説教「日々、祝福へと導かれる」

2015年5月3日 六浦谷間の集会
「復活節第5主日

説教・「日々、祝福へと導かれる」、鈴木伸治牧師
聖書・申命記7章6-11節
    ガラテヤの信徒への手紙4章1-7節
     ヨハネによる福音書15章12-17節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・433「みどりの柴に」
    (説教後)讃美歌54年版・351「友という友は」


 日本の国は、今はゴールデンウィークを喜びつつ過ごしていますが、本日は「憲法記念日」のお休みであります。このお休みの中には「昭和の日」、「子供の日」、「みどりの日」等がありますが、次の日曜日は「母の日」でありますので、このお休みを全体的には「家族の休日」との思いを持って迎えています。まさに、このお休みで家族の行楽を楽しんでいることでしょう。お正月や夏休みには家族と共に故郷に帰る人が多いのですが、ゴールデンウィークは家族のお楽しみが深まるでありましょう。この時期に、知人のご挨拶のお手紙をいただいています。すなわち職場が変わったご挨拶ですが、今は子供たちも大きくなり、それぞれ家を離れて生活しているので、夫婦二人だけの生活です、と記されています。昔の私達を思い出すお手紙です。子供たちが小さいときには、家族でいろいろな場所に出かけていましたが、大学でアパート暮らしのために家を離れ、就職したらしたで、やはり家には戻らない。そしてそのうち結婚ということで、家には戻らない子供たちなのです。若い皆さんもその様な経験をしているところであり、改めて家族を見つめながら過ごしていると思います。ゴールデンウィークの「家族のお休み」ということで、その様なことを示されていますが、本日は「憲法記念日」であり、日本国の平和憲法をしっかりと受け止めたいと示されています。日本国の憲法は「再び戦争はしない」と示していますので、この憲法を守らなければならないのであります。しかし、この平和憲法を変えようとする機運があり、深く憂慮するものであります。戦争を知らない世代が多くなってきています。悲惨な戦争、恐ろしい戦争を知らない人々が多くなっている中で、戦争は絶対に起こしてはならないと訴えなければならないのであります。
 憲法という大原則と共に、日常の約束事も守らなければならないと思っています。ここのところ毎年外国生活をしています。2011年にはバルセロナ、同じく2012年にもバルセロナ、そして2013年にはマレーシア、2014年にもバルセロナで過ごしました。それぞれ2、3ヶ月ずつ過ごしています。バルセロナで過ごしたときには、フランスのパリ、イタリアのローマ、フィレンツェ等にも行き、観光をしています。その様な国々で示されたことは、交通レールが正しく守られていないということです。道路を歩く場合、信号が赤でも、車が来なければ渡っていくのです。車が来てないのに、赤だからと止まっているのは、我々だけなのです。考えてみれば、車が来てないのに、信号が赤だからと、そこで立ち止まっているのは、時間がもったいない思いもあります。赤でも車が来てないのだから、決して危なくないので渡ってしまえばよいのです。それはそれで正しいのかもしれません。しかし、それは交通ルールを守っていないことになるのです。無益と思えても、ルールを守ることが大切なのであります。
信号を守る、守らないで、善悪を言おうとしているのではなく、それぞれ生き方の責任というものを考えさせられたのであります。赤信号であるから規則を守って止まっている。赤信号でも、渡っても差しさわりがなければ信号を無視する。この場合、信号とは何かということです。赤信号であるが車が来ない。いつまでも青になるまで待ち続けていることは時間の無駄でもある。だから渡る必要があるということになります。それは確かに規則違反でありますが、その違反は何の意味もないということになります。また、赤信号だから青になるまで待っていることの意味は何でしょう。規則だからですが、無駄な時間ではないでしょうか。ここで信号無視を奨励しているのではありません。この規則が自分にとって、今の状況においてどのような位置づけがあるかと言うことなのです。車が近づいているのに、時間の無駄であるからと、赤信号でも渡ることは規則違反です。この規則は車が近づいている状況において重要なルールになります。一つの状況の中で、ルールが必要な時があるのです。
 人間関係においてルールがなかったら大変なことになります。しかし、ルールがあるから相手を愛するというのではなく、人間は基本的に相手を受け止めて生きることが自然なのです。ルールには縛られないということです。しかし、人間関係において、無責任な人がいるから規則があり、法律が生まれてくるのです。人間が自然に相手と共に生きるならば規則も要らないし、法律も必要ないのです。人間は自然な姿で自由に生きることです。この自由を履き違える人がいるのです。真の自由を示されなければなりません。

