説教「神様が下さる食物」

2015年4月26日 三崎教会
「復活節第4主日

説教・「神様が下さる食物」、鈴木伸治牧師
聖書・出エジプト記16章9-16節
    ヨハネによる福音書6章34-40節
賛美・(説教前)讃美歌21・333「主の復活、ハレルヤ」
    (説教後)讃美歌21・433「あるがままわれを」


 早いもので、今週で4月も終わり、5月の歩みとなります。5月になると、やはり初夏と言う思いが深まりますが、ゴールデンウィークから始まるので、喜びの5月となるのです。大塚平安教会在任の頃、二つの知的障碍者施設の嘱託牧師をしていまして、それぞれの施設では週に一度、礼拝をささげていました。今ごろになると利用者の皆さんに述べていたことがありました。「4月29日は何の日」と聞きますと、「天皇誕生日」と答えていました。昭和天皇の誕生日です。昭和天皇は1989年1月に亡くなりますので、それまでは4月29日は天皇誕生日としてのお休みでした。それでは「5月5日は何の日」と聞きますと、皆さんは「子供の日だよ」と言います。「では5月の第二日曜日は何の日」と聞きますと、「母の日だよ」と言うわけです。それで聞くのをやめにすると、利用者の皆さんの方から、「まだあるじゃ」と言うのです。「園長と牧師先生の誕生日だよ」というのでした。それ以前は、いろいろ聞いた後で「それでは5月10日は何の日」と聞いていたのです。利用者の皆さんは最初は分かりませんでしたが、さがみ野ホームの園長であった佐竹正道さんと私の誕生日が5月10日であることを知るようになり、こちらから尋ねなくても、皆さんがお祝いしてくれるのでした。毎年、今の時期、施設の礼拝を思い出しています。
 2010年10月から無任所教師となり、どこの教会にも所属しなくなりました。そして2011年6月から隠退教師になり、家の中に引っ込むようになりました。先週22日の読売新聞を見ていましたら、高齢者が人と話をしなくなると、知的後退が進むということでした。高齢者でもいつもおしゃべりしている人は、知的後退が進まないということでした。一週間に一度でも、人とお話しすることが大切であるということです。その意味で、隠退牧師である私が、こちらの教会のお招きをいただくこと、高齢化対策として、ありがたく感謝している次第です。第二日曜日は横須賀上町教会のお招きをいただいております。その他は夫婦二人でありますが、二人で礼拝をささげていますので、これも高齢化対策になっているのであります。なるべく礼拝に出席して、賛美をささげ、皆さんとお話しをすること、高齢化対策であることを申し上げているのであります。お若い皆さんにとっても、讃美歌を大きな声でささげることは、美容にもよろしいと言われています。以前、知り合いの若い女の子に、「なんか、最近きれいになったね」なんて儀礼的な言葉をかけました。そしたら、「はい、毎日、お経を唱えていますので」と言われてしまいました。その人が、ある宗教を信じていることを知っていましたが、一本取られたと思いました。皆さんも、「きれいになった」とか「若くなった」なんて言われると思います。そしたら、「はい、日曜日に教会で讃美歌を歌っていますので」とお応えになったら良いと思います。
 余談でありましたが、私達が何かに集中しているということ、それが元気の秘訣であるということです。聖書は、私達の元気の根源は神様が私達の命に必要な食べ物をくださっている、と示しているのであります。「神様が下さる食物」で元気になる、今朝はそのテーマで御言葉を示されているのであります。

