の原点であると示されています。いつも旅回りで仕事をしている寅さんですが、帰るところは寅屋でした。この家族は寅さんが帰ってくると、みんなで優しく対応しています。しかし、寅さんが腹を立てることがよくあり、また、旅に出かけてしまうのです。出かけては帰って来る寅さんを家族は喜んで迎えています。いろいろなもめ事を起こす寅さんですが、家族は真剣に関わっているのです。
 教会は家族です。いろいろな人が集い、交わりが導かれていますが、しかし、人間の集まりです。信仰の世界であっても、交わりが深まらないこともあるのです。教会を離れてしまう人もあるのです。しかし、またその人が帰ってきたとき、みんなこころよく迎えてくれるのです。いろいろな問題を教会の皆さんが祈りつつ、共に関わることになるのです。教会の皆さんの共通の原点は、イエス様の十字架の救いです。その十字架は神様がわたしたちを愛してくださっている基なのです。この十字架の愛に励まされて歩むことが、教会の皆さんなのです。主の家族は愛の家族なのです。一人の存在を心から受け止めつつ、共に歩む、愛のある歩みへと導かれるのです。
<祈祷>
聖なる御神様。愛することを教えられ感謝いたします。神様はイエス様を私達にお与えになりました。この神様の愛に応えることができますよう。主の名によって。アーメン。