 旧約聖書申命記により示しています。神様の戒めを守りなさいと教えているのです。この申命記モーセが聖書の人々に説教をしているのですが、その説教は神様の戒めを尊重し、守るということであります。聖書の人々はエジプトの奴隷でありました。400年間、長い間奴隷として生きてきたのです。その奴隷の人々に神様は恵みを与えます。申命記7章7節以下に、「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」と示しています。だから、聖書の人々は救いの神様として信頼し、神様の御心によって生きることなのです。神様の御心は人間が自然において共に生きることであります。しかし、人間は自然に任せて生きることは自由な姿でありますが、自由を履き違えてしまうのが人間の姿なのであります。自己満足、他者排除は自由を履き違えて生きることになります。そのため、神様はモーセを通して「十戒」を与えたのであります。十戒の第1戒から第4戒までは神様を尊重し、信じ、愛することです。第5戒から第10戒までは人間関係における戒めです。人間関係において、他者を尊重し、愛しつつ生きることなのです。「父母を敬え」、「殺すな」、「姦淫するな」、「盗むな」、「偽証するな」、「隣人のものを欲しがるな」と戒めています。
 この十戒は人間の自然な姿を保つために戒めているのです。結局人間は基本的な生き方ができないのであります。だから戒めているのですが、こんなことは戒められなくても当たり前のことなのです。当たり前のことが守られないので戒めとして与えられているのです。そこで、モーセ申命記7章32節以下で諭しています。「あなたたちは、あなたたちの神、主が命じられたことを忠実に行い、右にも左にもそれてはならない。あなたたちの神、主が命じられた道をひたすら歩みなさい」と教えています。人間の基本的な生き方は他者を尊重して生きること、愛して生きることであります。殺したり、姦淫したり、盗んだり、嘘ついたり、欲しがるということは、他者を愛しているのではありません。自己満足が戒めに反する生き方になるのです。本来は自然に生きるならば、このような戒めは必要ありません。人間が自然に生きることができないので、当たり前のような戒めを与えているのです。人間関係があるから、ルールを作ったということです。ひとりで生きることにおいてはこのルールは必要ありません。人間は複数で生きなければならないのです。
 中国の哲学者、思想家である孔子は、「仁」を示しています。人偏に「二」です。人が二人いるとき、そこに人間関係が生まれてきますが、相手を尊重し、受け止め、共に生きることが「仁」ということになるのです。本来、人間は自然な姿において、相手と共に生きるのですが、それができないので戒めが生まれてきます。その戒めを守るならば、「そうすれば、あなたたちは命と幸いを得、あなたたちが得る土地に長く生きることができる」とモーセは教えているのです。「あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。この方は、ご自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれるが、ご自分を否む者にはめいめいに報いて滅ぼされる」と教えています。戒めを守るのか、守らないのかと問うています。どうでも良いですよと言っているのではありません。「あなたは、今日わたしが、『行え』と命じた戒めと掟と法を守らねばならない」と厳しく命じているのです。どうでも良いことではないということです。人間関係において大切なことですから、今日、今、守りなさいと示しているのです。