 聖書を読みますと、全体的には神様が私達に食物をくださっていることが記されていることを示されます。まず、本日の聖書で、マナというパンが与えられますが、この示しが基となります。新約聖書では、イエス様が「わたしは命のパン」であると示されるのです。そして、そのイエス様のパンをいただくことが、信仰を養う原点になるのです。それが聖餐式というものです。神様が下さる食物をいただく、それが元気のもとであると聖書は示しているのです。聖餐式で具体的に命のパンをいただきますが、私達は教会において、ささげる礼拝から力をいただいているのです。ある意味では、何時ものように、日曜日であるから礼拝に出席はする、ということですが、当たり前に思っていることではありますが、私達にとって、日曜日に礼拝をささげつつの生活は活力なっているのです。ですから礼拝に出席できなくなるということ、寂しいというか、力をなくすと言うか、生活の原点を失うようでもあるのです。本日も皆さんと一緒に礼拝をささげること、私達の命の根源であることを示されているのであります。
 旧約聖書出エジプト記16章であります。この16章の題は「マナ」と言うことであります。神様が「マナ」というパンを与えて、聖書の人々を40年間養ったのですが、その始まりの部分が本日の聖書であります。聖書の人々はエジプトに寄留の民として住むようになります。それは族長としてアブラハム、イサク、ヤコブと続きますが、ヤコブの時代にエジプトに渡るのです。全国的に飢饉が続き、エジプトには食料があるということで、渡ることになるのですが、そこには神様のお導きがあるのです。ヤコブの子供ヨセフがエジプトの王様に次ぐ大臣になっていたのです。そのあたりの物語は割愛しますが、エジプトに住むうちにも、聖書の人々がエジプトに住んでいることの経緯を知らない王様の時代になり、他の民族が増大することに恐れを持ち、奴隷にしてしまうのでした。400年も苦しい時代が続くのです。その苦しみを、神様はモーセを立てて救い出したのでした。
 今朝の出エジプト記は、そのエジプトを脱出して間もなくのことです。ある意味では、突然のようにエジプトを出てきたのです。予め備えておいて、いろいろな物を準備して出てきたのではありませんでした。従って、食料等も有り余って持ち出したのではありません。瞬く間に食べる物が無くなります。食べる物がないという現実に、当然人々は不平を言いだすのでした。16章3節にはこの様に不平を述べています。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」とモーセに詰め寄るのでした。聖書の人々は奴隷として重い労働で苦しく生きていますが、食べ物については自由に食べることができていたのです。しかし、荒れ野を旅するうちにも食べる物が無くなります。このように人々が食べる物がない状況を神様は受け止めていましたので、すぐに導きを示しています。「天からのパン」を与えると言うのです。夕方になると「うずら」が飛んできます。うずらの卵は小さいのですが、うずらは丸く太って肉が多く付いていると言われます。人々はそのうずらの肉を食べました。さらに朝になると地面に露がおります。その露が蒸発すると、霜の様なものが一面に残るのでした。それが神様の与えたマナと言う食べ物でした。いわゆるパンとして与えられたのでした。人々は毎朝与えられるマナによって、40年間の荒れ野の旅を続けたのでした。聖書のヘブル語で「マナ」と言いますが、新約聖書の中にも出てくるアラム語では「マンナ」と言います。日本語では「マンマ」ですが、基本時には同じであります。このマナは神様が下さる食べ物なのです。
 神様は毎日、人々にマナを与えて養いました、欲張りな人がいて、朝のマナを余計に集めて保存しようとしますが、多く集めた分は腐ってしまうのです、毎日の糧としていただくことなのでした。旧約聖書は、この様に神様が与えてくださる食物によって、人々は力を与えられ、常に新しい一歩を踏み出していったと報告しているのです。

 新約聖書になりまして、今朝はヨハネによる福音書6章でありますが、旧約聖書で示された、食べることの根源が記されています。ここでも神様が命のパンを与えておられるのです。今朝は6章34節からでありますが、6章1節以下を示されておかなければなりません。そこにはイエス様が5000人の人々にパンを与えたことが記されています。イエス様のもとに大勢の人々が集まってきました。その大勢の人々に対し、イエス様はお弟子さんのフィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われました。するとフィリポは「200デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えています。こんなに大勢の人がいるので、いくらパンがあっても、人々を養いきれないとあきらめた言い方をしているのです。その時、他のお弟子さん、アンデレが、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」と諦めきった言い方をします。そこで、イエス様は少年が持っていた、たった五つのパンでしたが、祝福のお祈りをして、5000人の人々にパンを与えたのです。魚も二匹でしたが、やはり祝福のお祈りをして5000人の人々に与えたのでした。何か不思議なことが記されていますが、旧約聖書と言い、私達人間には不思議なことであるとの思いでありますが、神様は現実にお導きを与えてくださるのです。まさに神様のお導きは不思議なことであります。これは聖書が記しているのであり、現実にはこんなことはありえないと思うでありましょう。しかし、聖書の読み方は、その様な不思議な物語を通して、私達の現実の生活の中にも力強い奇跡が与えられていると示しているのです。
 このパンの奇跡を経験した人々が、いつもイエス様の周りにいました。あの感動をもう一度と言うわけです。そこで、イエス様はついてきた人々に言います。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と示しています。パンの奇跡は、確かに人々を養いました。しかし、本当に養われなければならないのは、永遠の命への道であったのです。パンを食べて、これは神様の御心であり、永遠の命への導きであると示されなければならないのであります。イエス様が、「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われましたので、人々は「神の業を行うためには、何をしたら良いでしょうか」と尋ねています。するとイエス様は「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と言われました。要するにイエス様が神様から遣わされているのであるから、イエス様を見なさいと言っておられるのです。すると人々は、「わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。あなたはどんなしるしを見せてくれるか」と言うのです。するとイエス様は「神のパンは、天から降ってきて、世に命を与えるものである」と言われますが、これは後の十字架の贖いを示していますので、人々には意味が分からないのです。だから、人々は「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うのです。そこでイエス様は言われました。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と示しておられるのです。イエス様ご自身が神様からの食物であり、また渇くことがない命の水であると示しているのです。そして、イエス様は神様の御心を行うために世に現れたのであり、神様の御心である「人々が永遠の命を得る」ためであるということなのです。私達が教会に導かれて、日曜日には礼拝をささげていますが、それは私達が永遠の命へと導かれるためなのです。礼拝において、いつも十字架のイエス様を示されること、私達が永遠の命へと導かれることなのです。

 今年の3月の末から4月の始めにかけまして、私共の家にお出でくださる皆さんが多くおられました。3月29日は清水ヶ丘教会でお交わりをした方、そして翌日の30日には前任の大塚平安教会の幼稚園の先生がお二人お訪ねくださいました。そして、4月5日のイースター礼拝は、六浦谷間の集会は9名の礼拝出席でした。さらに4月7日には、私の最初の教会である青山教会の方がお二人お訪ねくださいました。こうして皆さんと懐かしくお交わりを重ね、共に食事をいただきながら、この様なお交わりが、イエス様の「命のパン」をいただくことであると示されたのでした。食事をいただくことは神様のお恵みを喜びあうことです。まさに「命のパン」を共にいただいていることになるのです。
今年はいろいろな皆さんがお訪ねくださり、お交わりが深められたのですが、スペインにいるときを思いだしていました。今回も二ヶ月半、バルセロナで過ごしましたが、思い出す限り、皆さんと食事をしたことです。実に多くの皆さんが食事に招いてくださいました。招かれるということはお招きをするということでもあります。こうしてバルセロナでは皆さんとたくさんの食事会をしました。その食事でありますが、スペインの皆さんは、本当に良くお話しをします。なんだか知らないのですが、いつまでもお話ししています。娘の羊子に、皆さんは、今は何を話しているのか聞きました。そしたら、美味しいケーキ屋さんがあって、そのケーキ屋さんに行くにはどの道を行き、何時頃に行くとか、そんな話であるということでした。娘の羊子の誕生日で皆さんをお招きしました。日本的に巻きずしを作って皆さんに食べてもらいました。その後はケーキを食べたり、ワインやカヴァを飲んだりしてお話しが続きます。もう翌日の1時にもなっています。さすがにその頃になると、皆さんも帰ろうとしています。だから、テーブルから立ち上がって、帰る支度をしているのですが、そこでのお話しが長いのです。玄関でいつまでもお話しをしているのです。最後のお一人を送りだして、もう2時にもなっていました。良く食べて、良くお話しをして、日本人の私達は、慣れないお付き合いですが、大切なお交わりであるのです。食事のお話しをしていますが、皆さんと共に食事をする、イエス様の「命のパン」をいただいてお交わりを深めているのです。
 私達が人との交わりを深めるとき、神様が食物をくださっているのです。一人の存在に心をむけることで、イエス様のお導きが与えられるのです。神様のお導きをいただきながら人生を歩むこと、永遠の命が与えられることを示されたのであります。
<祈祷>
聖なる神様。神様が下さる食事を感謝いたします。イエス様の「命のパン」をいただきつつ歩ませてください。主イエス・キリストのみ名によりおささげします。アーメン。