 ヨハネによる福音書15章11節以下が今朝の新約聖書の示しであります。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」と主イエス・キリストは示しておられます。「これらのことを話したのは」といわれ、それは「わたしの喜び」があなた方の喜びとなるためであるといわれています。「これらのこと」というのは、15章1節から10節に示されていることであります。ここでは、イエス様は御自分を「ぶどうの木」であると示し、私たちが「ぶどうの枝」であると示しているのです。ぶどうの枝がぶどうの木にしっかりと繋がり、充分に養分をいただき、それによっておいしいぶどうの実が実るのであります。主イエス・キリストが神様の愛にとどまっているように、あなた方もぶどうの木にしっかりとつながっていなさいと示しています。「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」と示しているのであります。イエス様ご自身も神様の掟の中に、つまり御心の中に生きていることを示しているのです。これは申命記でも教えられているように、神様の基本的な戒め、十戒をしっかりと受け止めて生きることですが、それは戒めではなく自然の生き方なのであります。当たり前の生き方をすることが、神様の掟の中に生きるということなのです。「わたしが父の掟を守り」とイエス様は示していますが、当たり前に歩まれていることなのです。
 今朝の聖書の冒頭に「これらのこと」としていますが、このような当たり前の生き方をするなら、「喜びが満たされる」のであります。従って、主イエス・キリストもまた「わたしの掟」として示しているのです。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」との掟を私たちに与えておられるのです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と教えておられます。このイエス様の教えに向かうとき、自分の命を捨てなければならないのか、と考え込んでしまいます。三浦綾子さんの小説「塩狩峠」は友のために自分の命を捨てた人の物語です。塩狩峠を越えていく列車が、今上り坂を走っています。ところがどういうわけか、最後部の列車の連結が外れてしまいました。するとその列車は坂道を戻り始めるのであります。最初はゆっくりですが、次第に加速していきます。その列車には車掌が二人乗っていて、二人はハンドブレーキで一生懸命に止めようとしますが、ブレーキは利きませんでした。さらに加速していく列車の乗客は恐怖におののいています。すると突然列車は停車したのでした。人々は胸をなでおろしました。そのとき人々は一人の車掌が見えなくなっていることに気づくのです。その車掌が、自分の身体を車輪の下に投じたのでした。自分の命を捨てて乗客を助けたということです。 「自分の命を捨てる」ということで、まさに犠牲を考えてしまいますが、「自分の命を捨てる」とは、イエス様の愛をいただいて、その愛に生きることなのであります。

 ガラテヤの信徒の手紙3章23節以下で律法、掟の意義が示されています。律法とは、十戒を中心とするいろいろな戒めであります。人間の生き方の一つ一つを定めているのです。その律法について、パウロは「キリストのもとへと導く養育係」と示しているのです。つまり、子どもは生きる法則を知りませんので、親として規律を示し、約束事を教えるのです。しかし、いつまでも教えているのではありません。子どもは成長すると自分の責任において、一つ一つを判断して生きるのです。従って、律法というものは成長段階で必要なのであり、成人したなら必要ないのです。成長したらどのように判断するのか。それがイエス様が命令されている愛に生きることなのです。「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」との教え一つで生きるのです。このようにしなさい、そのようにしなさいといちいち教えられるのではなく、愛に生きるということは、自分の愛を人に向けることなのです。そこに自ずと道が示されてくるのです。人間関係が導かれてくるのです。
 先程も示されましたが、「仁」は二人の人間がいれば、何をしろ、このようにしろと決まりごとを教えられなくても、今一緒にいるこの人に、どう対処するか、自分の責任において示されてくるのです。それには今一緒にいる人を尊重することであります。同じく孔子の教えとして「信」があります。人偏に言葉を書きます。人の言葉を尊ぶこと、それが「信じる」ということになるのです。これらは主イエス・キリストの愛の教えに総括されます。愛は人間の自然な姿でなければなりません。いちいちこと細かく生きる道を教えられなくても、愛に生きるならば自ずと相手に対する所作が示されてくるのです。
 しかし、人間としての私たちはこの愛に生きることの難しさを知っています。自己満足、他者排除を持っているからです。だから、神様は主イエス・キリストを十字架にお掛けになって、人間が神様の愛を持ち、互いに愛し合う者へと導かれたのであります。イエス様は十字架により、私たちを愛によって真に自由に生きることを導いておられるのです。
<祈祷>
聖なる御神様。イエス様により神様の愛をいただき感謝いたします。人々を真に受け止め、まことの自由を持って歩ませて下さい。主の御名によりおささげいたします。アーメン。